第17.5話 side:アルノシュト



 日が沈み切った頃、アルノシュトが屋敷へ戻るとフェリシアの姿はなかった。探してみると彼女の部屋に書置きが残されているの見つけ、それを手に取る。


『手紙の御方に会いに行って参ります。少し遅くなるかもしれませんが、心配なさらないでください』


 フェリシアの整った美しい文字だ。獣人に偽装できるものではないので間違いなく彼女の書置きである。文通相手であるアルノシュトがここにいる以上、フェリシアは待ちぼうけとなってしまうだろう。


(まさか宴の翌日だったとは……今から行くのは、遅いか? フェリシアもすでに諦めて帰ってきている頃だろうか)


 フェリシアが時間を指定した手紙は見つかっていない。風で飛ばされたということはないと思うが、小動物が持って行ってしまった可能性はあるだろう。もしくは、誰かに盗まれたのかもしれないがしかし、誰とも知れぬ人間の手紙をわざわざ盗んでいく理由も分からない。

 どちらにせよ今日、話すつもりではあった。フェリシアが戻ってきたら正直に、手紙を紛失して時間が分からなかったのだとそう告げて、会いに行けなかったことを謝ろう。


 ――そう思って彼女の帰りを待っていたが、遅い。日が沈んで一時間以上は経っている。もしや何かあったのかと、やはり探しに行くべきかと落ち着かず、フェリシアの部屋にもう一度書置きを確認しに行った。


(他に何も書かれてはいない、な。遅くなるとは……どのくらいなんだ。やはりまだ、待っていて……?)


 それならば今からでも向かうべきだ。そう思い直したところで部屋の扉が開かれ、とても機嫌のよさそうな顔で現れたフェリシアに驚いた。……待ち人が来なくても、そんなふうに笑っていられるものだろうか。



「書置きを見ていらしたところでしたか。ただいま戻りました」


「おかえり、フェリシア。……勝手に入ってすまない」


「いえ、構いません。私もそのつもりでここに書置きを残しましたから」



 彼女はとても明るい表情で、こらえきれないという雰囲気の笑みを浮かべながらアルノシュトの傍までやってくる。とても、約束した相手が現れずに落ち込んでいるようには見えなかった。

 フェリシアの様子に嫌な予感を覚え、耳や尻尾に重さを感じながらその疑問をぶつけてみる。



「……フェリシア、機嫌がよさそうだが……手紙の相手には、会えたのか?」


「ふふ。それが、聞いてくださいませ。私が手紙の方を待っていたら、空からラナが降りてきまして」


「……ウラナンジュが?」



 何故そこでウラナンジュが出てくるのか分からないが、アルノシュトの頭には一つの嫌な予測が立った。つまり、手紙を盗んだのはウラナンジュであり――彼は、フェリシアの文通相手として彼女の前に現れたのではないかと。



「“自分がその手紙の相手だと言ったら驚くか”と言われて、私」


「違う……!」



 とられてしまう。咄嗟にそんなことを思って、腕を伸ばした。か細い体を搔き抱くように腕の中に収める。逃さぬように、誰にも奪われぬように。

 違う、ウラナンジュじゃない。八年前から積み重ねてきた時間も、気持ちも、すべて奪われてしまうなんてとても耐えられなかった。彼女から刺繍のハンカチを贈られたのも、彼女に結い紐を贈ったのも全部アルノシュトだ。ウラナンジュでも他の誰でもない。



「俺だ、フェリシア。ウラナンジュじゃない。貴女の手紙に何度も救われて、貴女に鈴蘭のハンカチを貰ったのは俺なんだ……っ! 俺には貴女だけしかいない。貴女だけが好きだ。だから、他の男には」


