第2話

 おれはその日、部活には出ないことを牛岡に告げ、さらに誤解がないよう、へんなウワサを流さないよう重々言い聞かせて帰宅した。とてもではないが、部室でゲームなんかに興じている精神状態ではないのだ。

 帰宅すると午後五時半だ。(部活があると、七時ぐらいになる)

 もうすぐ帰ってくるはずの、たったひとりの家族である父親を待った。

 4LDKの二階建ての家の15帖のリビングダイニングはひとりだと広々としすぎるぐらいだ。十年前に母親が飛び出していった理由はいまもってよく知らないし、聞こうとも思わない。ただ、父親がこんな家を買ったぐらいだから、離婚は予想外だったのだろうと想像する。

 そんな父親がどんな仕事をしているのかは知らない。おれ自身がなんの興味もないから聞いたことがないせいだが、残業がほぼなく、すべてが計画的に動いているというから、今日も時刻表どおりに帰ってくるだろう。滅多にないことだが、もし帰りが遅くなるようならスマホにメッセージが入るはずだ。

 父親に対してはなんの不満もない。むしろ高校受験のための学習面でのサポートもそつなくやってくれたし、交友関係についてもとやかく口を差し挟まないしで、まったくといっていいほど不足はない。家事も離婚前から母親と分担してできていた。実直で、というか、それだけが取り柄のように、ひとり息子のおれからは見えていた。あるいはそれが、母親からしたらなにかしら不満だったのかもしれない――知らんけど。

 壁にかけられたアナログ時計が六時を指すと同時にインターホンが鳴って(家に誰かがいてもいなくても、インターホンを鳴らすのが習慣になっているのだ)、玄関ドアが解錠されるカシャンという乾いた音がリビングにまで聞こえてきた。

「ただいま」

 リビングダイニングに入ってきた、もっさりしたジャンパーを着た父親は、テーブルについているおれを見る。

「お、浩仁郎こうじろう、先に帰ってたんだな。今日はクラブ活動はなかったのかい?」

「あったよ。でも、そんな気になれなかったんだ」

「そうか……。まぁそんな日もあるよな」

 父親はリビングを横切り、隣接する奥の部屋に入っていった。上着とビジネスバッグを置くと、洗面所に移動して手を洗ってくるのを待った。

 いつもなら、その間に冷蔵庫をあけて食事の用意をするのだが、今日ばかりはおれはテーブルについたままでじっと待っている。冷蔵庫には、昨日の日曜日に買ってきた今週一週間分の食事が冷えていた。毎日、それを温めて食卓に並べていくのだ。手料理が食べたい、などという無理な要求はしたことがない。おれはそれでじゅうぶんだった。

 リビングダイニングに戻ってきた父親が、おれの様子に変化を感じて、「どうかしたか?」と、尋ねた。

「おやじ……」

 おれは、きょとんとしている父親をまっすぐに見て、強調するようにことさらゆっくりとした口調で訊いた。

「なにかおれに言わなければならないことがあるんじゃないのか?」

 ん?――と、父親は小首を傾げた。

 おれはたまらなくなって強く言ってしまう。

「しらばっくれてんじゃねぇよ。今日、学校で聞いたんだよ」

「学校で……?」

「そうだよ」

 おれは大きくうなずく。

「再婚、するんだってな」

 父親はやっと合点がいったように、ほっと息をついた。いったん天井を向き、LEDの間接照明から視線を戻すと、

「ああ、そのことか……」

 と、言いやがった。

「そのことか……って、大事なことだろ!」

 おれは思わず声をあらげた。父親ののらりくらりとした態度が鼻持ちならない。

 父親は四脚あるリビングテーブルのイスのひとつを引いて、腰を下ろすと微笑した。いつも座る席は決まっていて、残りの二脚はここ数年、誰も座っていないかもしれない。

「そうさな……。バレちゃしょうがないな。うん、言うつもりだった。再婚をしようと思ってる。……でも、なんだって、それを学校で知ったんだ?」

「うそだろ……」

 おれは呆れた。再婚するということが信じられないのではなく、再婚するっていうのに相手のことをなにも知らないことに驚いたのだ。

 だからおれはかぶりを振り、なによりもおれにとって重要な事柄を言ってやった。

「おれのクラスにいるんだよ、その再婚相手が母親だって女子やつが」



「わたしのおかあさんが、今度、再婚するんだけど、……その相手が、あがたさんのおとうさんだって聞いた……」

 おれは、入堂いりどうの言ったことがすぐには飲み込めなかった。ネイティブの英語でも聞いたかのように、あとからその意味を脳内で組み立てて理解するような感じだった。

 そして――。

「……は?」

 鯉のぼりみたいにぽかんと口をあけ、目が点になる。

「はあ!?」

 他に誰もいない教室に、おれのマヌケな声が響きわたった。

「ちょっと待ってくれ……」

 いまの入堂の台詞は短かいものだったが、そこに込められた情報量は多かった。その整理を頭をフル回転させておこなった。

 おれの父親と入堂の母親が結婚する――?

