第15.5話 side:アルノシュト
ミョンラン家の宴でフェリシアは魔法を使った。主催であるバゼランの頼みを受けた形なのだから、それは正式な依頼であり、宴を乱す行為にはならない。
歌や踊りが好きな兎族の宴でも、空を舞う宴はいままでにない特別なものだっただろう。彼女から距離を取っていた年嵩の兎族も、バゼランが空を跳ねれば目の色を変えていた。むしろ体が老いて自由に跳び辛くなった彼らだからこそ、その魔法に惹かれずにはいられない。
むしろ空を跳んだのは上の世代の方が多かったのではないだろうか。宴が終わりに近づく頃にはすっかりフェリシアに好意的になり、我先にと名乗りを上げるものが多かった。
(いらぬ心配だったな。……フェリシアを見て“魔族”だと嫌悪する方が、難しい)
狡猾で、醜悪で、恐ろしい魔族。その表情に性根の歪みが表れる――などと言われているが、フェリシアが笑っているのを見ればそんな偏見は吹き飛ぶだろう。
よく笑うその表情は魅力的で、黄金の瞳も美しい。何より彼女の雰囲気は春のひだまりのようだ。無理やり押し付ける好意も敵意もなく、つまるところ感じる“圧”がない。これは獣人に好かれやすい体質と言っていいだろう。しかもそれでいて肉食系の獣人を前にしても慄かない。
(魔法使いの体質なのか、フェリシアの体質なのかは分からないな。……他の魔法使いにも会ってみたい、と最近よく思う。フェリシアは、この思いを他の獣人たちにも抱かせたいんだろう)
そしておそらくそれは成功している。フェリシアに強い関心を引かれているものはこの場にも多い。
魔力の封じを解いてからの香りなどは性別問わずに惹きつけるものがあるようだ。どうやらそれは、自分に好ましい香りとして感じるようになっている。
アルノシュトにとっては例えようもない甘い香りだが、シンシャにとっては酒のように芳醇な、ミランナにとっては桃の果実のように感じるらしい。……それが魔力による惑わしの力なのだと言われてしまえばそうなのかもしれないが。
何せ、その香りは繁殖期の獣人女性が放つフェロモンに似た効果も持っている。異性、つまり男にとってはなかなか刺激的でもあった。
(……思春期の者たちが落ち着かないのは、まあ、致し方ないな)
ちらちらとフェリシアを見たり、頬を赤らめたり、耐性のない若い世代が反応してしまうのは仕方ない。しかしやはり気に食わない。フェリシアはアルノシュトの妻で、番である。……他の者がそう思っていないとしても、そうなのだ。
(フェリシア自身もそう思っては……いないしな……)
今日もまた「貴方の愛を求めない」とはっきり言われてしまった。今の彼女はアルノシュトの好意を受け取ってはくれないだろう。
そんなことを考えて沈んでいたせいか、子供の淡く実りかけた気持ちについストップをかけてしまった。それはアルノシュトの余裕のなさの表れである。あまりにも己の器が小さくて呆れるしかない。
(子供のいう“大人になったら”なんて……告白としてとらえられるものでもないというのに)
自分の好意がフェリシアに伝わらないため焦りがあるのだろう。今日こそはと思っても、彼女から「貴方を愛しません」と宣言される度に口を閉ざしてしまう。そんなことを繰り返すうち真実を明かせないまま時間だけが経ってしまった。
そして自分が文通相手だと明かせていないから、
(……会いたい、と書かれたフェリシアの手紙は、どこにいったんだ?)
アルノシュトは訓練の時間を終えたら毎日あの大木に通っていた。しかしフェリシアが贈り物である結い紐を受け取っていた日、その返事の手紙は見つからなかったのだ。彼女にそれとなく尋ねてみれば、会いたいと願い出る内容を書いたという。……そこで会いに行けば、話せたかもしれないのに。アルノシュトは彼女が指定した時間を知らない。
(この宴が終わってからの日程で誘ったと言っていたな。明日にでもフェリシアに予定をもう一度訪ねてみるか)
宴は最後まで盛り上がった。次々に空を跳びたがる獣人が声をかけてきて、フェリシアはそのすべてに応え、だんだんと顔色が悪くなり、彼女自身が放つ香りも薄れていく。
魔法を使うと魔法使いは疲れるのだと、それは魔法使いにとっての体力に等しいのだと気づく。宴を終えたころには随分と疲れた様子になっていたが、魔法に喜ぶ姿を見る度満足そうに笑うから、止められなかった。……これは、彼女が望んでいる仕事なのだ。邪魔はできない。
だが宴が終われば話は別だ。フェリシアをとにかく休ませたい。
「……顔色もあまりよくないし、貴女の香りも随分薄くなった」
「ふふ、今ならアルノー様も私の香りで苦しくなりませんね」
アルノシュトは彼女の香りに苦しめられてなどいない。ただ、この香りを嗅ぐと彼女への好意や欲が湧き上がりそうになるから、それを必死に抑え込んでいるだけだ。……好きだと、ずっと昔から貴女が好きだったのだと、伝えることができていないから。
おかげで妙に落ち着きのない態度をとってしまい、それが余計に彼女の誤解を深めているらしいのがどうしようもない。
「……そういうことではない。フェリシアはもう歩くな」
