第10.5話 side:アルノシュト



 アルノシュトはフェリシアのことが好きだ。明るくて、よく笑って、しかし穏やかで、その楽しげな声が耳に心地よく響く。妻として――番として彼女を愛せないでいるアルノシュトにそれでも「家族です」と言ってくれた。

 彼女に感じる愛しさは番に対するものではない。「またいつか」という言葉と共に残されていた刺繍入りのハンカチから漂う甘くとろけるような香りに思考を奪われ、相手を強烈に求めたくなったあの感覚とは違う。本能的にこれ以上はまずいとすぐに遠ざけたが、たった一瞬でもあれは狂おしい程の欲を覚えた。しかしフェリシアに対してあるのは大事に守りたい、笑っていてほしいと願う感情で、過去に父や母に抱いていた愛情に似ている。……家族への親愛だ。


(本当に、魅力的な人だ。これから先……誰かに求愛されることも、あるのだろうな)


 宴で彼女の指先に唇を寄せ愛情表現をしていたウラナンジュを思い出す。あれはまだ親愛だとしても、初対面だ。彼は二年ほど前に妻を亡くしている。番を失い一人となった梟は新しい番を探す習性があり、共に過ごせばフェリシアに好意を寄せる可能性は高い。……だから気に食わないのだが。まず彼はフェリシアに初めの態度を謝るべきだ。

 本来、一夫一妻の種族の番に求愛などするものではない。だがアルノシュトはもう誰も愛せないことを公言している。詳細はシンシャにしか話していないが、狼族が「愛せない」と言うなら理由は一つだ。他の獣人たちはアルノシュトが花嫁として迎えたフェリシアを愛せないことを理解している。

 それならばと愛を囁きたがる者はいるだろう。この国にはまだ、魔法使いという種族の婚姻制度が定まっていない。フェリシアには重婚が許される可能性があるからだ。


(異種族婚の場合はそういうことがあるからな……一般的な家庭なら、一人しか愛せない種族の方が不幸だが……)


 種族が違っても子供はどちらかの種族としてしっかり生まれる。異種族恋愛をし結婚をする者も少なくはない。だが、結婚制度が違う種族同士だと、夫は複数の妻を持つが妻は夫しか愛せずに嫉妬で苦しむ――なんてことも起こりうる。

 フェリシアの場合は伴侶に愛されていないことが分かっているので、それならばと好意を寄せる者は様々な種族に現れるかもしれない。ただ、彼女の話ではマグノ国は一様に一夫一妻制であり、他に夫を持つ気などないようである。ならば彼女に好意を寄せようとするものを、彼女を煩わせないために排するのがアルノシュトの役目である。


 アルノシュトは家族としてフェリシアを愛している。信じている。今なら首枷を外しても、彼女の覚悟を踏みにじることにはならないだろう。

 そして彼女になら詳しく話せると思った。まずはアルノシュトが彼女を番として愛せない理由を。それを真剣に聞き、受け入れてくれた彼女にシンシャにしか話せていない秘密を打ち明けようと思いながらまずは彼女の首枷を外す。



「俺はきっと、もっと早く貴女に出会えていれば……貴女に恋をしたんだろうな」



 それは心からの本音だった。フェリシアは素敵な女性だと思う。こんなに素晴らしい人を愛せないのだから、狼族の本能とはどうしようもない。

 それでもアルノシュトは実際に会ったこともない、ただ文通をしていただけの相手の香りに惹かれてフェリシアを愛せないのだと。彼女ならそれを言っても馬鹿にしないだろうと思い「本当はその人に会ったこともないんだ」と言葉にしかけたところで彼女の枷が外れ、狂おしいほど香りがアルノシュトを包んだ。


(まさ、か……)


