第10話
「俺がまだ、大人になる前のことだな。その時の俺は、誰かを傷付けるために強くなるのが嫌だとよく訓練を抜け出していた」
それからアルノシュトはゆっくりと、穏やかな声で語ってくれた。
少年のアルノシュトは国境警備を取りまとめるバルトシーク家の跡取りとして、戦闘訓練に参加しなければならなかった。魔獣の動きを学び、それを敵と想定した訓練ならともかく、対人訓練となれば逃げだしていたという。その場合の仮想敵はもちろん“マグナの魔法使い”である。
彼は人の寄り付かない秘密の場所で時間を潰し、訓練の時間が終わる頃に帰っていた。ただある時からその場所は、とある人と交流する場となったという。
「不思議な人でな。俺の価値観を
私はふと、昔文通していた兵士が似たようなことを手紙に書いていたと思いだした。人を傷付けたくないと思う気持ちは決して弱さではない。それは、大事に持っていていい優しさだ。
「そんなことはありません。……アルノー様は優しいのです」
「ああ。……その人もそれは弱さではなく優しさだと言ってくれた。当時の俺にとっては救いの言葉だったな」
マグノでもヴァダッドでも、相手を傷付けたくない、戦いたくないと思う人間がいるのだ。そんな彼らが刃を交え、傷付いたり、傷つけたりしなくていい平和な国。それが今の私の目指す場所である。……改めて思う。アルノシュトや、あの時の兵士が戦う未来など絶対に訪れてほしくないと。
「ただ、その人は……突然北端へと行くことになった。また会う約束と、俺に……愛の告白をして。俺はその人が帰ってきたら返事をしようと、そう思っていたんだが」
それはとても甘く情熱的な話である。しかし、すっかり萎れてしまった耳と尾を見ればその結果は決して良いものではなかったのだと分かってしまう。
「……会えないまま、ということですか」
「ああ。……そのあとすぐ、北部では魔獣の大繁殖と暴走が起きてな。大勢の人間が死んだ。俺は……その人を探して北部へ行った。魔獣狩りの部隊に所属して、魔獣を駆除しながら三年間ずっと……」
戦いが嫌いなアルノシュトはどうやらそれで“英雄的軍人”となったらしい。ヴァダッド北部を移動しながら魔獣を狩る日々を過ごし、どこかに大事な“その人”がいないかと探し続けた。最悪を想定しながら、諦めきれずに。
「どこにも……その人の
アルノシュトは鼻の利く狼族である。彼の鼻で見つけられないなら、もういない。死体は見つからない可能性が大きい。……魔獣は人を食う獣だから。彼はそうして、大事な人の生存を諦めることになった。
「その人がもういないとしても、狼族の俺はその人以外を……番として愛せない。だから、フェリシアのことを愛せないんだ」
狼族は生涯に一人きりしか愛することができない。それが叶わなければ繁殖の本能すら消え失せて、子供を作れないらしい。彼が私に言った「愛せない」という言葉はそういう意味だったのだ。
すとんと胸の中に落ちるものがあった。彼の言動に納得できた、というべきか。彼は私のことを人としては愛してくれているのだろう。けれどそれが男女の、夫婦の情に変わることは決してない。……そういうことなのだ。この先彼がどんな愛情表現を見せてくれたとしても、それは私を“一人の人間として”愛してくれているということ。
(それが今、分かってよかった。……貴方に恋をしてしまっては、いけないもの)
最近の彼は随分と好意を寄せてくれていたから「愛せない」と言ったのに何故なのかと疑問に思っていた。その疑問に答えが出たのだから、きっと。彼に愛情を示される度に乱れていた胸のざわめきも、収まるだろう。
「貴女はきっと、俺以外の花嫁であれば深く愛されただろう。今日の宴だけでもそれが分かった。……すまないと、思っている」
「謝らないでくださいませ、アルノー様。……私は構いません。人として、家族として想ってくださるなら、それで充分です。以前にも申し上げた通り、私は妻として愛されることは望んでいません」
私の目標に夫婦の情は関係がない。アルノシュトと共に手を携えて未来を変えていく。そこには男女の仲などあってもなくても変わらない、どちらでもよいものだ。
きっとアルノシュトは私が「愛されることを望まない」と口にする度に安心したのだろう。どうしても私のことを愛することができないのだから。
「俺は貴女を人として、家族として……好いているし、信じている。だから、これを」
「その鍵は……よろしいのですか? 私が魔法を使えば及ぼせる影響は、本当に大きいのですよ」
彼の差しだした手にあったのは私の魔力を封じる首枷の鍵だ。私を信用できるまで預かっていてほしいと頼んだものである。
これを外せば私は今までのように人の手を借りる必要がない。身の回りのことは自分でできるようになるし、出来ることが増える。……そしてそれ以外のこともできてしまう。
「貴女ならその力を、誰かを傷付けるためではなく守るために使うと思ったんだ。……貴女はそういう人だと、信じている」
「アルノー様……」
「それにこれを外せばフェリシアは自分の身も守れるようになるだろう? 明日からはもっと自由に過ごしてくれ。……いままで窮屈な思いをさせてすまなかった」
立ち上がったアルノシュトが私の背後に立つ。彼が鍵を外しやすいよう、私は己の長い髪を片手で避けて首を晒した。小さな鍵に少し苦労しているらしい雰囲気が伝わってきて、結婚式の後にボタンを外してもらったことを思い出し、つい笑ってしまう。
「フェリシア……動かれると外しにくいんだが」
「ふふ、申し訳ありません。ゆっくりで構いませんので」
「……貴女は本当に明るいな。こんな状況でずっと笑っていて」
金属同士がこすれる小さな音で鍵穴に上手く鍵が刺さったのだと分かる。ようやくこれが外れることに、私も少し安心した。
