第10話

   ☆



 土曜日。

 公立高校では休みになるが、私立校である南愛高校では午前中は通常授業がある。トップクラスのレベルの高い大学を目指しているほどではないが、一応は進学校であるし、生徒もそのつもりで勉学に励んではいた。

 ただし、今日は授業はなく、学校には登校してない。

 大阪南港にある見本市会場、インテックス大阪で、高校生のための合同大学案内が催されていて、一年生と二年生は進路を決める情報収集のために参加するよう言われていたからである。二週間前に高校で配られたプリントを見ながら、各自、地下鉄やバスに乗って現地にやってきていた。

 ニュートラムの中ふ頭駅から、大勢の高校生に混じって会場へと入ると、エントランスを抜けたところに広場を囲むように四角い大きな倉庫のような建物が配置されていた。誘導してくれている係員にしたがって、大きく数字が書かれている館内に入った。

「すごいなぁ……」

 おれの隣で、いっしょに会場内を見渡す牛岡がその規模の大きさに感嘆している。途中の生駒駅で待ち合わせていっしょにここまで来たのだった。

 体育館よりも広い館内はブースで区切られ、近畿一円はもとより、遠くの大学からもやってきてPR合戦を繰り広げていた。こういうスケールの大きな合同説明会など来たことがないから、その熱量に飲まれそうになる。

「どこから回る?」

 入口で配られた案内図を見ながら、おれたちは固まった。

 高校一年のこの時期、正直なところ、やっと高校入試を終えて受験勉強から解放されたばかりで、これから充実した高校生活を送るぞと意気込んでいるところに、もう大学入試を考えなければならないのかと、テンションが下がる。

 すでに目指す大学が決まっていれば、それに向けて努力もできようが、そこまでぜんぜん考えられないでは、まだ先のことだと本気になれなかった。だからこの機会に多くの大学の情報を集めるんだよ、と担任の教師は言ったが、これだけたくさんのなかから無作為に回っていっても頭に入るとは思えない。

「どの大学に進学するかも大事だが、もっと大事なのはその大学でなにを学びたいかだぞ」

 とは担任の言葉だ。

 ――なにを学ぶか。

 それを考えて、各大学のブースを回って資料をもらったり、説明を聞いたりするのがいいだろうが、とりたてて明確な目標がない。だから、

「どこから回るっていってもなぁ……」

 おれは答えに窮する。

「将来はどんな仕事をするか、だよな」

「小学生のころは宇宙飛行士になりたいと思ってたけどな」

「宇宙飛行士って、どうやったらなれるんだ?」

「知らないよ。っていうか、現実を知って、もっと手の届きそうな目標にシフトしていくよな、普通」

 夢は夢なのだ。いまの自分がそれにふさわしいかどうかは、よく心得ていた。

「そうだよな。そういや現実的っていえば、おまえ、eスポーツはどう思う?」

「ああ、あれか……」

 牛岡の問いに、おれは指定されたスマホゲームを思い返す。ここへ来る電車のなかでもプレイしていた。「リーグ・オブ・レジェンド」「ロケット・リーグ」「フォートナイト」の、公式種目とされているなかからピックアップした三種類のタイトルのうち、クラブとしてどれに集中するかを選ぶために検討しているのであって、純粋に「遊ぶ」という気軽さだけでないのが不思議な感じだった。

「どんなゲームがいいのか、まだやり始めたところだからな。そう簡単には判断できないよ」

 ある程度やりこまないとルールも理解できず、どうやって勝っていくか見通しが立たない。eスポーツ部として公式戦に参加するとなると、これまでのように個人個人が好き勝手にゲームで遊んでいくというわけにはいかない。チームで戦う、というこれまでやってこなかった形態は、おれたちをひどく戸惑わせていた。

「ま、いまはそれはともかく、大学のことに集中しようよ」

 おれはそう言って、牛岡の背を押すように会場の奥へと進んでいった。

 熱心にブースで説明を聞いている賢そうな二年生もいれば、なんとなくぶらぶらと歩いていて、ブースを通り過ぎがてらになんとなく受け取ってしまった資料を持ち歩いている一年生もいる、といった感じ。

 入学しやすい大学、というのは確かにあるが、興味のない分野を選ぶとやる気が続かず学業に支障をきたして、せっかく入学したのに退学してしまう、ということになりかねない。将来どんな職業につきたいか、というのもさることながら、高校よりもレベルの高い学習内容についていくためにも、得意科目から学部を選び、さらに各大学にどんな特長があるのかじっくり吟味していくのが大事だろう……とも担任は言っていた。テレビゲームが好きだからといって、単純にゲーム関係の勉強ができそうな学部と安易に決めてしまうのもよくないだろう。

 いったん牛岡と別れ、ひとりで会場を回った。他校の生徒と入り混じって、ゲーム関連の工学部のある大学のブースで話を聞くも、熱心さに気圧されてしまう。

(おれは進路をどう考えるべきだろう?)