 本能的な欲を掻き立てる香りを忘れるはずもない。全身の毛が逆立ち、血が沸騰するようであった。ずっと、その相手は獣人だと思っていた。六年前まで国境の大木の洞の中に手紙を置き、やりとりをしていたその人は――同じヴァダッドの人間だと、思っていた。まさか隣国の魔法使いだったなんて、考えもしなかった。国境から正反対の地に行かなければならないのだといなくなったその人がマグノの魔法使いであったなら。国境から遠く離れたヴァダッド北部でいくら探したとて、見つかるはずもない。……まさしく反対側に、居たのだから。



「その言葉だけで充分です。私も貴方に恋することはないですけれど、親愛の情を深く抱いておりますし……この先もそれは変わりません」



 奇跡的な再会に夢心地でいたアルノシュトの頭に金槌でも振り下ろされたかのような衝撃が走る。

 散々貴女を愛せないのだと宣言して、それを受け入れてもらい、受け入れられたことに安堵し、喜んできた。それを、今更。貴女だったのだと、やはり貴女を愛していると、どの口が言えるのだろうか。

 しかし頭が冷え切っても体の方はそうもいかない。長年探し求めていた相手を見つけて、歓喜してしまっている。身動きできずに固まったままでいるとフェリシアが振り返った。彼女の香りがふわりと舞って――限界だった。思わず部屋を飛び出して、隣の自室に逃げ込んだ。



「うわ、驚いた。…………なんだそのにおい」



 中には勝手にソファでくつろいでいたらしいシンシャがおり、飛び込んできたアルノシュトに尻尾を立てて驚いている。そして彼も、ほんのりと自分が纏って連れてきてしまったにおいを嗅ぎ取ったらしい。



「フェリシアの、香りだ。魔力を封じる、枷で……っ分からなか、た……フェリシアが……あの人、だった……ッ」


「あー……やっぱり?」



 やっぱりとはなんだ。知っていたのかお前。声にしようとしたができなかった。彼女の香りに気づいてから無意識に殆ど呼吸を止めていたため、息が乱れて話すどころではない。



「国境に文通しに来てたって言うからもしかしてとは思ってたんだけどな。お前が香りに反応しないから半信半疑だったけどさ」



 それを早く言え。そう思ったが確信が持てないのに話して、アルノシュトが希望を抱いてしまって、それが間違っていた時の絶望を考えれば言えなかったのだろうと思い直す。だが、しかし。……おかげでアルノシュトは今まで随分と酷い言葉をフェリシアに掛けていたと、思う。


(こんな、気持ちだったのか……?)


 「貴方に恋をすることはない」とフェリシアは言った。散々アルノシュトが繰り返した言葉への返事だ。彼女にそう言わせたのは、自分の言葉と行動だ。すべて自分が悪い。胸に重苦しくたまるものは、拒絶に対する悲しみは、多少なりともフェリシアも感じていただろう。……なおさら、愛の告白などできはしない。それはあまりにも自分勝手だ。



「俺は……どうしたら……」


「まあしばらく頭を冷やせよ。俺はフェリシアに声かけてくるわ。……お前がいきなり出てって驚いてるだろうしな、説明してくる」


「待て、フェリシアには何も言わないでくれ」


「分かってるって。上手いこと言ってくるからまあ、任せとけよ」



 シンシャが部屋を出て行ったあと、アルノシュトは深いため息を吐いた。まだ頭が混乱しているのも事実だ。思考や感情を整理する時間は必要である。

 呼吸が落ち着いても心臓の鼓動はまだ早い。何かに急かされるように、ずっと大事に仕舞いこんでいた物を取り出した。

 古くなりはじめた紙の束と鈴蘭の刺繍がされたハンカチ。訓練から逃げ出して国境で時間を潰していたアルノシュトは、ある時母親の形見であるお守りを落としてしまった。それに気づいたのは家に戻ってからで、辺りはすでに日が落ちている。しかも悪いことに、その日は夕暮れ時から翌朝まで雨が降り続いた。お守りは酷く泥にまみれてしまっているだろうと、悲しく気持ちが沈む。


