第7話



「シンに会ったのか」



 朝、部屋を訪れたアルノシュトと一緒に朝食を摂っていると突然そう切り出された。こうして小さなテーブルで向かい合って食事を摂り、話をするのが習慣となってきている。朝は大抵その日の予定を話し合うのだけれど今日はそれよりもそちらが気になったのだろう。

 「シン」という愛称から思い当たるのは昨夜出会った人物以外にない。そしてその相手で間違いないと確信して頷いた。



「はい。……よくお分かりになりましたね」


「においで分かる。狼族や犬族は特に鼻が利くからな。……この部屋に入っただろう?」



 狼の獣人は嗅覚が鋭いらしい。私がシンシャに会ったことや、室内に招いたことも分かったようだった。そこでシンシャの言っていた“猫族を夜の寝室に招く意味”を思い出し、ハッとする。



「その、決してやましいことはありませんので……」


「そうか。……しかし、どちらでも構わん。フェリシアが狼族に合わせる必要は無い」


「……それは、どういう」


「俺は貴女を愛せないからな。貴女が他の男の愛を求めても責める気はない」



 何故だろう。アルノシュトのその言葉に胸を押さえつけられたような苦しさを覚えた。彼はおそらく悪気があるわけではない。むしろ、私を気遣っているのだろうとも思う。

 けれど私は、愛されることがなくてもアルノシュトの妻となった。形だけであったとしても、彼の妻として正しく在りたい。



「……そのようなことをするつもりはありません。魔法使いの夫婦は一夫一妻ですし……私は、貴方に嫁いだのですから」



 恋愛をするためにここに来た訳ではない。私はアルノシュトと共にマグノとヴァダッドを繋ぐ役目を果たすことを人生の目標にしようとしている。一般的な夫婦とは違うだろうけれどそれが私達の夫婦の在り方で、二人で変わっていく二国、二種族を見守って終わる人生ならそれもよいと思えるようになってきたところだった。

 まるでそれを否定されたような気持ちだ。アルノシュトにその考えを話した訳ではないから、彼が「愛されないことを辛く感じるのではないか」とこのような提案をしたのだろうと見当はついても、悲しいものは悲しい。



「もしかして……傷付けただろうか」


「…………正直に言えば、少し傷つきました」


「……すまない。俺は……貴女が少しでも、この地で幸せを見つけられたらと……」



 無表情なアルノシュトの耳と尻尾がしゅんと垂れ下がっている。そんなに落ち込まれると怒れないではないかと苦笑した。

 自分の考えを伝えていなかったから彼に余計な気を遣わせたのだ。これを機に私の想いを話しておくべきだろう。



「ここに来てまだほんの数人と知り合っただけですが……ヴァダッドの人は魅力的です。獣人と魔法使いが盛んに交流できる未来が訪れたら嬉しい、と思うようになりました」


「それは……俺も、そうなったらいいとは、思う」


「はい。だから私は愛されることなど望みません。……貴方と、より良き二国の未来を作る仕事をしたい。その未来を見てみたい。それが私の幸せとなりましょう」



 私はアルノシュトが好きだ。異性としても魅力的だと思う。けれど愛せないという彼の愛を求めたりはしない。人間として、その人柄を好いている。彼とならこの先も上手く仕事ができるだろうと、彼がパートナーでよかったと思う。……ただそれだけなのだ。

 狼らしい黒く大きな尾が暫く戸惑うように揺れ、そしてワインレッドの瞳を軽く伏せた彼は小さく息を吐いた。まるで、安心したように。



「……ありがとう。貴方が俺の花嫁でよかった。共に……二国の良き未来のために、頑張ろう」


「ええ。まずは次の宴を成功させましょう」


「ああ。……これから改めてよろしく頼む」



 テーブル越しに差し出された右手に少し驚いた。ヴァダッドに握手の習慣はないからだ。ついその手とアルノシュトを交互に見つめていると、彼の耳が不安げに後ろの方に倒れていく。



「……こういう時に使う挨拶なのかと思ったんだが、違ったか?」


「いいえ、間違っていません。……よろしくお願いいたします」



 驚いて手を取るのが遅れてしまったが彼の手をそっと握った。温かくて大きな手が優しく私の手を包むように握り返してくれる。

 そういえば、アルノシュトに触れたのは嫁いだ日のエスコート以来な気がする。ミランナはスキンシップが激しいけれど獣人が皆そういうスキンシップを好む訳ではないのだろう。彼があれほど身を寄せてくることなど想像もできない。



