第29話

   ☆



 七月に入った。

 期末試験が終わり、夏休みになると同時に梅雨が明けた。

 一年で一番暑いこの季節に入堂家は引っ越してきた。

 引っ越し会社の四トントラックが、入堂家の荷物を満載してやってきた。部屋に余裕があるため引っ越しの際に捨てるものはなく、根こそぎ持ってきた家財道具一式は運び込むのにまる一日かかってしまったが、どうにか夕方までには片づいた。段ボール箱に入れたままの荷物もあったが、それはすぐに必要なものではなく、おいおい整理していけばいいものだった。

 表札はふたつかかることになった。話し合って別姓を選んだ。それでも家族は家族だろ、とそんな形にはこだわらない父親だった。

 戸籍上はおれは「入堂」になったが、旧姓も記載され、いかなる証明書も変更することなくそれで不都合なく生活できるようになったのはありがたい法改正のおかげだ。

 転居してきた入堂一家には引っ越す前と同じく二部屋(母親に一部屋、姉妹に一部屋)をあてがい、五人での生活がスタートした。

 それにともなって、いくつかのルールも決まった。それはそうだろう。男所帯に突然、三人もの女性が住むことになるのだから。

 あらかじめ決めていたこともあるようだったが、実際にいっしょに住んでみないことにはわからないことが多く、その度にルールを家族会議で決めることになった。それでも、それを乗り越えていこうという建設的な姿勢がお互いに見えて息苦しさを感じるようなことはなかった。

 たとえば呼び名についてだ。

 入堂静奈のことを、おれはこれまで名字で呼んでいた。学校ではそうだったし、あえて呼び名を変えたりしなかった。しかし家族となったいま、それではまずいのではないか、と本人に質してみた。

「じゃあ、お姉ちゃんにする? わたしはそれで慣れているけれど」

 妹がいるからその呼び名は名前を呼ばれるよりも抵抗がないだろう。でも、おれのほうが三か月ほど遅く生まれているとはいっても「お姉ちゃん」はなかろうと閉口する。

 といって、ではどう呼ぶべきか。名前で呼ぶ? それ以外なさそうな気もしたが、どこか心に抵抗がある。

「わたしは、縣さんをお兄ちゃんと呼ぶよ。香音もそう呼ぶだろうから、名前では呼ばない」

 入堂はおれの迷いを気にするでもなくそう言った。

「……わかったよ」

 おれは折れた。

「──じゃあ、姉さんだ」

 どこかしら違和感を禁じ得ないが、まずまずの妥協点といえるだろう。

 入堂はくすりと笑った。

「そういえば、最初、こうじろうって名前だから、てっきり次男だと思ってた……。だから年上の男の子がいるんじゃないかって、なんかそれもあって、いっしょに暮せないなって」

つぎじゃなくてひとしって書いて浩仁郎だからな。次男だと思われることはよくあったよ」。

「でも結局、お兄ちゃんができちゃった……」

「でも、学校でそれが出てしまわないか心配だな」

「それならもう学校では口をきかない?」

「可能なら。どうしても伝えたいことがあったら、スマホを使えばいいし」

「その代わり、家ではいっぱい話そう」

「そう話すことなんかないだろ」

 きょうだいのいないおれにとって話し相手は父親しかなく、父親とは会話がほとんどなく、それ故、家のなかはいつも静かだった。それが普通だから、なにを話すというのか見当もつかない。

 ともあれそんな感じで、夏休みという期間を使ってうまく家族関係を構築していこうと、手探りではあったが少しずつ前進していった。

 ところが、安定した家庭内の雰囲気を作っていくなかでちょっとした事件が起きた。

 香音が失踪したのだった。

 夕方になっていないことに気づいたのは静奈だった。そろそろ夕食を作り始めようと思いたったところだった。

「どこにもいないのよ」

 おれの部屋に入ってきて、静奈はそう言った。

 夏休みの前半に宿題をある程度すませておきたいと考えていたおれは、ここ数日、起きてからほとんど部屋に閉じこもっていた。夏休みの宿題は中学に比べて驚くほど多く、これをぜんぶ仕上げなくてはならないのかと思うと気が重かった。だがやらないわけにはいかず、わからないところはネットで調べながらも進めていっていた。もちろん静奈も同じ宿題が出ているので先行してできたところは教えることもでき、それが親密になる口実にもなるだろうという計算もあった。