 得意科目はこれといって突出しているものはない。あえていうなら数学だろうか。となると……と思案しながらいくつかの大学の資料をもらい、手に下げながらさまよっていると、ひとりでいる入堂の姿が目に入った。他のクラスメートとともすれ違ったりしていたから、そんなこともあるだろう。

あがたさん」

 声をかけられてくるとは思わなかった。

「あ、……あぁ、おはよう」

「もう十一時よ」

「いや、まぁ、そうだけど」

 間抜けな返答をしてしまった。

「縣さんはどこの大学を目指してるの?」

「いや……まだぜんぜん決まってない。そういう入堂さんは?」

 と、入堂のもらっているパンフレットに目が行く。

「わたしはいま部活は天文部に所属はいってるんだけど、将来もその関係に進もうかなって思ってる」

「天文……? そんな学部のある大学があるんだ……。天文学者になりたいわけ?」

「できれば……だけどね」

 誤解されないようにか、「できれば」というところを若干強調し、はにかんだような笑みを浮かべて答えた。そんな表情が新鮮だった。

静奈せいな!」

 入堂を呼ぶ甲高い声がした。

 振り返ると、鴨島かもしまが駆け寄ってくる。

「なによ、あんた、また静奈にちょっかいかけてるの」

 嫌悪感いっぱいの口調で。鴨島にとって、おれは「敵」に認定されてしまっているようだ。

「つきまとわれて困るわよね。さ、行こ!」

 鴨島は入堂の肩を抱くようにして、いっしょに背中を向け、そそくさと去っていった。

 その場で呆然と見送りつつ、

(天文部か……。うちの高校にそんな部活があったんだ)

 とつぶやく。

 宇宙飛行士の夢を追っていたなら、おれも天文部に入部していたかもしれないが、すっかり枯れてしまっていて、eスポーツ部という名ばかりのゲーム部に入り、そのせいでいま岐路に立たされている。それと比べて、未来をしっかり見据えている入堂がどこかまぶしく感じられた。



 結局、なんの有用な情報も得られないまま、インデックス大阪を後にした。

「これからどうする? まっすぐ帰るか」

 再び合流した牛岡が尋ねる。ニュートラム中ふ頭駅の密閉されたホームがなんとなく息苦しく感じる。コスモスクエア駅で地下鉄中央線に乗り換えれば、乗り入れている近鉄線で生駒駅までストレートに着いてしまう。あとは奈良線に乗り換えたら最寄り駅だ。

「あの、それなんだけど……」

 おれには実は予定があった。

 数日前、入堂に、おれの両親の離婚について訊かれた。が、なにも知らなくて、そのときはなにも返答できなかった。

 もう十年も過去まえの話であるし、子供心に母親が家を出て行った理由を訊くのはいけないような気がして、以来そのままで、縣家にとって触れてはいけない傷のように忘れられてしまうことになっている。

 いまさら――と、思わないでもない。おそらく二度と会うことのない母親について知ったところで、なんになるという感情があった。知らずに一生を終えても、なんの後悔もないと思う。これまでは――。

 だが父親の再婚という我が家の一大転機を前に、殻に閉じこもったままというわけにもいかなくなった。入堂家と所帯がいっしょになるにあたって知らないではすまないこともある。

 おれは父親を信用しているし、だから離婚の原因は母親にあると思っている。それでも確かめないわけにはいかないだろう。

 おれは尋ねた。

 すると父親はしばし黙考し、そうだな、とつぶやくと、一枚のメモを持ってきた。

「おまえの母親の住所だ。そこへ行って直接聞いてくればいい」

 そういうもったいぶったやり方に、おれは怒りよりも戸惑いのほうが大きかった。父親がおれに言ってくれない余程の理由があるのだろう。離婚の原因を知るのに覚悟がいるような父親の態度が気になったが、おれはその住所へ訪ねていくことにした。

 それが今日だった。大学紹介イベントの帰りに寄り道するつもりだった。

「今日はちょっと寄るところがあるんだ」

「そうなんだ……」

 牛岡は意外そうな顔をする。

「ニュートラムで住之江すみのえまで行く」

「そうか……、まぁ、気をつけて」

 牛岡はそれ以上尋ねない。そこへ、住之江公園行きの電車がホームに滑り込んできた。ホームのドアと電車のドアがほぼ同時に開く。

「それじゃ……」

 おれは牛岡を残して電車に乗る。

 中ふ頭駅から乗った高校生たちで車内は混雑していた。誰もが会場内でもらった資料をかかえている。友人同士でやってきているのか、各自雑談して小ぶりなニュートラム車内は騒々しい。