「俺はまだ貴女に話せていないことがある。……宴が成功したら、聞いてほしい」


「ええ。お待ちしております」


「……俺はフェリシアが好ましい」



 突然の台詞にどきりとした。愛せないと言われているし相変わらず恋愛的な情がないのは先ほどまでの会話でよく分かっていても、やはり魅力的だと思う異性に真剣に見つめられてこのようなことを言われれば落ち着かない。……いつかは政略結婚をするのだからと、恋愛など無縁な生活を送ってきたせいか、耐性がないのである。



「だから貴女の幸福を願っているのは本心だ。俺は人付き合いが下手で、愛想もないし言葉を間違えるかもしれないが……それだけは知っていてくれ」


「はい、承知いたしました。……私もアルノー様の幸福を、願っています」



 私が花嫁になってしまった以上、離婚のできない狼族である彼は愛せない妻と添い遂げることになる。私とアルノシュトが愛し合う未来など存在しない。ならば、それ以外の幸福を。何も幸せとは好いた相手と結ばれ、子供を産み育てることだけではないのだから。

 互いに手を離して食事を再開した。その後はいつもの通り今日の予定を話し合う。



「今日も飾り切りを練習するんだろう?」


「ええ。けれどミーナに見学したいとねだられたので、昼を過ぎてからにしようかと」


「……そうか」



 何故かアルノシュトの耳がほんのりと下を向いた。残念がっているように見えるのだけれど、残念がるような要素があったようには思えない。



「では、昼まではどうする?」


「刺繍を致します。アルノー様のご予定は?」


「俺は貴女の傍に居ようと思ったんだが……刺繍をしているなら邪魔になるな」


「お話しながらでも刺繍は出来ますから大丈夫ですよ」



 下がり気味だった耳が上向きになったので気分が良くなったようだ。私と一緒に過ごしたいと思っているように見える。「好ましい」という言葉通りに恋愛感情はなくとも好かれていて、話をしたり時間を共有したいと思われているのかもしれない。それなら私も嬉しいところだ。



「フェリシアといる時はとても穏やかでいられる。俺はあまり、諍いも……戦闘訓練も、好きではなくてな」


「そうなのですか? アルノー様は……英雄的な軍人だと、お聞きしたのですけれど」


「身体が強いだけだ。俺自身は戦いたいとは思わない。戦争なんて馬鹿らしいと思っているし、誰も傷付けたくない。……こんな強さはいらなかった、と思うことがある」



 アルノシュトは軍人である。しかも相当に腕が立ち、武力で名を馳せられる程の。それでも彼自身は争いを好まず、人を傷付けることを嫌う性質を持っている。やはり性根が優しい人なのだろう。彼のような優しい人が誰かを傷付けなくてはならなくなるのが戦争というものだ。



「私はアルノー様のその優しさが好きですよ。……私も、人を傷付けたくありません。しかし強い力を持っているということは悪いことでもないかと。きっと、大事なものを守ることもできますから」



 彼とは違うけれど私も大きな魔力を持っている。この力は簡単に人を傷付けることができ、逆に言えば多くの人を守ることができるものだ。何か守りたいものがあるなら強い力を持っていることは、悪いことではない。手段や選択肢が多ければいざという時役に立つ。

 彼はじっと私を見つめ、そして――そっと目を閉じた。覆い隠されたワインレッドの瞳にあったのは、悲しみだったのか、喜びだったのか。ピタリと動きを止めた耳と尾からも感情を読み取ることができない。



「そうだな。……俺は……もっと、早く貴女に会っていれば……違ったのかもしれないな」



 彼のその言葉の意味を理解することはできなかった。どういう意味かと尋ねることも、できなかった。重たい沈黙が漂い、何か話題を変えなければと焦る。ちらりと視界に入った袖の刺繍を見て思い出したことを咄嗟に口にした。



「そういえば……新しい服の仕立ては、どうなっていますか?」



 彼と式を挙げた日に、随分と布の余るヴァダッドの服を着た私を見て「新しく仕立てる」と言ってくれていたのだが、特に採寸もしていないしどうなっているのだろうと思っていたのである。唐突過ぎたと思うけれどアルノシュトは気にした様子はなく、普段通りの様子に戻って首を傾げた。