「っ……あるの、さま、くるしい、です……!」


「! すまない、大丈夫か……!?」



 普段から脆そうだか弱そうだと思っているのに強く抱きしめすぎた。力を緩めると彼女は赤く染まった顔で軽くせき込んでいる。申し訳ない上に情けない。悪いと思っているはずなのに、腕の中から解放できずにいる自分がみっともなくて仕方がない。……そうでもしなければ、離れて二度と触れられない気でもしているのだろうか。



「大丈夫、です」


「よかった……すまない。我を忘れてしまって……」


「いえ……ラナが言ったとおりでした」


「……どういうことだ?」


「私の文通相手はアルノー様だと。おそらく言い出せずに悩んでいるので、私から話してみればよい、と」



 おそらく今のアルノシュトはずいぶんと情けない顔をしているのだろう。腕の中のフェリシアは笑いながら話してくれた。

 ウラナンジュは始めこそ自分が文通相手と捉えられかねない言い方をしたが、フェリシアが「違う気がする」と答えれば素直に別人だと認めた。ただ彼女を見かけて何をしているのか気になり、手紙を見つけたウラナンジュは、誰が来るのか確認してから手紙を返してやろうと思ったらアルノシュトが現れたので――。



「返す気がなくなったそうです。風下に隠れていてよかった、と」


「……あの忌々しい梟め……」



 梟族は非常に夜目が効く。だから見え過ぎぬように色のついた眼鏡をかけている。それが己の見える限りの範囲で大きく距離を取り風下にいたのならアルノシュトに見つけられないのも道理であった。

 どうせ手紙を探して大木の周りをうろうろと歩き回っていたのも見ていたのだろう。それをあの男に見られていたのかと思うと羞恥と怒りが湧いてくる。

 それにこんな時間までフェリシアと話し込んでいたというのも心底腹立たしい。しかもアルノシュトにとってとても大事な場所だ。そこで、彼女と二人きりで話をしたというのだろうか。それは逢引と言っても過言ではないはずだ。

 狼の妻だと知った上で逢引をしようなど夫に嚙み殺されても文句は言えないだろう。うなり声も漏れそうになるが――そもそも、アルノシュトがフェリシアに事実を打ち明けておらず、周りの誰もアルノシュトとフェリシアを“番”としては認識していないと思い出して気分が沈んだ。



「……先ほどの言葉は、本当でしょうか?」


「ん、そうだ。俺が貴女と手紙のやり取りをしていた」


「いえ、そちらではなく。……私のことが好きだと」



 アルノシュトの心臓がどきりと跳ねるのに合わせて尻尾がピンと立った。感情が乱れて勢いで口を滑らせてしまったことを思い出す。シンシャに相談に乗ってもらい、まず手紙の相手であることを証し、それからちゃんと誤解を解いてフェリシアへの好意を伝えるという順番を立てていたのに。

 これでフェリシアに拒絶されたらアルノシュトは二度と彼女への好意を示せなくなる。もっとしっかり、事情を話してから伝えるべきだったと血の気が引いていく。



「……私のこと……なんども、愛せない、と……」


「それは……本当に、すまない。俺は貴女に鈴蘭の刺繍をもらった時から……ずっと貴女が好きだった。貴女を、探していた」



 話す内容はまとめていたはずなのに上手く話せない。とりとめのない話をフェリシアは俯きながら黙って聞き、アルノシュトの言葉が止まるとようやく顔を上げた。美しい小金の瞳に涙がたまっていて、酷く慌てる。何故泣かせてしまったのかが分からない。



「もっと早くおっしゃってください。傷つきました」


「す、すまない……」


「私は貴方が愛せないとおっしゃったから、それを受け入れようと……貴方への気持ちをどうにか、捨ててしまおうとしていたのに……」



 細腕が弱い力でアルノシュトの体を抱いた。何が起きたのか、何を言われているのか。一瞬理解できずに呆けていると、服を引っ張られて意識を戻される。

 真っ直ぐ見つめられれば伝わってくる。彼女は自分を求めてくれているのだと。何故それに、もっと早く気づけなかったのだろうか。



「私はアルノー様をお慕いしております。……そして私も、六年もの間貴方に辛い思いをさせてごめんなさい。あの時のハンカチは友人への贈り物でしたが……今度は、妻としての愛情を込めて贈らせてくださいませ」