 衝撃の大ニュースである。

 それは当人だけの問題ではすまない。おれにも、そして入堂にも大いに関係がある。

 おれは入堂についてなにも知らない。高校入学から二ヶ月で、まだクラスメートの全員を憶えきっていない。というより、もしかしたら永遠に全員を憶えきらないかもしれないが、だから入堂に関しても、ようやく名前を知ったぐらいだ。しかもフルネームまでは知らない。ましてやシングルマザーの家庭だということも、たったいま知ったばかりだ。

 そして、親同士が結婚をするということは、それを機にいっしょに生活するようになる、って話になるんじゃないのか。最初から別居という選択もあるにはあるだろうが、それでは結婚の意味なんかないし、偽装結婚として処罰の対象となると聞いたことがある。

 となると、当然、その子供である入堂とおれも一つ屋根の下で同居することに――。昨日まで見知らぬ人間同士が「家族」となるのだ。

 片親同士が再婚して、いきなり血のつながらない、姉もしくは妹ができる、だなんて、幼なじみの女の子の好意に気づかなかったパターンと同様に、手垢のついたラノベかエロマンガの設定みたいな状況が現実に起こるなんて笑うしかない。いや、笑っている場合ではないのだが……。

「あの、入堂さん……。それは本当の話なの?」

 一応、確認した。入堂は黙ってうなずいた。

 なるほど人払いをしてまで言ったのもうなずける。こんな話、誰かに聞かれたくはないからな。いずれわかることになるかもしれないが、いまのところは秘匿したい事実だろう。

 おれは舌打ちした。あのおやじめ……。

「いったい、いつの間にそんな展開になったんだよ……」

 父親の顔を思い浮かべ、なんで早く言ってくれなかったんだと、小さく文句を言った。ま、もっとも、息子に言いにくかったのかもしれないが。

「わたしは先週の始めに聞いたの。だから縣さんもきっと知っているだろうと思ってたんだけど……なにも話しかけてこないし……こういうことになるってイヤなのかなって……」

「知らなかったとはいえ、それはすまなかった」

 決してそんなつもりはなくとも、無視しているように感じただろう。で、あまりにもなにも言ってこないので、しびれを切らして確認した、ということか――。

「そっか……。嫌われてたんじゃなかったんだ……」

「嫌うもなにも……」

 そもそも知らん人だし、と言いかけて口をつぐんだ。それは言ってはいけないだろう。

「ならよかった……」

 入堂は少しほっとした顔をする。先週一週間も気をもんでいたのだとしたら、心が不安定にもなろう。

「で、このことは誰にも言わず、ないしょにしてほしいんだけど……」

「んあ? あ……そうだな。了解した。おれもそのほうがいいと思う。誰になにを言われるかわからんからな」

「ん。じゃあ、そういうことで」

 入堂は安心したのか、さっきよりもずっと表情が明るくなった。が、またやや眉をひそめると、

「ところで、縣さんは、どう思うの?」

 訊いてきた。

「どうって?」

 まだなにかあるのか?

 入堂は小さくため息をついて、なにこの打てば響かない鈍感め、とでも言いたそうな口調で訊いてきた。

「親の再婚のことだよ。どう思ってるの?」

「どうって……」

 おれは口ごもった。即答を求められても困る質問だった。

「それはちょっと……おやじに聞いてみるよ。その返事、本人から詳しく話を聞いてからでいいかな?」

「ああ、そう……か。それもそうか。ん、わかったわ……」

 うまく保留にもっていけた。



 だから詳しく話を聞かなくてはならないのだ。おれと父親の生活がこれからどうなっていくのか――。おれにとっては、それが重要なのだ。

 どういう経緯で父親が入堂母と出会い、結婚までしようというほど親密になっていったのかは、ここでは省く。そもそも興味はないし、聞いているおれも、おそらく話す父親だって小っ恥ずかしい。そんなことよりも、今後のことだ。

 父親はバツが悪そうに言った。

「おまえに詳しく話さなかったことは悪かった。先方の子供たちにも話して了解を得てから話すつもりだったんだ……。もし家族会議で反対があるようなら、結婚はあきらめようと思っていたんだ。ほら、向こうは女の子だからな。すごく微妙な問題になるだろ?」

「まぁ……」

 それで、おれへの話が遅れたわけなのかはわかった。ということは、入堂が今日、おれに話をした時点では、親の再婚はまだ決定ではない、ということか。

「なら、おれが反対したら、再婚しない、ということになるのか?」

「ああ、そうだな。父さんだけで勝手に決めていいとは思っていない」

「…………」

 再婚に反対したくはない。

 出て行った母親のことはしっかり憶えているし、そこに未練がないわけでもない。でも、もはや元の生活には戻れないわけだし、いつまでも父親が一人でいるのも可哀想だという気持ちはあった。正直、応援してあげたい。

「で、おまえは異論はあるか?」

 父親曰く、再婚すると決まれば、夏頃には正式に籍を入れ、同居を始めようというつもりのようだ。ただ、住居は、広さのことから縣邸にするという方向で調整しているらしい。

 いまは六月になったばかり。となると、夏休みの間に同居が始まると考えていいだろうから、あと二ヶ月ほどで、父親とおれの二人だけが住むこの家に、入堂家の母親、クラスメート、それにその妹の三人が引っ越してくることになる。

「うーん……」

 家の広さを考えればじゅうぶんだが、広ければいいというわけでもない。いろいろとこれまでと違う生活にならざるをえない。いきなり他人と暮らすのだから、慣れないうちはなにかとぎくしゃくするだろう。打ち解けられるかどうか不安がある。でも、

「おやじがしたいようにすればいいと思う」

 おれはそう言った。本心だった。

「そうか……ありがとう」

 じゃあ、夕食にしようと父親は席を立って、冷蔵庫に向かう。

「手伝うよ」

 おれも席を離れる。

 入堂と同居……。昼間、入堂がああ言ったということは、もう本人はそのつもりでいて、すでに再婚は既定といえるのだろう。にもかかわらず、おれが難色を示していると思われているとしたら心外である。入堂が気に入らないヤツだから拒んでいる、というふうにはとらえてほしくない。

 でも。

 どう思っているのか、という入堂の質問に、どう答えたものか……。熱烈歓迎などというと白々しい。

 その夜の、いつもの味気ないインスタントばかりの二人だけの夕食は、いつも以上に味がわからなかった。

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