 終点の住之江公園駅でニュートラムから大勢の客が降りる。ぞろぞろと、長いエスカレーターで高架駅から地下ホームへと移動する。終点のホームには青いラインの入った電車が発車を待っていた。

 地下鉄四ツ橋よつばし線の住之江公園駅から三つ目の駅である岸里きしのさと。おれはそこで下車する。

 地上に出るとスマホで地図を表示させて、昔ながらの住宅地を歩くこと約十五分、古い二階建てアパートにたどり着いた。築半世紀はたっているのではないかと思うような外観だった。薄汚れた外壁にはクラックが走り、二階への外階段はペンキがはげて錆だらけ、青い瓦葺きの屋根には、ところどころに草が生えているのが見えた。

(こんなところにおれの母親が……?)

 おれの住んでいる家は、ここに比べれば大豪邸だ。なんで母親はあの家を出て行ってしまったのだろう。経済的な豊かさを捨ててまで離婚した理由に想像がつかない。

 父親の暴力? 浮気?

 そんなネガティブな原因しか思いつかない。しかし、おれの知る父親にはそんな影さえない。

(ではいったい……?)

 おれはしばし躊躇する。十年も会っていない母親にアポイントもなく訪問することに、なんの迷いもないわけがなかった。

 どんな顔してなにから話せばいいか頭のなかでシミュレートして、ひとつうなずくと、住所にある部屋番号をさがしていく。二階の一室だった。

 が、表札なく、そもそも人が住んでいるのかどうかもあやしいほど静かだ。合板のドアは表面の端のほうが剥がれていて、修繕もされていない。

 おれは呼び鈴を押した。プー、という、明らかに電池で作動しているとおぼしきチープな音が鳴った。

 しばし待った。

(留守だろうか……)

 やはり突然やってくるのはよくなかったか――。しかし電話番号もメールアドレスも知らないし、あらかじめ訪問を告げることができなかった。

 ただ、前もって連絡しても、面会を断られるかもしれないリスクはあった。

「そこはもう引っ越したよ」

 不意に声がかかり、おれは振り向いた。

 隣の部屋の住人だろう。ドアの前に立って、おれを見ている――というか、不審者をにらみつけているような中年の女だった。ラフな部屋着で、髪の毛も乱れてだらしがない。

「あんた、誰なんだい?」

 ドスのきいた低い声で訊いてくる。

「あの男と関係あるのかい?」

 どうしてこのひとはこんなにも攻撃的なのだろうか。

 それよりも、引っ越した? ここは空き家なのか。それに、あの男と関係? あの男とは誰だろう? 母親の浮気相手?

「引っ越したって、いつのことですか?」

「はん! 二年前だよ。あんなのが隣に住んでたなんて、出て行ってくれてせいせいする」

 ご近所トラブルというのだろうか。ただ、この隣人の態度をみる限り、この人のほうにトラブルの原因があるような気がした。

「あの……なにかあったんですか?」

「なにかあったかって!」

 隣人は声を張り上げた。

「当たり前だろが」

 苛立つ声が響いた。

「その女はね――」

 そしておれは、真相を知って愕然となる。

 帰りの電車のなかで、おれはなにを考えていたのか、どうやって乗り換えて最寄り駅までたどり着いたのかさえ記憶になかった。

 それほどショッキングな内容であった。

 しかし母親が出て行ったのもうなずける。母親は、父親と息子であるおれを守るために犠牲になったのだ。そして、このアパートにさえもいられず行方をくらませてしまった。

 徹底した行動だった。母親がどんな苦労をしているのか想像もつかないし、おそらくおれの想像以上の苦悩を味わっているだろう。

 母親に背負う荷は重く、しかしそんな母親を助けてあげようにも、おれにはなんの力もなかった。

(まさか、そんなことが……)

 母親の実の弟が、幼女連続殺人事件の犯人だった、なんて……。

 その事件のことは知らない。おれはまだ子供だった。だが事件当時、世間の注目を浴びたことであろうとは間違いない。

 非道な犯罪者の姉だとなれば、それはもう世間の非難はすさまじいものだったに違いない。犯罪者本人ではないのに、その家族だとなれば、容赦ない攻撃を受けてしまうのは、理不尽ではあったが、避けようがなかった。

 それが人間社会というものだった。

 そしておれは、その姉の息子だ。殺人犯の甥っ子であり、叔父が殺人犯だ。

 その事実に、言いようのない感情がおれの胸のなかに渦巻くのだった。

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