第12話
目を覚まして朝の支度をしながら隣の部屋が気になってそちらに視線を向けた。見たところで部屋の主が何をしているか分かるはずもないのだけれど。
アルノシュトは宴の後、つまり一昨日の夜から様子がおかしくなり、昨日も朝顔を合わせたきり姿を見せなかった。それはどうやら私の強い魔力の香りが原因で、三か月分の溜っていた魔力が一気に流れ出たせいだと思われる。
(アルノー様は……まだ、お話しできないかしら)
ならば今日の朝食も一人となるだろう。食事を厨房に取りに行こうと扉を開くと、昨日と同じようにアルノシュトが立っていた。予想外のことで心臓がどきりと跳ねる。
「アルノー様……おはようございます」
「おはようフェリシア。……昨日はすまない」
「いえ。……もう、香りは平気でしょうか?」
「そう、だな。……大丈夫だと思う」
彼の尻尾はやはり元気よく左右に揺れていたが昨日よりは勢いが減ったように見えた。外に出て魔法を使い、魔力を減らした効果だろうか。香りが薄れてアルノシュトが逃げ出したくなるほどではなくなったようだ。
「では、今日は一緒に食事ができますか?」
「ああ。食事を運んでくるから待っててくれ」
「いえ、一緒に行きます。……昨日はお話しができなくて、寂しかったものですから」
バッとアルノシュトが片手で顔を押さえた。やはり香りはまだ強いのだろうかと狼狽えたけれど、絞り出すような「なら行こう」という声が降ってくる。……本当に大丈夫なのだろうか。
「あの、アルノー様。無理はなさらないでくださいね」
「無理はしていない。……俺も貴女と話したい」
彼がそう言ってくれたので隣に並んで歩く。そうすると背後で大きく振られる尻尾のせいで風が起こっているのを感じる。狼は犬に近い種であるし、ゴルドークのことを考えればアルノシュトも機嫌がいいはずである。……表情はいつもどおり、固く真面目な様子なのだけれど。
「おはようございます。……旦那さま、今朝はご機嫌がよろしいですね。フェリシアも今日は明るい顔です」
パタパタを尻尾を振りながら挨拶をしてくれたゴルドークによればやはりアルノシュトは機嫌がいいらしい。私も昨日は少し沈んだ気分だったのでそれが顔に出ていたようだ。もしかすると心配をかけただろうか。
「二人分を持っていく」
「はい。すぐにご用意します」
二人分の食事をカートに乗せて再び部屋に戻った。美味しそうなにおいが漂ってくる。今日も美味しそうですね、などと他愛ない話をするだけでも気分がいい。
やはり私はアルノシュトが好きだ。一日顔を見ないと寂しくなるような、大事な家族なのである。首枷を取ったことでほとんど顔を合わせられなくなるような状態にならなくてよかったと、ほっとした。
「昨日はミーナと散歩に出かけてみました。空を跳ぶ魔法を使ったら、とても喜んでもらえて」
「空を飛ぶ魔法……?」
「ええ。空中を跳ねることができるのです。獣人の身体能力があればとても簡単に制御できるようで」
昨日あったこと、本当なら夜に語っていただろうことを話す。魔法についてはアルノシュトも興味深そうにしていた。ヴァダッドの獣人からすれば馴染みのないことだろう。特に自分たちが魔法の恩恵を受けられるというのは。……魔法の被害を受けたことは、多々あれど。その逆はきっと昨日のミランナが初めてだったのだ。
「その魔法は誰にでも使えるのか?」
「ええ。使える魔力量があれば複数人に魔法をかけることができますから。アルノー様も空を跳んでみますか?」
「そうだな。……俺もそれは、体験してみたい」
マグノに拒絶心のない獣人なら魔法も受け入れてもらえるのかもしれない。次に我が家で宴をすることがあれば私が魔法の演出を加えてもいいか相談してみようと思った。
「それと、私……国境付近に、お友達がいます。昔からお手紙をやり取りしていて……その、重要な情報は絶対に書きませんから、お手紙を書いてもよろしいでしょうか?」
国の仕事には関係のない、かなり個人的な手紙だ。しかし黙って手紙のやり取りをするというのも密通のようで隠すのもなんだか気が引けた。
すでに一通は置いてきてしまったが彼の許可が降りないなら無事を知らせることができただけで良しと思わなければならないだろう。そう考えて自分の手を膝の上でぎゅっと握る。
「構わない。……大事な、友人なんだな」
「はい。けれど実はお相手のことは知らないのです。私も自分が何者か明かせずにいるので……そんな関係ですから、決して情報のやり取りなどはありません」
その時のアルノシュトの尻尾は何とも奇妙な動きをしていて、動いたり止まったり、何やら悩み事でもあるような動きをしていた。そこで私はハッと気づき、言葉を続ける。マグノでは問題のない間柄であっても、ヴァダッドでは何か拙いことがあるかもしれない。間違いがあれば教えてもらえるように、私と手紙の主の関係はできる限り明らかにするべきだろう。
「お相手の方も結婚をされていますし、男性の様ですが決してやましい気持ちはありません。……それともヴァダッドでは、そういうお手紙はあまり歓迎されないのでしょうか」
