二章 様子のおかしい旦那さま

第11話




 昨夜の宴は成功した。その後アルノシュトが「もう誰も愛せない理由」を聞いて、私も彼をそういう意味では愛さないと心に刻んだ。そして信用の証として首枷を外してもらい――彼はこの部屋を逃げ出した。シンシャによればそれは、私の魔力の香りに驚いたからだという。……そんなに臭うのか、と自分を嗅いでみても分からない。獣人だけが嗅ぎ取れるにおいなのかもしれない。

 朝の支度を終えて、そういえばもう外に出る許可も貰ったのだと思いだし、今日は自分でアルノシュトの部屋を訪ねてみようと自室の扉を押し開く。すると丁度私に声を掛けようとしていたらしいアルノシュトと目が合った。



「アルノー様、おはようござい……ます……?」



 アルノシュトの尻尾が見たこともない勢いで振られている。ブンブンと音がするほどに。まるで飾り切りを前にしたゴルドークのようだと思いながら彼の顔を見上げた。



「……おはよう。今日は……一緒に、食事できそうにない。料理は厨房に、用意してあるはずだ」


「……分かりました。……大丈夫、ですか?」



 彼の表情も声もいつも通りだ。ただその顔は赤みを帯びて、尻尾は忙しないままである。様子が明らかにおかしい。



「っ……では、またあとで……ッ」



 どうやら大丈夫ではないらしい。片手で顔を覆いながら隣の部屋に入って行く姿を見送って、なんだか寂しい気持ちになる。結婚してから朝食を一緒に摂らないのはこれが初めてだ。

 とぼとぼと一人で厨房へと向かった。扉を開く前に声をかけたのだけれど、中で作業中だったゴルドークはかなり驚いたようで固まっていた。



「フェリシア……何の香り、ですか?」


「私の香りのようです。……いままで魔力を抑えていたのですが、許可を頂いて……戻したのですけれど」



 ゴルドークにどこまで話してよいか分からずに濁した。しかし素直な彼はそれで納得したようで「そうですか、いい匂いがします」と言って頷いた。彼の白い尾はアルノシュトと同じように振られている。そして彼の作業中であったものも見えた。……少し歪な、ウサギの形をしたリンゴがそこにある。



「飾り切りの練習ですか?」


「はい。……僕はフェリシアのように器用にできませんが、どうしてもやってみたくて」


「私も最初は出来なかったではありませんか。練習あるのみ、ですよ。……よかったら今日の朝食のデザートにいただけますか?」


「はい!」



 ゴルドークは表情が硬くてもとても分かりやすい。尻尾だけではなく、行動も素直だ。アルノシュトの尻尾だって喜んでいるように見えたけれど、彼の気持ちはよく分からない。

 そのまま部屋に戻って一人で食事を摂り、刺繍する気も起きずにぼんやりと過ごしているとミランナがやってきた。彼女は部屋に入るなりうっとりとした様子で私に頬擦りしにくる。



「この部屋すごくいいにおい……フェリシアもいい匂い……」


「……そんなに匂いがするの?」


「うん。すっごく」



 たしかシンシャは狼族の方が鼻が利くと言っていた。私は今、溜まっていた分の魔力が垂れ流しになっているのでかなり“香りが強い”状況になっているのだろう。良い香りだとしてもそれが強くては気分も悪くなるものだ。

 アルノシュトが私やこの部屋に近づけないのは仕方のないことかもしれない。しかし匂いが籠っているらしいこの部屋には換気をする窓もない。……私がいてはアルノシュトが近づけなくなる一方だろう。



「ミーナ、散歩に出かけない?」


「あ、そっか。あれ外したからもういいんだね! いいよ、行こう」



 せめてにおいが薄れるように外で過ごすべきだと思った。ミランナも賛成してくれたが、私に抱き着いたまま離れる様子がなかった。ごろごろと喉を鳴らしながら気分良さそうに頬擦りしてくる。

 彼女が満足するまで数分待ってから二人で屋敷を出た。部屋の扉と最も近い廊下の窓を開けてきたので多少換気になるだろう。



「散歩、どこに行こっか。フェリシアは外、初めてだもんね!」


「そうね……国境へ行きたいわ」


「国境? 散歩にはちょっと遠いけど、なんでそんなとこに?」


「昔、お友達と手紙をやりとりした場所があるの。もう六年も前の話で……あの人も待ってはいないかもしれないけれど、見に行きたいの」



 十二歳から十八歳までの六年間、学院で学ぶのが貴族の決まりだ。私は手紙だけの友人に国境から遠く離れることを伝え、再びまた出会えることを、そしてその再会の喜びが訪れるように願って鈴蘭の刺繍のハンカチを贈った。



「それ、詳しく聞きたい!」



 目を輝かせて尋ねられたら話すしかない。国境の大木までの道すがら彼女に話した。落とし物を見つけてから手紙のやり取りが始まったこと、自分の正体を隠して二年もの間文通をしていたこと。

 獣人である彼女の歩みに合わせるため、私は自分の体に身体強化の魔法をかけている。こうして魔法を使っていれば垂れ流しになってしまう魔力も早く消費できるだろう。



「とっても素敵な恋物語だね!」


「ただのお友達よ?」


「フェリシアはその時子供だったけど、相手は分からないじゃん。恋をしてたかもしれないよー。しかも別れ際にはハンカチ。これはもう、恋物語の定番だもんね!」



 そういえば獣人の文化では刺繡入りのハンカチを愛の告白に使うのだった。ヴァダッドではそれが恋物語になるのだろう。私が相手をしていたのはマグノの兵士であって、ヴァダッドの獣人では――。


(……ヴァダッドの兵士……という可能性は……)