「ん……必要、か?」


「……必要、ありませんか……?」


「…………今の恰好がよく似合う、と思ったので……必要ないかと思っていた」



 今の私はマグノの服の上に大きなヴァダッドの服を重ね着している。アルノシュトはこの格好を気に入っており、これなら新しい服は必要ないと思っていたようだ。

 たしかに外からは分からないだろうがこれはあちらこちらを糸で詰めて不格好ではない程度に直しているだけなので、しっかりと体に合わせた服の方が合うと思う。そのように話せばアルノシュトも緩く尻尾を振りながら頷いた。



「そういうことか。では……ミランナに採寸を頼もう。貴女は小さいからそれでもゆとりのある服となるだろうし、中にマグノの服を着ればいい」


「はい。そのつもりです」


「……そういえば、服を頼む手紙は書かなくていいのか?」


「今夜書こうかと。家族に伝えたいこともありますし」



 私が祖国へ送る手紙はすべてアルノシュトに見せている。私が学んだ文化に間違いがないか確認してもらうのは勿論、私に害意や企みがないことを示す意図もあった。だから彼はまだ私が“報告書”以外の手紙を送っていないことを知っているのだ。


 その日の夜、私は家族に前開きのマグノの服を頼む手紙を書いた。そして、そこにはこちらの生活が楽しいことも、心配をしないでほしいということも記しておく。



『そのような訳で服の調達をよろしくお願いします。それから、こちらでの生活は順調です。知らない文化に触れることがとても楽しいの。旦那様はとても優しい人でいつも私を気遣ってくれているから、心配はいりません。私はここでマグノとヴァダッドを結ぶ懸け橋になると決めました。いつか家族全員、気軽に会えるような関係にしてみせるから、楽しみに待っていて』



 執務机で書き終えた手紙を、隣に立って待っていたアルノシュトに渡した。監視の下で書けば妙な細工もできないからだ。しかし彼は特に警戒をしている訳ではなく、私の頼み通りに隣で見ていてくれただけである。

 便箋一枚で収まるような短い内容であったのに、かなりの時間その手紙を眺めていたアルノシュトはふっと柔らかい顔をして、丁寧にその手紙を封筒へと収めた。



「貴女は家族を愛しているんだな。……愛されてもいるんだろう」


「ええ。とても大事な家族です」


「少し、羨ましい。……俺の家族はもう、いないからな」



 私は殆ど部屋を出ない。彼の両親や兄弟の存在は気になってはいたが、遠い部屋に居て会わないように配慮されているか、別の家に居るのだろうと思っていた。私が会う人間を彼が選んでいるから――きっと私を信用できたら紹介してくれるのだろうと考えて、何も言わなかったのだけれど。


(……まさか家族を失くしているとは思わなかった。こんなに広い屋敷で、一人だったのね)


 私の行動範囲は狭いがそれでもこの屋敷が広いことは知っている。この広さに一人きりではあれば、それは寂しいことだろう。けれど、今は私がいる。



「アルノー様、私は貴方の妻です。一般的な夫婦とは違うでしょうけれど……家族には違いありません。夫婦の情ではないですけれど、私は貴方が好きです。これからきっと……本当の家族に、なれると思います」



 私たちは無理やり結ばれたばかりだが、互いの人間性を好ましく感じているのだ。ならば本当の家族になれるだろう。血の繋がりのない家族は夫婦以外にもいる。養子であったり、義兄弟であったり。血のつながりはなくても信頼と親愛で結ばれている、そういう家族になればいい。

 そう思っての発言だったのだけれどアルノシュトは数秒間固まってしまっていた。拙い発言をしただろうかと不安になっていると、次第に尻尾が大きく揺れ始める。そして彼はおもむろに私が座る椅子に手をかけ、その身を屈めた。



「……ありがとう。フェリシア」



 頬同士がくっついてあたたかい。こめかみのあたりに彼の柔らかい耳が当たっている。ミランナの思いっきり頬擦りするような激しいものではなく、本当に軽く触れただけのもの。けれどこれは間違いなく、親愛の証だろう。

 ただ、突然のことに驚いたらしい心臓が、警鐘のごとく鳴り響いていた。



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