回帰
懐かしいあだ名で自分を呼ぶ声を女は聞いた。
実った作物の間から視線をあげると、遠くに巨大な入道雲が目に入る。指先にこびりついた土の感触と、どこから噴き出ているかも定かではない汗に肌を蒸されているのを感じながら、声の方を見やる。女の待っていた男だった。
「帰ってきてたんだ」男が言った。
「うん、久しぶり」
隣家の塀越しに覗いていた男の頭は、上下に揺れながら庭の入り口へと進んでいく。女もそれに従うように彼を迎えに出た。
「相変わらず、立派だな」
女がたった今出てきた菜園を指しての言葉だった。それは女のではなく女の母親のもので、盆前に帰省した彼女がその土いじりを手伝っていただけのことだった。
菜園でとれた胡瓜をすすめると、彼はその注文に遠慮無く「あれもくれ」と追加してみせた。あまりに漠然とした表現だった。しかし、女はそれを快諾してそそくさと裏手へ回り、再び姿を現すときには小脇に間違いなくその「あれ」を抱えていた。
「これでしょ」事も無げに女は言った。
「そうそう、おばさんのもいいけど、やっぱりお前のやつが一番美味い」
「混ぜるだけじゃん、こんなの」
縁側に腰を掛けると、夏の景色は黒い壁にふち取られた絵画のように色彩を鮮やかにした。風が草いきれを拾い、生温い空気を頬にぶつけてくる。その中には仄かに土と清らかな苔の香りが混じっていて、風は汗の乾き始めていた首筋を包みながら鼻まで上ってきた。うっすらと若葉のそよぐ音がする。
ぬるい空気にあたためられたタッパーを挟み、遠くの入道雲を見やりながら二人は無邪気に笑った。
しばしの談笑の後、男の方が「あそこ行こうよ」と切り出した。女はその言葉で全てを了解し、地面から上気する熱と同じ速度でゆらゆら立ち上がる。
二人の中には同じ情景が流れていた。川床にころがる粗い石の反射と、流水に映る木漏れ日のゆらめきと、淡い苔の煌めきとが二人をしたから照らしている。お互いの輪郭が水の中で溶け落ちる氷のように霧消していき、無意識下で繋がっていた感覚がイメージを支配して一つになっていく。肉体だけが精神を分かつ線の臨界を保っていて、男と女は自分が本来あるべき何かのかたちに還っていく悦びにうち震える。風を取り込み、水にのまれ、植物たちのありさまに共鳴する。
二つの背は入道雲の下へ向けて歩みを進め始めた。肉体の周囲を揺曳するあらゆるもの──蝉の音、草花と土の香り、水路のせせらぎ、夏の風、それら全てがその回帰を祝福している。豊かに、動的に空間が埋め尽くされているのに、微笑みあう二つに深く干渉するものは何もない。重なり合う二つを躍動する混沌がカモフラージュしていく。
「相変わらず、通じるね」
もはやお互いの表情さえ見えなかった。朧気な二つの世界で、「あそこ」への道程だけがぼんやりと浮かび上がっている。
モダン・スタイルの土と肋骨 辻井紀代彦 @seed-strike923
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