第18話 それは誰かが望んだ景色




 翌朝、私の部屋を訪れたアルノシュトは勢いよく尻尾を振っていて、機嫌よく頬擦りをしてきた。昨日までであれば彼がこんな行動に出たら痛みで苦しくなっていた胸も、別の意味で鼓動が早くてぎゅっと詰まって苦しい。


(いけない、今日は……昨日の行動の意味を、問いただすのだから)


 何故、正式な夫婦で番と思うようになったはずなのに寝室は別のままなのか。何か文化や風習の違いがあるのか、それを尋ねなければならない。

 こういう話は朝食後にしよう、とまずは二人で厨房へと向かった。私たちの姿を見たゴルドークが何やら嬉し気で、朝食はいつもより豪勢に量を増やされている。……目に見える変化があるのだろうか。


 食事中もずっとアルノシュトの尻尾は機嫌がいい。昨日の出来事が夢ではなく、お互いに気持ちが通じた証ではある。それに温かい気持ちになって色々と許してしまいそうになったが私は昨日、部屋に一人置いて残されたことにモヤモヤとしながら眠りについたのだ。

 食事を終えて食器をカートへと移した後。食後に温かいお茶を蒸す待ち時間に尋ねてみることにした。



「アルノー様。お尋ねしたいことがあります」


「ん、どうした?」


「……何故、まだ夜を別室で過ごされるのですか?」



 勢いの良かった尻尾がピンと立って固まってしまった。ワインレッドの瞳をそっと逸らした彼は「それはだな」やら「その、なんというか」やらかなり口ごもってから説明してくれた。



「俺は今、初めての繁殖期で……本当なら、思春期の頃に迎えるはずなんだが、上手く自分の欲を制御できずに抑制剤を飲んでいる」


「繁殖期……? それに抑制剤とは何ですか?」



 獣人にはそれぞれ種族ごとに繁殖期がある。そのほとんどは春や秋であり、その季節はどうしても子孫を残したいという本能が強くなるそうだ。その中で狼は、番と認めたが傍に居なければ繁殖期が訪れない種族である。アルノシュトは私に恋をしたけれどずっと私と離れていたので今ままでその経験がなかった。

 そして初めての繁殖期は強い衝動を覚えるので、薬で抑制するのが常識だという。さすがにこれはマグノにはない事情で想像もできず驚いた。



「その抑制剤を飲んでいると……夫婦の寝室を分けなければならないのでしょうか」


「いや、薬を飲んでいても強い衝動に駆られて貴女を傷付けそうなのが怖い。……ので……せめて、冬を迎えて一度落ち着いてから……と考えて、いる」



 アルノシュトは昨夜、私に「貴女を大事にする」と言っていた。それはつまりこのことなのだろう。優しく真面目な彼らしいと言えば彼らしい。だがしかし、しっかり説明してもらわねば私には分からない。何故、と一晩中悩むことになってしまった。



「アルノー様。それは私にも話していただかなければ困ります。私は、全く文化も風習も違う隣国の花嫁として、ここにいるのですから」


「す、すまない」


「私はもう、勘違いもすれ違いもしたくありません。ですからアルノー様、何かある時はすべて教えてくださいませ」



 違いを知るためにも言葉が必要だ。全く文化の違う二つの国で結ばれたこの夫婦関係を良いものにするためには、何よりも互いの考えや思いを相手に伝える努力がいる。私はそれを昨日、はっきりと自覚した。



「貴方だけにそれを求めるつもりもありません。私も包み隠さずお話しします。……せっかく愛しい御方と想い合っていると分かったのに、その御方と夫婦であるというのに、夜を離れて過ごしたのはとても寂しかったです。……昨夜、貴方に愛されたかったのですよ私は」


「ぅぐ……っ」



 アルノシュトが顔を押さえて俯いた。その尻尾ははちきれんばかりに振られている。その感情は正の方向に振り切れているように見えるが、聞いてみるまでは分からない。彼の言葉が返ってくるのを大人しく待った。