「俺はきっと、もっと早く貴女に出会えていれば……貴女に恋をしたんだろうな」
とんでもない言葉が降ってきた。胸の詰まるような息苦しさは、首枷が動いて少し首が絞まったせいだ。カチリと音を立てて外れた銀の枷を掴んでゆっくりと降ろす。
「その言葉だけで充分です。私も貴方に恋することはないですけれど、親愛の情を深く抱いておりますし……この先もそれは変わりません」
アルノシュトも私も、お互いを異性として愛することはない。ただ、仕事仲間として、友人として、家族として。恋愛とは違うけれど、等しく大事な愛を育めばいい。愛にはいくつも種類がある。そのどれか一つが特別素晴らしいという訳ではないのだから。
(……心地良いはずなのに変ね、なんだか落ち着かない)
抑えられていた魔力が体を巡る。氷の魔法がかけられた部屋から温かな日差しの元へ出た時のような、凍える体が解されるような感覚。全身をゆっくりと巡っていくそれを無言のまま感じていたのだが、ふと。アルノシュトが私の背後で無言のまま動いていないことに気が付いた。
鍵を外してから数分経過している。魔力の巡りを待っていた私はともかくアルノシュトが身動き一つしていないのは何故だろう。
「アルノー様……?」
首だけで振り返る。アルノシュトは鍵を外したままの恰好で固まっていて、私が声を掛けると勢いよく片手で鼻と口を覆った。放り出された鍵が床に転がる音が響く。
灯された火はアルノシュトの表情がはっきり分かる程明るくないけれど、火の色のせいなのか肌が赤く染まっているように見えた。耳と尾が大きく膨らんでいることだけはぼんやりとした輪郭から察せられたが、唸り声が聞こえないので怒っている訳ではないだろう。……何かに酷く驚いている、という感じだ。
「あの、どうかされましたか?」
「ッすまない……! これ以上は無理だ……!」
驚くほど素早い動きでアルノシュトが部屋を飛び出していった。残された私は訳も分からず彼が出ていった扉を見つめて呆然とするばかりである。
「……一体、何が……?」
床に落ちた鍵を拾い上げ、首枷と共にテーブルの上に置いた。これを外した途端、アルノシュトの様子がおかしくなった。私の変わったところといえば抑えられていた魔力が外に出るようになったくらいだ。
出会った当初、アルノシュトは魔道具である首枷に嫌悪感を覚えていた。もしかして獣人は“魔力”を本能的に拒絶してしまうのだろうか。
(そうだとすれば……私は、魔法使いは、魔力を封じなければ獣人と親しくなれない……ということ?)
ほんのりと揺れる炎で鈍く光る銀の装飾を見つめる。これがなければ今まで積み上げてきたものは無駄になってしまうのだろうか。枷をはめなくては、どちらかが不自由でいなくては、獣人と魔法使いは親しくなれないのだろうか。
「こいつは凄い香りだな」
「ッ……シンシャ?」
「よう、フェリシア。さっきは良い宴で……ってなんて顔してんだ。魔法使いはほんとに表情豊かだな」
私はどんな顔をしているのか。きっと、情けない顔に違いない。ピシャリと己の頬を叩いて感情をリセットする。すると何故か両手を掴まれた上に「何してんだ!」と近くで大きな声がしたので驚いた。
シンシャは扉の前に居たはずだが、獣人の身体能力で目の前まで飛んできたらしい。
「気合いを入れ直しただけなのだけれど……」
「……なんだ、驚いた。魔法使いはそうやって気合い入れんの? 怪我は……ああ、爪がないからしないのか」
そう言ってパッと手を離す。たしかに獣人の長い爪があれば、今の行動で怪我をしてもおかしくはない。シンシャはそれで慌てて駆けてくれたのだろう。……やっぱり彼は優しい人だ。
「驚いたのは私の方だわ。……ふふ、でもありがとう。心配してくれたの……してくださって」
「別にいい。……その丁寧な言葉遣いも、無理して使わなくていいしな」
驚いたせいで乱れた言葉遣いを直そうとしたのだが、そのままでいいと言われてしまった。このように言われて丁寧な言葉遣いを続けるのは逆に失礼となりそうなので頷く。
「アルノーはお前の香りに驚いただけだ。俺たちより鼻が利くからな、狼族は」
「私の香り?」
「自覚ねーの? ……酔いそうなくらい、こんなに香るのに。さっきまでお前はこんなにおいしなかったっていうか、そもそもほとんどにおいがなかったんだけどな」
もしかしてそれは魔力の香りだろうか。魔力を今まで封じられていたから分からなかったもので、シンシャの口ぶりではかなり強い香りらしい。……私の魔力が多いからかもしれない。
だがどうやら悪臭ではないらしく、シンシャの尾は機嫌がよさそうに揺れている。
「どんなにおいがするの?」
「美味そうなにおいだよ。……だからフェリシア、男と二人きりになるなよ? 特に肉食系の獣人はだめだ。噛みつかれるぞ」
それはつまり、物理的に食べられるということだろうか。さすがに生きたまま食べられるのは嫌だし、魔法で抵抗するとは思うが、それが戦争の火種になってもいけない。真剣に頷いた。
「あ……でもシンシャはいいでしょう? もう少し居てくれないかしら。いつもはアルノー様と眠る時間までお話しするんだけど……今日は戻ってきてくださるか分からないから」
「…………信頼が痛ぇなぁ……」
シンシャは不思議なことを言いながら軽く頭を搔いた。しかし乱暴に椅子に座って、背もたれにだらりともたれかかる。どうやら話し相手になってくれるらしい。
翌日になればアルノシュトも元に戻るだろう。そう思っていたが――翌日も、アルノシュトの様子はおかしいままであった。
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