 今まで疑問に思ったことがなかった。相手が戦闘訓練をしているというから、辺境伯である父の軍隊に所属する兵士だと思い込んでいただけということはないだろうか。

 人間は端的な情報を得た時、それを身近なもので考えてしまうものだ。アルノシュトが毎日兵士を鍛えに出かけるのだから、近くにヴァダッドの兵士の訓練所もあるのかもしれない、そこの兵士だった可能性があるのではないかと今思い至った。

 そうだとすれば勘違いをさせて――六年も待たせているということもありうる。不安になってミランナの手を取った。



「ミーナ、少し急ぎたいの。跳んでもいい?」


「飛ぶ……? うん、鳥族みたいな感じかな。大丈夫だよ」


「空を跳ねる風魔法よ。私の手を離さないでね。最初は私が支えるから安心して、空を蹴ってみて」



 自分とミランナに魔法をかける。一歩踏み出す度に足元には風の壁が出来上がり、体を弾くだろう。これは貴族令嬢が使うべき魔法ではないが、子供の頃国境まではよくこれで跳んだものだ。

 強く噴き上げる風が私とミランナの体を木よりも高い位置へと運ぶ。「わ!」と驚くミランナの手をしっかりと握って、私は宙へと足を踏み出した。



「うわー! 鳥族の空と全然違う! たーのしー! 兎族になった気分!」


「獣人はやっぱり、慣れるのが早いのね。手を放しても大丈夫そう」



 私の足元を見て自分で一歩足を出したミランナはそれでもう感覚を掴んだようだ。子供の頃にこの魔法を教えられ、ほとんどの魔法使いは必ずと言っていいほど一度は転ぶのだけれど獣人にその心配はないらしい。手を放せば辺りをぴょんぴょんと楽し気に飛び跳ねている。



「これが魔法なんだね、フェリシア! いいなぁ、魔法使い!」


「ふふ。でも私は、獣人のその身体能力も素晴らしいと思うの」



 獣人に魔法を使ってその身体能力をさらに高めれば、その効果は絶大となるだろう。空で跳ねながら踊り、舞っているようなミランナを見て思う。魔法使いの魔法と獣人の身体能力が合わさればまた、今までとは違う魔法の使い方できて、魔法がさらに発展するかもしれない。



「あ、あの木かな? 国境の大木!」


「ええ。間違いないわ」



 空を行けば障害物もなくまっすぐと目的地へ向かうことができる。遠目からでもわかるほどの巨木が見えて懐かしい思いが込み上げてきた。子供の頃の私にとって、あそこへ通うのは大事な時間だった。良い思い出の場所である。



「ミーナ、降りるからこっちに」


「はーい。……でもちょっと残念、すごく楽しかった」


「屋敷までもこの魔法で帰りましょう?」


「うん! ありがとう、フェリシア!」



 目を細めるミランナの手を取り、魔力を少しずつ弱めていく。そうしてゆっくりと巨木の前の地面に降り立った。さっそく巨木の洞の中を覗いてみる。私が入れた古びたバスケットはそのままで――その蓋をおしあげるほど、そこには手紙が詰まっていた。



「わ、たくさんあるね」


「そうね、驚いたわ。……ここで読んでもいい?」


「うん。待ってるし、なんなら邪魔者が来ないように見張っておく!」


「……ありがとう」



 こういう気遣いの上手さは兄妹ともにありがたい。木の根元に座り込んで、バスケットに詰められた手紙を一つずつ開いた。

 一番上にあった手紙はまだ新しいようで最近入れられたように見える。そこに「結婚することになった」という短い一文があってほっとした。どうやら私の刺繍入りのハンカチを愛の告白だと思って待ち続けた訳ではなさそうだ。


(……でも……とても、心配してくれたのね)


 彼は元々長文を書く人ではない。短い言葉の手紙ばかりだがどれも私の身を案じている。学園に入ってからは外に出ることがなかったので連絡を取ることなどできなかったのだ。

 『あなたが心配だ』『どうしているだろうか』『あなたと話せなくて、なんだか寂しい』そんな短い文から私への親愛を感じて、胸がぎゅっとする。すべての手紙に目を通した後、私はなんだか――この手紙の主に会ってみたくなった。


(私のハンカチを愛の告白だと捉えたような手紙はなかった。……やっぱり、マグノの兵士だったのね。よかった。愛の告白をして六年も待たせるようなことをした訳ではなくて)


 アルノシュトのことを思い出す。彼は愛の告白を残されて、そして彼もその相手を愛してしまっていた。それなのに、その相手は二度と帰ってこないと知ってしまったのだ。……きっと、とても辛かっただろう。


(ひとまずこの方に私の無事を知らせなくては。私は、ちゃんと生きていると)


 ヴァダッドの文化を知った時にいつでもメモができるよう持ち歩いている紙を取り出す。六年ぶりに、その人へと手紙を書いた。


『久しぶり、結婚おめでとう。心配をかけてごめんなさい。ようやくこの辺りに戻ってこられたの。たくさんのお手紙をありがとう。またあなたとこうしてお話しできたら嬉しい』


 そう書き残してバスケットと共に洞の中へとしまった。彼からの手紙は全部大事に抱えて、持って帰ることにする。



「ミーナ、もういいわ。ありがとう」


「そう? ……どうだった?」


「ええ、大丈夫。この人は結婚したみたい。近いうちにまたお手紙を出しに来るわ」


「えー……そっかぁ」



 何やら腑に落ちなさそうな返事である。しかしまた空を跳ぶ魔法をかければすぐにそんな気分はどこかに行ったようだ。はしゃぐミランナと共に屋敷に戻った。

 部屋に戻ったら刺繍をしようと思う。手紙の主に、今まで心配をかけてごめんなさいという気持ちを込めて。カモミールの花を贈ろう。


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