「いっしょだったんじゃないんだ」

「わたしだって宿題しなくちゃいけないし」

「そりゃそうだな」

「一応、目の届くリビングで宿題をしていたけれど、香音は退屈してしまうじゃないの」

「いつもはどうしてたんだ?」

「近所の友だちと遊んでて……あっ」

「もしかして、友だちのところへ?」

 元の家とは直線距離で一キロ半ほど離れている。たった一キロ半。それだけの距離を小学校へ登校する生徒もいたが、香音はもっと近かった。しかも道がわかっているのならまだしも、そうでないなら途方もなく遠い距離に感じるに違いない。

「わたし、元の家に行ってみる」

 最寄り駅ではひとつ離れているだけなので一人で電車に乗って行ったのかもしれない。まだ八歳ということもあってスマホを持たせていないことが悔やまれた。

「じゃあ、おれはこの近所を探してみるよ。家の場所がわからなくなって帰れないのかもしれないし」

 探検と称して、おれも幼少のころはよく近所を目的もなく回ってみたことがあった。小学校にあがると活動範囲も急に広くなったりするものだから、買ってもらった自転車に乗って友だちとつるんで、あるいは一人で、あっちこっちへ出かけたものだった。しかし土地勘のないところへ引っ越してきたら迷ったりすることもあるだろう。

 静奈は先に家を飛び出していった。おれは自転車にまたがり、どこという目星もなく走り出す。

 この辺りは山を切り開いた住宅地で坂が多かった。変速機のギアを切り替えながらペダルをこぐ。

 さがしつつ、香音の行動を推測する。

(友だちと会うというのなら、どこでだろう……)

 友だちの家なら確実だろうが、それは静奈にまかせていればいい。それ以外の場所となれば、どんなところがあるだろう……。

 おれはホームグラウンドであるこの町の地図を思い浮かべる。

(どこかで落ち合える、それもわかりやすい場所というのは、どこにあるだろう……初めて行っても迷わない場所といったら……)

 脳裏にいくつかの候補が浮かんでくる。

 イズミヤが思いついた。おれが幼い頃からよく行っていた場所だ。昔はゲームコーナーとかがあったりしたが、最近ではかなり様子も変わってきていたが、それでもフードコートはあったし、この暑いなか、長時間すごそうと思えば冷房のきいたそこが最適に思えた。

 汗だくになって自転車で向かうイズミヤは、富雄駅と学園前駅のちょうど中間に位置する。線路沿いに建っているので迷うことはない。駐輪場に自転車を止めて期待してフードコートに入ってみたが、しかし香音の姿はなかった。

(ここでないとすれば……富雄川沿いにどこかへ行ったのか……)

 探検なんかではなく友だちに会いに行ったのだとすると静奈が見つけてくれるだろうがまだ連絡はない。

(いや、もしかしたら……)

 おれはフードコートを出ると、今度は線路の北へと向かった。

 北側は土地が山に近くなってくるので高低差が大きく、自転車を立ち漕ぎして走らせる。

 そして……。

 たどり着いたのは香音が一学期まで通っていた小学校だった。

 夏休みが始まってひっそりとしているかと思えば、地元の少年サッカーチームが運動場で練習をしていた。まだ日が高く、日焼けした男の子たちがボールを追いかけまわしている。監督と思しきTシャツ姿の太った男が声を張り上げて指導をしていた。

 目を転じてさがしていると、校舎の日陰に、香音がもう一人の女の子といっしょに座り込んで楽しそうに話し込んでいるのを見つけた。すぐ横に二台の子供用自転車が立てかけてある。

 おれは声をかけようとして思いとどまった。おそらく離れ離れになってしまった友だちなのだろう、引っ越してからほんの数日でも毎日のように顔を合わせていた当人にとってみれば久しぶりに会うように感じているに違いない。しばらくそっとしておいてあげたほうがいいと、気のすむまで待ってあげることにした。代わりに静奈にメッセージを送っておいた。

 日が暮れる前には解散してくれるだろう。そう思っておれも日陰でたたずんでいると、土を踏む足音が近づいてきて振り返る。静奈だった。額に汗が光って、息を弾ませていた。この暑いのに走って来たらしい。

「香音は?」

 おれは無言で指差す。

 静奈は振り向き、一歩踏み出そうとして立ち止まる。おれと同じ気持ちになったのだろう。

 そうしてしばらくの間、二人して静かに待つことにした。

 香音の笑顔はすごく楽しそうで、またこうやって会わせてあげたいと思うのだった。

 夕日が赤く周囲を染め始め、涼しくなったのか、セミが鳴きだしていた。

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