第11.5話 side:シンシャ


 シンシャは自由な猫族である。何者にも縛られず、己の思うがままに生きる。それが猫というものだ。

 そんなシンシャの友人は縛るものが多い狼のアルノシュトである。正反対と言ってもいいのに仲良くできるのかと言われれば、不思議と仲良くできているというのが現状だった。



「なーにやってんだよアルノー」



 いつもピンと伸ばしている背中を丸め、片手で顔を覆いながら力なく俯いて座っている友人に声をかける。朝からさっそく失敗していたのは聞こえていたので、やれやれと肩をすくめた。



「フェリシアを前にして、あの香りを嗅ぐとだめだ。頭の中が白くなるというか、フェリシアでいっぱいになる。……助けてくれ……」


「お前のそんな情けない声なんて久しぶりに聴いたな。初めての発情期かよ……っていうか、実際にそうか。あー抑制剤が要るな、そりゃ」



 初めて想う相手ができて、強い欲や衝動に駆られる繁殖期の熱を思春期の頃に経験する。それが一般的な話だ。アルノシュトも初めての恋をしたのはその頃のはずだが、何せその相手が目の前にいなかった。狼は想う相手が傍にいなければ欲を覚えない種族だから、その熱は今が初体験のはずである。

 衝動的に相手を傷つけることがないようにその時期になったら誰もが抑制剤を飲み、体を欲に慣れさせる。しかし成人して五年も経ってからこれを経験する例はほとんどないし、抑制剤など家に置いてもいないだろう。



「仕方ねぇ、買ってきてやる。そしたら会話くらいはできるだろ」


「……すまない、シン」


「これくらいで謝るなよ。待ってろ」



 すぐに薬屋まで買い出しに出かける。抑制剤を買うと店主には不思議がられた。自由を好む猫族が欲を抑える薬こんなものを何に使うのかと。

 恋に奔放な猫族には“初めて”以外にこんなもの必要ない。店主が気にする理由も分かる。



「初恋真っただ中で熱に浮かされちまった友人に持っていってやるのさ」


「はは、そいつは必要だね。初めての熱は自分じゃどうしようもないからなァ」



 そう、自分じゃどうしようもない。誰しもが経験することだ。一度目をやり過ごせれば二度目は楽になる。二度目の繁殖期には自分の理性で抑えられるようになっているものだ。

 大抵はまだ未発達の体で迎えるもので、大人の体で初めて覚える欲はどれほどの強さだろうか。おそらく自分なら我慢できずに目の前に愛しい相手がいたら押し倒しているだろうな、とは思う。


(夫婦だから問題ないってことにはならないだろうしなー)


 政略結婚の花婿と花嫁。互いに愛さないことを宣言済みの夫婦。なかなかに複雑だ。どう考えても正直に話して謝るしかないが、今のアルノシュトは真実を知った衝撃と彼女への罪悪感でいっぱいである。感情が詰まって上手く言葉にできないのは、あの口下手な友人では無理もない。しかも悪いことに今は秋で、狼の繁殖期の真っ只中だ。心を落ち着かせられる余裕などないだろう。


(タイミングが悪い。……けど、俺は良かったと思っちまうんだよな。アルノーは一匹狼だと思ってたから)


 狼は生涯のうちに一人しか愛せない種族。だからこそ、愛した相手を失えばその者はずっと一人になってしまう。子供が生まれていなければその後はずっと一人きりとなる狼族を「一匹狼」なんて呼ぶこともある。

 正直に言えば、アルノシュトの元にマグノの花嫁が嫁ぐ話が出た時期待した。花嫁が悪くない性格であれば、番としてでなくても良好な関係を築ければ、彼はまた大事な家族を持てるかもしれないと。妻として愛されない相手には悪いが友人の寂しさがまぎれるならよいと思っていた。


(その辺は期待以上だった、って訳で。……あとはこのこじれた関係が修復できればいうことなし)


 アルノシュトが愛する番と共に過ごす幸福を得て、フェリシアが嬉しそうに笑っていて、妹もはしゃいで楽しそうにしている。そんな光景を眺められればとても気分がいいだろう。シンシャとしてはそんな光景の傍でだらりとソファに寝転がることができれば――最高だ。そうなればいい。いや、むしろそうしたい。

 シンシャは自由を愛する猫族だ。誰にも縛られない。思うがままに生きる。だから自分が好きなようにしているし、自分がやりたくてアルノシュトに手を貸してやるのだ。



「ん……これは……フェリシアか?」



 屋敷に戻る途中どこからかあの芳醇な魔力の香りが漂ってきた。枷を外した彼女は自分の身を守る力を取り戻したのだ。屋敷の警備も減らし、手伝いもいらなくなった。……まあそれでもミランナは彼女の元へ通うことをやめる気はないようだ。友人の元へ遊びに行く妹を止める権利はシンシャにもない。

 とにかく外出できるようになったフェリシアは今日、外に出ているのだろう。この香りに誘われて妙な奴が寄ってこなければいいのだが。


(方角的には……あっちか。町からは正反対だが……あーなるほど?)