 嬉しくないはずがない。すでに彼女からは三枚の刺繍入りハンカチを貰っている。しかしそのどれも、番としての気持ちが込められたものではなかった。今度こそ、本当に。アルノシュトが望んでやまなかったものだ。



「……ああ、もちろんだ。……フェリシア、好きだ。貴女を愛してる」

 

「はい。……私も愛しています」



 唇を重ねてもフェリシアが逃げることはない。受け入れて貰えたことが何よりも嬉しい。

 相手の唇に自分の唇で触れるのはどの種族にも共通する愛情表現で、番になる者同士にしか許されない行為でもある。政略結婚で結ばれた、続柄だけの夫婦ではない。これからは番として彼女を愛していいのだと。……そしてハッとする。


(……こんなに細くて弱いフェリシアを……壊れて、しまうのでは?)


 しかも今のアルノシュトは自分の欲を自分で制御できずに薬に頼っている有様だ。このまま番らしく夜を過ごすなど、そのような危険なことを愛しいフェリシアにさせられるかといえば、させられるはずもない。

 ようやく手に入れた、ずっと想い続けていた大事な番なのだ。壊れ物のように扱って、決して傷つけないようにしたい。


 食事を共にした後、フェリシアはどこか気恥ずかしそうに指を組みながら、己の指先を擦り合わせていた。



「そろそろ入浴をしようかと思います」


「ん、そうか。なら俺も貴女の後に入ろう」



 離れるのは名残惜しい。本当はひと時も離れず傍に居たい。しかしそれではいつ薬の効果が弱まって、繁殖期の本能がむき出しになるか分からない。フェリシアを大事にすると決めたのだから、と己を制して立ち上がる。



「同じ部屋で眠るのは危険だ。だから、また明日」


「……え?」


「俺は貴女を大事にする。……おやすみ」



 驚いたように目を丸くするフェリシアの鼻先に口づけを落とし、自室へと戻った。今日もまた泊りに来ていたシンシャがアルノシュトの姿を見てきょとんとしている。



「戻ってくるの早くねぇ? ……告白、したんだよな?」


「ああ」


「その様子じゃ成功したんだろ? ……戻ってくるの、早くねぇ?」



 シンシャが何を言っているのか理解するまでに数秒かかった。つまり彼は仮の夫婦ではなくしっかり番になって、その上婚姻済みなのに子供を作る行為に及ばなかったのか、と尋ねているのだ。



「……俺が抱い愛したらフェリシアを傷付けそうでな……」


「はぁ!? おま……待て、お前抑制剤を規定以上に飲んでるんじゃないだろうな」


「ん、よく分かったな。今朝は三粒飲んだ」



 抑制剤は本来一日に一粒だ。二粒でも効きが鈍いと感じたので三粒に変更したばかりである。それを聞いたシンシャは深いため息を吐いた。



「あのな、好きな女抱きたくなるのは正常なんだよ。繁殖期はそれが強くなりやすいし、お前の場合は初めてだからもっと強いんだろうけど……あっちゃいけないものじゃねーの。お前飲みすぎてあるべき欲まで減ってるだろ」


「…………昨日まではあってはいけないものだったんだ」


「ったく……多分フェリシアも怒ってるぞ。明日はちゃんと話せよ」



 フェリシアが怒っていると言われて、その理由が分からずアルノシュトは首を傾げた。そんな姿にシンシャは思い切り呆れたように欠伸をして、ソファに身を沈める。



「まあ、明日が楽しみだな。痴話喧嘩は猫も食わないから、俺は夕方まで出かけるぜ」



 そしてそんなシンシャの言葉通り、翌日のアルノシュトはフェリシアに詰められることになった。



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