モダンな肋骨

「つまり君は、ポリアモリーだってこと?」

 眼鏡越しに、淡泊な視線が刺さった。その鋭い物言いは夫の特徴的なところで、ぶっきらぼうというよりは怜悧と表現するべき冷たさがある。それが夏咲に対する突き放した態度であるわけでも、機嫌が悪いときの癖というわけでもなく、二人きりで会話をするときはいつでもそうだった。

「違うけど」夏咲も、極めて理性的な口調で返す。「もし、そうだったら?」

「価値観を認める努力はするけど、戸惑いはあると思うよ。結婚してから五年近くそれを隠していたとするならば怒りも湧くかもしれない」

「確かに、告白するとしたら遅すぎるかもね」

「うん、ほんとだよ」

 夫の薄い表情のうえに微笑が浮かんだ。その中には安堵の色もみとめることができ、何事にも無頓着な彼の中にまだ自分への情熱があることをかすかに感じられる。そんな他愛のない愛情の実感に頬が緩んだ。

 休日の長閑な空気が、朝餉を並べた食卓の上に立ちこめていた。昼時にさしかかる前の柔らかで直線的な光がカーテンを揺らし、テレビに映る俳優Hの顔を時折隠す。夏も本番になり、窓を開けていると夫婦共々汗ばみながらの朝食になるが、朝の空気の爽やかさは何にも代えがたかった。

「まあ、こうも連日報道されると気にもなるよね」夫が言った。

 夏咲はそうでしょう、と答えながら、すくったスープを口元まで運んだ。夫はいつも、自分の言いたいことに真摯に向き合いながら、さりげない共感を示してくれる。

 結婚した友人たちの旦那への愚痴は年を経るごとに増す一方だが、夏咲の夫との関係は未だ良好そのものだった。恋人として交際していた頃からお互いに深く干渉し合うこともなく、束縛もなかった。ただなにげない愛情の実感だけが限定的な二人の時間に転がっていて、その距離感の心地よさに彼からのプロポーズを迷わず承諾し、それから些末な諍い以上のわだかまりもなく過ごしてきている。

「例えばさ、一口に姦通と言ったところで、時代や地域によってその定義は変わってきたんだよ」眉間にうっすら皺を寄せるのは、彼が蘊蓄を語るときの癖だ。「昔から不倫は罪とされてきたけど、その間にも一夫多妻制は存在していたわけだしね」

 夏咲にとって筋の通った理屈を聞いていることは苦痛ではなかった。論理が時に解き明かす、この世の本当の姿への憧れが彼女の好奇心をかき立てる。その興奮がいつしか彼女を理性的な人間へと仕立て上げていった。

 再びテレビの液晶を見やる。CGで視認性を高める彩色をされたボードの上に、事件の詳細が時系列順に整理されていた。その一角にHの宣材写真が貼り付けられ、整った目鼻立ちが規則的な表の配置に不思議なほど馴染んでいる。手持ち無沙汰な夏咲の視線は、空間を揺蕩ううちにその奇妙な溶け込みに引っかかり止まった。

 Hは、故郷でかつての恋人と会い、不貞行為に及んだという。仲睦まじく並んで歩く二人の周りを囲んでいた光景は、夏咲の脳裏にたびたび想像された。

 日差しに映える新緑と、せわしなく鳴き声をあげる蝉の音が四方八方に広がっている。どこかで抉られた土の香りが鼻をつき、草いきれを包みながら道の上に横たわっている。豊かに、動的に空間が埋め尽くされているのにその中で微笑みあう二人に干渉するものは何もない。重なり合う男女を、躍動する混沌がカモフラージュしていく──。

 想像の中で景色が補完されていくにつれて、夏咲はいつも自分の故郷を思い出していた。

 あの頃、自分は今よりずっと自由だったと思う。年を経るごとに、気づかないうちに、枷は数と重みを増していった。社会の通念への反抗など、今更できるものでもない。彼女の理性が積み上げてきた正しさの認識は、彼女を本質的には縛り付けている。それらが齎したものの中に安息を見つけ、喜びも感じている自分自身も、自分の中にある本来の、真実的なものを封じ込めているように思えた。