驚くフェリシアを抱き上げて帰路を急ぐ。そういえば抱きしめたのは初めてだ。彼女の体温を布越しに感じて、めまいがしそうだった。自分の鼓動が早くなるのがわかる。それを誤魔化すように速度をあげれば、フェリシアの細い腕がぎゅっとアルノシュトを抱きしめるのでたまらない気持ちになった。
(これは、良くなかったかもしれない。……抑制剤を多めに飲んでいて……正解、だな)
最近のアルノシュトは抑制剤の量を既定の倍飲んでいる。そうでもしなければ、フェリシアに指先で触れることすら憚られるような状況だったからだ。感情は揺さぶられても体の欲の方はしっかり制御できている。薬がなかったらと思うと恐ろしい。
屋敷に帰り着いた時、フェリシアは赤い顔をしていた。呼吸も少し乱れていて、アルノシュトが全力で走ったせいで負担を掛けてしまったのかもしれない。……それなのに、潤んだ瞳に喉が鳴りそうで。もう休む、と言った彼女を抱きしめるのを我慢できなかった。
「おやすみ、フェリシア。……フェリシア?」
腕にかかる重みが増したと思ったらフェリシアの身体がくたりと力なく折れそうになって、慌てて支えた。
嫌な音を立てる心臓、自分の血の気が引いていくのが分かる。だが確認した限りではフェリシアは眠っているだけで、苦しそうであったり、熱があったりということもなかった。……余程疲れたのだろう。
「……こんなに細い体で無理をしたのか」
フェリシアの体は小さく細い。それが魔法使いという種族の身体の特徴なのだろうが、自分との差が大きすぎて色々と不安になる。そっと抱き上げて彼女の部屋まで運び、ベッドへと寝かせた。
靴を脱がせ、髪を結う紐を解き、腰帯を緩める。……休みやすいようにしているだけなのに、妙な気が起こりそうになって首を振った。
夫婦とはいえ普通の夫婦ではないし、疲れて眠っている相手にそのような気分になるなんて許されるものではない。抑制剤が足りないのだろう。
フェリシアは小さな寝息を立てて眠っている。その額にかかる髪をそっと払いのけて、つい、唇を寄せた。
「フェリシア。……好きだ、愛してる」
起きている間に伝えなければならないことだ。今言っても何の意味もないと分かっている。それでも止まらなかった。
「ずっと、貴女を探していた。俺が恋をしたのは貴女で……俺は、貴女以外愛せない。貴女にだけは愛されたい。……けれど俺のために“愛さない”と言ってくれた貴女は……こんな俺を、愛そうと思ってくれるだろうか」
告白が許されるのは一度きり。彼女への申し訳なさはもちろん強くあるが、おそらくそれだけではない。アルノシュトはフェリシアに拒絶されるのが怖いのだ。表面上夫婦という続柄であっても中身が伴わない関係で愛を告げるというのは、獣人として特殊だろう。離婚が許されない以上夫婦関係が解消されることはないとはいえ、拒絶されればそれ以上は求められない。
「貴女と本当の番になりたい。……どうか俺を拒絶しないでくれ」
聞かれていないからこそ言える本音だった。卑怯だと思う。ちゃんと彼女を前にして言うべきだ。これは彼女が――。
「起きてる時に言わなきゃ意味ないだろ」
「っ……シン。いたのか」
扉にもたれかかってこちらを見ているシンシャの輝く目。己の行動を責められているように感じるのは罪悪感があるからだろう。
彼の言葉通り、これはフェリシアが起きている時に伝えなければ意味がない。今呟いた言葉は自己満足でしかないと、しっかり自覚している。
「今日も泊まりにくるって言ってたはずだぜ。俺が部屋に入っても気付かないなんてよっぽどだな」
「フェリシアしか見えていなかったからな……」
「そういう台詞を本人に言えってば。……いや、お前の場合ちゃんと番になる意思があるって伝えてからじゃないとダメだな。思わせぶり野郎にしか見えない」
そう言われてふと、己の行動を振り返る。好意が溢れて我慢できずに色々出てしまっている気がした。……謝りあぐねているうちに更に悪行を重ねていたのでは、と息を飲んだアルノシュトにシンシャが呆れた顔を見せる。
「どうりで最近ミーナがお前に対して刺々しい評価をすると思った」
「……明日……明日こそ、全て伝えようと、思う」
もう遅いのかもしれない。けれどこれ以上悪くなる前に伝えるべきだ。たとえ告白を受け入れられなくても、彼女に嫌われてしまうよりはそちらの方が良い。
「おう。覚悟が決まったならいいじゃねぇの」
「ああ。……また明日。ゆっくり休んでくれ、フェリシア」
彼女の部屋をシンシャと共に出て、自室に入る。夜遅くまで友人に相談に乗って貰い、明日フェリシアに伝えるべきことはしっかりと頭の中にまとめた。
翌朝、いつも通りの時間になってもフェリシアは眠っているようだった。魔力や体力の回復が必要なのだろうと思い、声を掛けずに一人で食事をすませ、昼には訓練へと出かけた。
訓練を終えたら真っ直ぐに家へと向かう。今日こそ話すと決めたのだから。……だが、帰宅してもフェリシアは屋敷の中に居なかった。
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