 おそらく彼女は国境へと向かったのだ。その目的は想像しやすい。帰ったらアルノシュトに教えてやろうと足を速めた。


(しかし、ほんとに強い香りだな。こんな場所まで届くなんて……今日は風が強いせいもあるだろうけどよ)


 ここはバルトシーク領に隣接するヴァージナル領の端だ。つまりの縄張りである。宴でフェリシアに興味を抱いたらしいそこの息子の姿を思い出して、シンシャは己の耳の後ろを搔いた。


(面倒くさいことにならなきゃいいんだけどな)


 薬を持ってアルノシュトの部屋へと戻る。部屋を出た時と全く変わらぬ恰好のまま待っていた彼は礼を言いながらその薬を受け取って、さっそく口の中に放り込んだ。



「シン。……すまない、本当に助かる」


「いいって。フェリシアは出かけたみたいだぞ」


「ああ、聞こえていた。ミランナが一緒だから大丈夫だろう。……本当は俺がついていてやりたいが……この有様だからな」



 そもそも傍にいて平静でいられない今では守ってやるどころか襲いかねないという状況だ。薬を飲んだのだからそれが効けば以前の通りとまではいかなくても、それなりに接することができるようになるはずである。



「そういえばフェリシアは国境の方に行ったみたいだぞ。例の大木のとこじゃないか?」


「それは……」


「返事、書いてくれてるかもしれねぇぞ」



 三年ほど前、想い人はおそらく北部の魔獣災害に巻き込まれて死んだのだと結論が出た後もアルノシュトは手紙を出し続けていた。届かないと思っていてもどこかで希望を捨てられなかったのかもしれない。心の整理をつけるために必要なのだろうと、シンシャはそれに口を出さずに黙って見ていた。



「……この前……これで最後にしようと……結婚するという報告を入れたんだが」


「……あー…………まあ、ほら。その方がフェリシアも……安心して返事しやすいんじゃねぇの」



 手紙の相手に恋心などないと信じ切ったフェリシアが笑顔で手紙を書く姿が想像できた。そのあたりはおいおい、どうにか誤解をとくとして。文通を再開したことで関係改善のきっかけになる可能性もあるし、悪いことではないだろう。

 こちらは相手の正体を知っているのだ。上手くやればどうにか――というのが、この口下手で人付き合いがあまりうまくない友人にできるかはさておき。何かしらの変化が訪れるであろうことは、間違いない。



「……そろそろ訓練の時間だな。終わったら手紙を、とってくる」


「そうだな。頑張れ、アルノー」



 シンシャには応援することぐらいしかできない。アルノシュトの代わりにフェリシアに事情を説明するとか、フェリシアが気づくように細工をするとか、そのようなことはしない。それは友人が望まないだろうし、そんなことをするのは何か間違っている気がした。……やはり、アルノシュトが自分で伝えなければ意味のないことだ。


 今日できるのはせいぜい、訓練を終えたアルノシュトが大事そうに小さな紙を抱いて戻ってきて、はちきれんばかりに尻尾を振っているのでその話し相手になってやるくらいである。



「手紙、何が書いてあったんだ?」


「まだ読んでいない。あの場でじっくり読んでいるのを誰かに見られて、フェリシアに伝えられても困るからな」



 国境に近づく人間など早々いないはずだがフェリシアの香りに誘われた者が近くをうろつかないとも限らない。だからアルノシュトは新しい手紙を抱いてまっすぐ走って帰ってきたのだろう。



「……フェリシアが恋しい……今日は朝に顔を見ただけだ」


「隣に居るだろ、隣に」


「そうなんだが、夜に訪ねるのは過ちを犯しそうだ。明日こそ……話が、したい」


「そうかよ。まあ、今はひとまずその手紙に返事を書けばいいんじゃないか」



 そうだな、と返事をして机に向かうアルノシュトに呆れ半分、可笑しさ半分の息を吐く。少なくとも朝よりは落ち着いて元気になったようだ。

 明日からはまた、何か起こるのだろう。暫くは泊まり込むか、これからも毎日通って、様子を見ようと思う。


(俺の言った通り面白いことになっただろ、フェリシア)


 そんなことを考えながらシンシャは友人部屋のソファに遠慮なく寝転がった。視界の端で、手紙を開いたアルノシュトが項垂れたり、尻尾を振ったりと感情の起伏に忙しそうなのが見えたが、手紙の内容を聞くのは野暮だと知らないフリをした。



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