第16話


 昨日の疲れのせいか、気絶したせいか。目覚めると日は随分と高くなっていて、時間を確認したら正午を過ぎていた。

 アルノシュトはあの後気絶した私を運んで寝かせてくれたのだろう。結い紐は枕元に置かれていて、服は昨日の宴衣装のままだったため、少し慌てて脱いで皺になっていないことに安堵する。せっかくなのでそのまま風呂の用意をして、身を清めることにした。


(今日は約束の日ね。……アルノー様に言いそびれてしまったわ)


 目が覚めた時にはアルノシュトが出かける時間になっていたのだ。手紙の相手に会いに行く時は言ってくれと頼まれていたのに申し訳ない。帰るのが遅くなるかもしれないから、せめて書置きを残していこう。

 手紙の相手はどんな人だろうか。それを考えればわくわくと心が躍ったし、つい浴槽で歌を口ずさんでいたら浴室がノックされて少し驚く。続いて聞こえたのは聞きなれたミランナの声だった。



「フェリシア、お風呂入ってるの?」


「え、ミーナ? ……もうそんな時間?」


「いつもの時間だよー」


「ごめんなさい、直ぐに出るから部屋で待っていて」



 私が部屋にいなかったから浴室まで探しに来てくれたのだろう。彼女には暫く自室で待っていてもらうことにして、急いで浴槽から出た。すぐに魔法で髪の水分を取り除き、服を着て浴室を後にする。



「お待たせ。待たせてごめんね」


「いいよー。でもこんな時間からお風呂に入るなんて珍しいね。……手紙の人に会うから?」


「ふふ、違うわ。昨日の宴で疲れてすぐ眠ってしまって、お風呂に入れなかったから」



 手紙の彼が来てくれるなら今日会えるし、それが楽しみなのは事実だ。贈り物の結い紐で髪を結ったところで自分の身体が空腹を訴える音を立てた。



「ごはんもまだだったんだ?」


「ええ。今から厨房に行ってみようと思うけれど、ミーナも少し食べる?」


「私は食べてきたから……あ、でも飾り切りの果物があったら食べたいなー」


「ふふ。分かったわ」



 厨房に行くと私を見たゴルドークが尻尾を振って迎えてくれた。すでに用意されていた料理を素早い動きで持ってきてくれたので、飾り切りのフルーツだけ追加をお願いする。



「よかった、フェリシアが起きてこないと聞いて心配でした。旦那さまも元気がなかったですし」


「疲れ切っていたみたいで……ごらんのとおり元気です。昼以降はまた出かけるつもりですし」


「……無理はしてないですね?」


「ええ。……ありがとうございます」



 すっかり上達して可愛く出来上がったウサギのリンゴを受け取って、ミランナの待つ自室へと戻った。彼女は飾り切りの果物がお気に入りなので嬉しそうに食べている。

 パン生地で具材を包んだ、冷めても美味しいヴァダッド料理だ。私がいつ起きてもいいようにとこれを用意してくれたのだろう。私の食事と一緒にミランナもフルーツに手を出している。



「飾り切り、可愛くて好き。でもこれはちょっとフェリシアのと違うような?」


「これは料理人が作ってくれたの」


「え? 料理人って猿族?」


「いいえ、犬族よ」



 猿族は器用な種族だと聞く。こういう技術を使うのは殆どが猿族であるらしいので、彼女は犬族だと聞いて驚いたようにリンゴを眺めていた。最初は拙かったけれど、練習の成果が出ている。ウサギはもう充分なので今はペンギンを練習しているところだ。



「へぇ、すごいねその人。犬族で器用なのは珍しいよ」


「そうなの?」


「うん。興奮しやすいし、尻尾バタバタするし。感情の盛り上がりが激しいから集中力があんまりない」



 尻尾バタバタ辺りは関係なさそうだが犬族は集中力がないらしい。ゴルドークは何事にも一生懸命なイメージだったので意外だった。珍しい質なのだろうか。

 そういえば、犬に似た狼はどうなのだろう。最近のアルノシュトはよく尻尾を振っているがやはり感情の起伏が激しいのだろうか。表情は硬く、声の調子もあまり変わりはないのだけれど。