「いや……そのようなことは、ない。相手の種族によっては恋文に捉えられかねないだろうが……」
「お相手はマグノの方のようですから問題ないかと」
「……そうなのか?」
どうやらアルノシュトは相手をヴァダッドの人間だと思ったらしい。私も昨日、ミランナの発言でそうではないかと思ったのだけれど文化の違いで発覚したことがある。
「昔、その方に刺繍のハンカチをお贈りしたことがあるのですけれど……お相手の方は愛の告白だとは思っていないようで、そのようなお返事はありませんでしたから」
「………………ああ……」
何故だか随分と間が空いた相槌に力がないような気がした。アルノシュトはまだ気分がすぐれないのかもしれない。私と長時間話すのは、つらいのだろうか。
「その方に気持ちを伝えたくて、また刺繍のハンカチを贈ろうと思っているのですけれど……」
「……いいんじゃないだろうか。相手も喜ぶだろう。貴女の刺繍は、美しいから」
「ふふ……はい。ありがとうございます」
アルノシュトの許可ももらったのでやましいことはなにもない。私は堂々と手紙の彼に贈るハンカチを刺繍することにした。
食事のあとミランナが来るまでの間、アルノシュトはそわそわと尻尾を動かしながらも私の部屋にいて、刺繍をする姿を黙って見ていた。会話はなかったが居心地は悪くない。黒くて大きな尾が機嫌良さそうに風を生んでいたからかもしれない。
「フェリシア! 遊びに来たよ!」
昼過ぎになるといつもどおりミランナがやってきた。アルノシュトには軽く挨拶だけして私に抱き着きにきたので製作途中の刺繍はテーブルの上に置く。私は椅子に座ったままだったがミランナはお構いなしに抱き着いてそのまま頬擦りが始まり、彼女のふわふわした髪や耳が当たるそのくすぐったさに小さく笑った。
「俺はそろそろ兵士に訓練をつけにいってくる」
「いってらっしゃいませ」
「フェリシアのことは私に任せてねー」
満足したのか私から離れたミランナはそう言ってアルノシュトに手を振った。しかしアルノシュトは中々部屋を出ていこうとせず、こちらに近づいてくる。何か用事だろうかと立ち上がろうとしたが片手で制された。
「ミランナがついてるとはいえ、危ないところにはいかないでくれ」
「はい。……っ……!?」
わざわざ心配してそれを言いに来てくれたのかと思ったら身を屈めたアルノシュトがミランナに頬ずりされた方とは反対側の頬にピタリと顔を寄せてきた。驚いて息を飲んで固まってしまう。
「では、行ってくる」
「え、ええ……お気をつけて……」
アルノシュトの尻尾は私に背を向けるまでぱたぱたと振られていたが、部屋を出ていくころにはしな垂れていた。彼がどういう気分なのか分からないがとにかく私の心臓は驚いたまま落ち着かない。深呼吸を繰り返して自分をなだめる。
「……ねぇ、フェリシア。アルノシュトは手紙を許してくれた?」
「ええ。刺繍のハンカチも贈っていいと言われたから、今作っているところなの」
「……うーん……」
ミランナはなにやら不満そうな声をあげながらアルノシュトの出ていった扉を見つめていた。尻尾もうねうねと動いて深く考え事をしている様子である。
「何か気になることがあるの?」
「アルノシュトはフェリシアが好きに見える」
「……え?」
「でもそれなら手紙とか刺繍のハンカチを快く許さないと思うし……うーんわかんない」
アルノシュトが私のことを好きだとするならば、それは家族としてである。彼は狼族であるからこそ、絶対に私を愛することはない。彼の愛情表現はすべて、親愛の情なのだ。
「アルノー様は私を家族として好いてくれているのよ」
「……そうかなぁ……」
「ええ。私はそれで充分だから」
手に入らない物を求めたって苦しいだけだ。私は与えられているものを大事にしたい。アルノシュトの信頼を裏切りたくないし、今のままで充分満たされている。
そんな私をじっと見つめたミランナが、突然強い力で抱きしめてきた。
「私はフェリシアが大好きだよ。いつでも抱きしめてあげるからね!」
「ふふ……ありがとう、ミーナ。お手紙を出しに行く時はまた、国境まで付き合ってくれる?」
「勿論だよ! 今日も行く?」
「それは早すぎると思うわ。あの方もさすがにまだお手紙に気づいていないでしょう」
私にはやりがいのある仕事と大きな目標がある。大事な家族や友人もいる。私は幸せ者に違いない。これ以上を求めては身を滅ぼしてしまいそうだ。
何かが足りないなんて、思ってはいけない。
「ミーナの腰帯にも刺繍させてほしいと思っているのだけれど」
「え! ほんとに!? 嬉しい!!」
「ええ。どんな図案がいいか、希望があれば教えてくれる?」
今この手にあるものを大事にしよう。何も取りこぼさぬようにしよう。これ以上の幸せなど、ありはしない。
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