「うまく言葉にできないんだけどね」少し口を滑らせたと思った。しかし、そこには何か本当らしいものがある気がした。「人って本当は、もともと一つだったんじゃないかって思うの。だから本当はもっと互いのことが理解できるはずなんじゃないかって。後から生まれてきた言葉のせいで、何度も、何度もすれ違って、結局わかり合えないまま、悲しいことや苦しいことが積み重なって、窮屈に生きている気がする」

 夫の怜悧な視線が、再び夏咲の頬に刺さる。彼は、何か理解してくれるだろうか。自分の言葉から、表情から、何か読み取ってくれるだろうか。

 階下の道路を、駆けていく車の音がした。

「奔放なまぐわいに、たぶん人々は古来から憧れを抱いてきた。他の生物たちもパートナー以外の個体と交尾をすることは珍しくはない。そういう、本来の自然の形を塗りつぶしてきたのは、やっぱり近代の人間疎外的な思想だと思う」

「つまり?」

「その前に、一つ聞いていいかな」夫の堅い表情が、溶けるように歪んだ。「僕は君になにかしたのかな」

 眉間に刻まれた皺が、いつもより深く、暗く波打っていた。その顔から、疑念と悲しみの色を読み取るのは容易だった。これ以上は聞けない。そう直感した夏咲の顔には、柔らかな笑みが浮かんだ。

「違うよ。ただ気になっただけ」

 その言葉に嘘はなかった。夫もそのことを理解したのか、溶け落ちそうになっていた頬は原型を取り戻し、いつもの知的な顔に戻っていった。同時にその表情には見たことのないほどの安堵と喜びの色があらわれていた。

 椀の中に残ったヨーグルトをかき集めて、口元へと掬い入れる。手を合わせて夫より先に席を立つと、自分の背中を追う彼の視線が、いつもよりわずかにしつこい気がした。

 今、問いかけをやめずに聞いていたら、彼はなんと言っただろうか。夏咲は、以前夫が旧約聖書の話をしていたときのことを思いだし、脳内に彼を模倣して妄想を始めてみる。


 光が幾分淡泊で、現実味の薄い食卓が舞台だった。机を挟んで向かい側、真っ白な表面に微かな凹凸で模様付けされた壁と、インターホンのモニターだけが夫の背景にある。カーテンの揺れる窓際は夏咲の席だ。夫の顔はいつも通り穏やかで、しかし大げさな喜びも浮かんでいない。想像で再現されたものには違いないが、夏咲にとっては現実に限りなく近い質感に思えた。少なくともそういう前提で没頭するには十分なものだった。

「神の似姿として土塊から作られた男と、男の肋骨から作り上げられた女は、悪魔の囁きで知恵の実を手にした」

 夫が眉をひそめながら言う。皿の上に配されたなにかを頬張り、少しもごもごしながら、しかしその態度はやはり冷静だった。 

「二人は、もともと一つのものだったってこと?」

「そうだね。二人は互いに裸であることを気に留めることもなかった。当たり前の事だったんだよ。でも、禁断の果実がそれを終わらせてしまった。互いの裸を見て恥じらった二人は、イチジクの葉で局部を隠し、楽園を追放された」

 夏咲はうん、とか細い声で相槌を打つ。夫の瞳が、窓からの光をとりこんで煌めいている気がした。

「そうして、二人は別れたの?」

 そのとき、インクを落としたように、不吉に空間が歪んだ。

「え?」

「二人は、その後どうなったの」

「──」

 

 聞かなくて良かったと思った。彼はきっとこれを、言葉を尽くしたところで理解できない。いたずらに穏やかで幸せな時間に波を立てるだけだ。

 蛇口のレバーを引くと、ぬるい水が夏咲の指先を包み込む。食器を洗うためにスポンジへと手を伸ばそうとしたとき、視界の隅で夫が動いた。

「いいよ、やっとくから」返事をしようと振り向くと、夫は既に隣にいた。さりげない敏捷さだった。「デートの時間減らしたくないからさ」

 夫はそう言うとはにかんで笑ってみせた。

 素直にシンクの正面を譲る。その動作にはなんのわだかまりもない。言いようのない、間違いのない幸せを、夏咲は胸の確実な一点で捉えた。

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