 翌日慌てて探しに行けば大木の近くに白いハンカチで簡易的に作られた旗が立てられていて、嗅いだこともないような良い香りのするそれには、インクでも墨でもなさそうな変わった塗料で文字が書かれていた。


『落とし物は洞の中に入れてあります』


 大木には子供一人なら入れそうな穴が開いている。その洞の中に小さなバスケットがあり、開けばそこにはアルノシュトの探しているお守りがあった。誰かが拾って汚れぬように、濡れぬようにとこうしてくれたのだろう。

 バスケットの持ち主が戻ってくるはずだと、アルノシュトはそこに礼を書き記した手紙と旗にされていたハンカチを残し――それから、次に来た時には別の手紙がバスケットの中に入っているのを見つけた。そこから二年の間、謎の恩人とアルノシュトは文通を重ね、会ったこともないというのに深い親しみを覚えるようになった。


(どんな獣人だろうと、思っていた。……あの頃フェリシアはまだ、子供だった訳か……同年代か少し上だろうと思い込んでいたんだが)


 子供の頃は癖字だったと彼女が言った。アルノシュトはその拙い文字を獣人の筆跡だと考えていた。

 アルノシュトはバルトシークの跡取りだ。それを知られてはならないと自分を特定できることは避けて手紙を書いていた。それは恐らくマグノの貴族であるフェリシアも同じだったのだ。

 お互いに正体を隠そうとした結果、立場も身分も知らぬまま心だけを交わして二年が過ぎた頃だった。


『国境とは正反対、国の端に行くことになったから暫くここには来られないの。またいつか戻ってくるから、それまでどうかお元気で。それからこのハンカチは貴方への気持ちです。受け取ってくれたら嬉しい』


 そんな手紙と共に贈られた刺繍入りのハンカチを、アルノシュトは愛の告白だと思った。職人になれるだろうというくらい美しい刺繍で、アルノシュトのために懸命に作ってくれたのだろうと。しかしマグノの文化で考えればそんな特別な意味ではなく、離れることになった友人への贈り物でしかなかったのだろう。

 時折、大木の付近では微かに彼女の香りが残っていた。そのハンカチからはその香りを強く感じ、アルノシュトの体はそれに反応してしまった。その瞬間、自分が会ったこともない手紙の主に恋をしていたことに気づいてしまったのだ。だからその人が戻ってきたら「俺も貴女を想っている」と返事をしようと考えて――。


(何もかもすれ違っていた訳か。……もっと早く気づいていれば、こんなことには……)


 明日からどんな顔をしてフェリシアに会えばいいのか分からない。一時間ほどしてシンシャが戻ってきても、アルノシュトは全く冷静になれてはいなかった。



「フェリシアは風呂入って寝るってさ」


「それなら湯運びを手伝わなければ……」


「いや、魔法が使えるから自分で出来るってよ」



 そういえば、そうだ。魔力を封じる枷を外したのだから彼女には自由が戻った。もう幼子の用な扱いを受けることもない。生活の不自由さが改善された。……これまで、彼女には本当に不自由をさせていたのだと改めて思うと自分が情けない。



「よかったじゃねぇか。ずっと探してた人、見つかって」


「それは、そうだが……俺の今までの行動がな……」


「まあ……そこはお前が頑張るしかねぇけどな。俺は応援くらいしかできないぞ、お前とフェリシアの問題だ」



 シンシャの言う通りだ。アルノシュトはフェリシアに謝らなければならない。翌日、決意して彼女の部屋の前に立った。しかしなかなか声を掛けられないでいると、内側からその扉が開いてフェリシアが姿を現す。同時に、その香りも強く辺りに広がった。



「アルノー様、おはようござい……ます……?」



 困惑したようなフェリシアの表情。背後では空を切る音がする。……アルノシュトの尻尾は全力で喜びと興奮を表しているようだった。



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