「会ってみたいからアルノシュトに頼もうかなぁ……うーんでも……フェリシア、アルノシュトは変わりない?」


「…………ええ」



 アルノシュトは相変わらずだ。相変わらず、家族としての好意を伝えてくれる。スキンシップも多く、昨日など――抱きしめられたことを思い出して顔に熱が集まった。それを見たミランナの耳と尻尾の毛が軽く空気を含んだように膨らむ。



「その様子じゃ昨日も何かやったんだ」


「私が勝手に、そう感じてしまうだけよ」


「違うよ。……私にもそう見えるんだから、フェリシアはもっとそう感じるはず。アルノシュトが悪いよ。フェリシアがこんなに……」



 ミランナはそれ以上言わなかったが、私の気持ちを察してしまっているのだろう。苦笑していると彼女の普段上向きの耳の先が横を向いた。しょんぼりさせてしまったようで、軽く首を振る。



「ミーナ、ありがとう。心配してくれてるのよね」



 だからアルノシュトの態度に怒るのだろう。彼女とて、アルノシュトのことが嫌いな訳ではないはずだ。兄の友人であり、私がヴァダッドに来たばかりの頃に呼ぶくらいの信頼関係はある。

 ただ彼女は私の気分が落ち込みそうになるから、それが嫌なのだと思う。……早く吹っ切れたいものだ。



「……うん。私はフェリシアが幸せになれるならどんな道を選んでもいいと思うよ」


「ふふ。ありがとう」


「手紙の人を好きになってもいいと思う」


「それはどうかしら。……でも、会ってみたいし、楽しみよ」



 国境の大木に向かう途中まではミランナもついて来てくれることになっていた。けれど逢瀬の邪魔は出来ないから、見えない位置で私の帰りを待っていてくれるという。

 遅くなるかもしれないし悪いと断ろうとしたが頑として譲ってくれなかった。猫族は自分で決めたことを他人に何か言われて曲げるような性質ではない、と言われたので私が折れた。


 手紙の彼が来てくれたらたくさん話をしたい。だから敷物と飲み物を持って、国境へと出かけた。日暮れより先に到着し、洞の中を確認したが手紙の返事はない。来てくれるか、来てくれないか。その時間になれば返事がわかるということだ。

 私は静かに誰かが来るのを待つことにする。敷物を広げてその上に腰を下ろした。冬も近づいてきているので吹く風が冷たく、長くいれば体を冷やしてしまいそうだ。上掛けなどを持ってくるべきだったかもしれない。


(来てくれないかもしれないけれど……でも、夜まで待ちましょう)


 そうして日が傾き、空が茜色へと染まり始めた頃。頭上から大きく羽ばたく音がして顔を上げる。見覚えのある梟の獣人が空から降りてくるのが見えた。



「こんばんは、フェリシア。昨夜ぶりですね」


「ラナ……? どうしてここに?」



 普段は布に覆われた両腕が晒されていて驚く。腕と翼が一体になったような形で、鳥の種族はこの腕で飛ぶらしい。この大きな翼を収めるために彼の服の袖は他の者たちよりゆったりと長いのだと理解した。

 彼は袖を縛り上げていた紐を外して翼を服の中に収めると私を見つめながら首を傾げる。



「ちょっと用事がありましてね。君こそ何故こんなところに?」


「私は……約束が、ありまして」


「おや、どなたと?」



 心臓の鼓動が緊張と期待で速くなる。もしかして、彼なのかと。この時間にここに現れるならその可能性が高い。しかしどうも私の中の手紙の相手とウラナンジュの印象が重ならない。

 確かめてみなければ分からない。確認する必要がある。



「友人と。……とはいっても、会うのは初めてで……来てくれるかも分からないのですが」


「それは不思議な友人ですね。手紙のやり取りでもしていたのですか?」


「……何故、それを……」



 明るい山吹色の目をゆっくりと瞬かせ、ウラナンジュが懐から取り出したのは見覚えのある紙だった。それは間違いなく、私がこの大木の洞に出した手紙のうちの一つである。



「その手紙の相手が私だと言ったら、驚きますか?」



 ドキリと心臓が音を立てる。八年前からの友人、文通相手がウラナンジュであった。そう言われて、私は彼をじっと見つめた。ウラナンジュとはそこまで言葉を交わした訳ではない。けれど、やはり私には“彼だ”とは思えなかった。