「……今、フェリシアが愛おしくて、愛したくてたまらない気持ちだが……やはり、こんな状態では貴女を傷つけかねない、と思うし、そうなったら俺は自分を許せない。……もう少し、待っていてほしい」


「分かりました。……冬まで、ですね?」


「ああ。……冬まで、だ」



 彼の症状は冬の訪れと共に一度落ち着くという。冬はもうすぐそこまで迫っているのだから、それならば今しばらくの辛抱だろう。



「冬はベッドの中に入ると冷たくて苦手でしたけれど……今年からはもう、寒くなくなるのですね」



 生まれて初めて冬が待ち遠しい。尻尾を振り続けていたアルノシュトがようやく顔をあげたが、その頬は真っ赤に染まっていて、唇を固く結んだ真面目な表情が恥ずかしがっているようにしか見えなかった。



「……冬までに落ち着かなかったらすまない」


「まあ……そんなことがあるのですか?」


「分からない。だが、俺は……それくらい、貴女が好きだ」



 どうやら私にも彼の熱が移ったようだ。顔が熱くなって自分の頬に手を添える。なんともむず痒い無言の時が流れる中、すっかり冷めた上に渋くなったお茶を口にしたらなんだか可笑しくなってきた。

 小さく笑っている私を見るアルノシュトの表情は柔らかく、鋭いはずの目も優しく見える。その後は穏やかに過ごして、正午を過ぎた頃に彼は訓練に行くと出て行った。


 いつもならミランナが遊びに来ている頃である。しかし彼女はさらにそのあと一時間は経ってから姿を見せた。昨日、ゆっくり来ると宣言していた通りだ。



「フェリシア、おめでとー!」


「え、急にどうしたの……?」


「だって、アルノシュトと番になったでしょ? 子供も早く生まれるといいね!」



 ミランナがキラキラと輝くような目でお祝いしてくれた。確かに私は彼の番になったのだろう。けれど子供の話はまだはやい。私が曖昧に笑っているとミランナは何かに気づいたように尻尾を立てながら瞳孔を細くした。



「まさか……たしかに、においが薄い……」


「ええと……その、ミーナ?」



 ミランナが私に抱き着いてきた。しかしいつものように頬ずりするのではなく、首元のにおいを嗅いでいる。私から離れる頃には尻尾と耳の毛を膨らませていた。



「番にならなかったの!? アルノシュトを問いたださなきゃ!」


「あのね、ミーナ。違うのよ。……その、説明するから、聞いてくれる?」



 マグノであれば夫婦間の事情など聞くものではない。しかしヴァダッドではどうやらそうでもないらしい。なぜなら夫婦関係の有無は対面の距離でもにおいで理解できてしまうものだから、隠しようがないためである。

 彼女は昨日、手紙の相手がアルノシュトだと聞いて私よりも先に彼の気持ちを察した。だから番の夜を過ごせば疲れるだろうからと気を効かせてゆっくり来てみれば何もなかったことに驚き、アルノシュトがまだ何も言えずに私を悩ませているのかと憤慨してくれたようだ。その誤解はしっかり解いておく。



「そっかぁ……なんだ、それならいいや。フェリシアは今幸せ?」


「ええ。……幸せよ」



 それは間違いない。本心から言える言葉だった。これ以上など求められるはずがないとどこか諦めていた頃とは違う。私は今、この先のさらなる幸福を求めることができるという状況にあるのだ。幸せでないはずがない。



「そっかそっか。うん、その笑顔はきっと本当に幸せだね。見たことないもん!」



 見たことのない笑顔だと言われて自分の顔を触った。私を見ながら目を細めるミランナも、笑ってくれているように見える。

 その日の夜、アルノシュトが訓練から戻ってくると一緒にシンシャがいた。二人で居るのはなんだかんだ初めて見たので珍しいと驚く。



「おかえりなさい。シンシャもこんばんは」


「おかえりアルノシュト! 今日は兄さんも一緒なんだ?」


「ん……ただいま。変わりなかったか?」



 最近そっけなかったミランナから元気よく挨拶が飛んできたことに驚いている様子のアルノシュトはこちらに歩いてくる。シンシャは片手をあげただけで返事をするとあまり使われていないソファの方に向かっていき、ごろりと寝転がった。相変わらずとても自由な人である。



「アルノシュトごめんね。私、ずっと思わせぶり野郎だと思ってて」


「……いや……あれは俺が悪い」


「うん、あの行動はダメだと思う。フェリシアがかわいそうだった」


「……それはシンに言われて気づいた。ミランナにもいろいろ気遣わせたようで、すまない」



 黒い耳と尾がしゅんと垂れ下がる。ミランナのあけすけな物言いは彼の心に刺さってしまうようだ。シンシャからも話をされていたというので、私が見かけなかっただけで二人はよく会っていたのかもしれない。



「私もアルノシュトに態度悪くなってたからいいよ。それに今のフェリシアはとっても幸せそうだし。ね?」



 ミランナが抱き着きながら私の顔を覗き込んできた。それに肯定を返して笑っていると、アルノシュトが尻尾を振りかけては止めるという妙な反応を見せる。



「どうかしましたか?」


「いや……ミランナがうらやましいな、と。俺も貴女を抱きしめたい」


「アルノシュトは冬までダメなんでしょ。それまで私がフェリシアを抱きしめててあげるからね! 任せて! あ、なんなら泊まっていい? 一緒に寝ようよー」


「…………冬が待ち遠しいと思う」



 二人のやり取りがおかしくて笑った。それを見て空を切る音を立てる尻尾と、耳元で聞こえるミランナの機嫌のいい喉の音が心地よい。

 ふと、視線を感じてソファの方へ視線を向ける。シンシャが目を細めて笑うように、こちらを眺めていた。



「俺の言う通りだっただろ、フェリシア」



 それはまだ、私がヴァダッドに来たばかりの頃。夜に訪れたシンシャが「面白いことになりそうだ」と言っていたのを思い出す。私としてはこれは「楽しいこと」「幸せなこと」という言葉の方が合っている。けれど、彼は面白いものを見るようにこちらを見ているので、彼の言い分も間違いないのだろう。

 

(……シンシャはこうなるのが分かっていたのかしら?)


 空気を読むのが上手いこの白猫なら、それも不思議ではない気がした。彼は見えないところで人を助けてくれるようなところがあるから、もしかすると私の知らないところでいろいろとやってくれていたのかもしれない。



「なに、何の話? フェリシアと兄さんも仲いいの?」


「どうなのかしら。でも私はシンシャにも感謝しているの。とてもいい人よね」


「おい、目の前で褒めるなよ。アルノーが嫉妬するだろ」 



 シンシャが頭を搔きながら起き上がり、こちらに歩いてくる。アルノシュトはといえば、神妙な顔で頷いて「たしかに妬いてしまう」などと真面目に言っているものだからおかしくて仕方がない。


(想像、していなかったわ……こんな未来は)


 白い花嫁衣裳に身を包み、マグノを出発した時。この政略結婚に、幸福な未来は想像していなかった。酷い扱いはされないだろうと思っていたけれど、私を大事に思ってくれる人が何人もできるなんて思いもしなかった。

 怒るなよ、とアルノシュトの肩を抱くシンシャ。兄さんも仲良くすればいいじゃん、と私に抱き着くミランナ。アルノシュトは無言だが、その黒い尾は音を立てて振られている。その中に私がいて、自然と湧き上がる幸福感に笑い声を漏らす。


 私はヴァダッドの、アルノシュトの花嫁で本当によかったと。この先にはまだ、やるべきことも大きな苦難もあるかもしれないけれど、それだけは絶対に間違いないと、今目の前の光景に対してそう、思った。


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一匹狼の花嫁~結婚当日に「貴女を愛せない」と言っていた旦那さまの様子がおかしいのですが~ Mikura @innkohousiMikura

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