「……違う、と思います。ラナではないでしょう?」


「ええ、その通り。私はただ、この手紙を見つけて、探しに来た相手に返しそびれてしまったのですよ」



 あっさりと別人であることを認める返答にほっとした。元から冗談のつもりだったのだろう。たしかに「私が手紙の相手です」とはっきり言ったのではなく「私だったら驚きますか」と尋ねられただけだ。

 しかし返しそびれたとはどういう意味だろう。ウラナンジュは私の文通相手の姿を見たような口ぶりである。



「返しそびれたとは?」


「はい。最近仲が悪い相手で、姿を見たら返す気がなくなりましてね。風下に隠れていてよかったと思いましたよ。見つかったら面倒なことになっていたでしょう」



 彼の言葉で思い当たる人物が一人だけいた。それは鼻の利く種族であり、彼を前にすると毛を逆立てて怒る人物。優しくて生真面目な、手紙の印象とも相違ない。結い紐の深い赤の宝石はその瞳の色に似ている。私が想像した相手をウラナンジュも理解したのかゆったりと頷いた。



「少し話をしませんか? あれが居ては君とまともに話せない。……私も君との時間が、欲しかったのです。これを奪ってしまったのは申し訳ありませんが……」


「いえ……」



 私が想定している人物が手紙の相手で間違いないならウラナンジュが手紙を返せなかったのも分かる。最近の彼はウラナンジュを前にすると噛みつきそうな勢いで、もし自分宛の手紙を持っていかれたと知ったら怒髪冠を衝くといった様相になるのは想像ができるからだ。



「フェリシアは帰ればいくらでもこの手紙の相手に会えるのですから。……私にも時間をください」



 私の長年の文通相手はアルノシュトだった。その事実に納得しつつも少し混乱する。頭を整理する時間が欲しかった私はウラナンジュの提案に乗ることにした。

 それに「君と話す時間が欲しい」という願い事は随分可愛く思える。彼の言う通り、帰ればいくらでも手紙の彼アルノシュトと話せるのだ。それに私の知らないアルノシュトの話も聞けるかもしれない。



「ええ、ラナ。お話ししましょう。……そうしたい、と言ったのは私だもの」


「それはよかった。……けれどまず、手紙を盗んでしまったことを謝ります。私はどうしても、君のことが知りたかった」



 深く頭を下げたウラナンジュは私の手紙を返してくれた。たしかにこの手紙を奪われてアルノシュトに届かなかったことは残念だが、私には怒りの感情はない。彼がちゃんと謝罪してくれたからかもしれないし、知りたかった答えを手に入れたからかもしれない。


(それに……ラナは返してくれたもの。このあと私からアルノー様に渡してもいいのだし)


 そもそもこの手紙のやり取りは人気のない国境だったから成立したもので互いの家に届くようなものでもないのだ。誰でも見られる場所に置いてあった。いつかはこうして誰かに見つかって、手紙をすり替えられたり、盗まれたまま帰ってこない可能性だってある。

 そうならなかっただけ、見つけたのがウラナンジュでよかったと思うこともできた。



「お詫びにもなりませんが……私が知るアルノシュトの話でもいたしましょう。思いっきり恥ずかしい話を思い出すので少々お待ちを」


「まあ、ラナ。……けれど聞いてみたいです。良かったらこちらに座りませんか?」


「ええ、ではありがたく」



 敷物に座るように誘ってみると素直に受け入れてくれた。ウラナンジュと並んで座りながら言葉を交わす。

 待っていた人は来なかった。けれどその人は私と同じ家に帰ってくる。家にいてもそわそわと彼の帰りを待つだけだろうからそれまで誰かと話をしていたい。良い機会でもあるし、しばらくウラナンジュに付き合ってもらうとしよう。

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