モダンな土
立ち並んだ摩天楼の間隙を、薄桃色に染め上げられた雲が流れていた。片道三、四車線にも及ぶ幹線道路がビルの間を突き抜け、人混みの交錯する駅前広場へと流れていく。その上をタイヤで切りつけながら躍動していくとりどりの自動車の速度は、頭上の雲のそれとはその性質からして全く違う。
東京ではさして珍しくもないこの光景から一歩外れた路地、そこに漏れる明かりを目にしたとき、夏樹の喉元に麦酒の通る感覚がすっくと立ち上がって収まらなくなった。その衝動は軽薄ながら執拗に胸の中心へとしがみつき、結局、たまたま居合わせた部下を伴って居酒屋の店員たちの前まで躍り出ていくこととなった。
「流石にびっくりしたな」傍らでレモンサワーをすすりながら、部下の男が言った。「この人っていくつでしたっけ」
「まだ二十後半にもなってなかったよね」
夏樹が答えると、男は立ち飲み席のカウンターに肘をつきながら、脱力した瞼をテレビへと向けた。最近不倫の話題でワイドショーの常連となった俳優Hに関する、新鮮味のない報道が多少過剰な演出と共に流されていた。
「流石に芸能人でこれは思い切り良すぎでしたね、収入も安定しないだろうに」
「うん、ヤバいね」
黄昏時のオフィスビル街の中で一際煌めくチェーンの大衆居酒屋はいつも通りの賑わいを見せている。学生バイトらしい青年たちが、虚空にあてがわれて何もかも吸い取られてしまったような瞳を揺らしながらカウンターと厨房を慌ただしく行き来していた。
入り口にほど近い立ち飲み席にはちょうど混ざりの悪いハイボールを彷彿とさせる絶妙な空気が立ちこめていて、夏樹はそこでじっとりとまとわりつく湿度を感じていた。
「先輩、今日ペース早くないですか」
鷹揚にそう告げられて自分のジョッキグラスを覗き込むと、指摘通りの酒の少なさに苦笑が漏れた。さして仲の深いわけでもない部下とサシという状況でも、金曜の夜は柄にもなく酒がすすんでしまう。
途方に暮れてヤケ酒を飲んでいるわけではない。今週の自分の仕事ぶりは自ら疑いもなく誇れるものだったのだから、それぐらいの労いはあっても構わないはずだ。しかしそれはそれとして、部下の前で赤い顔を晒してしまうのに多少の気恥ずかしさはある。
「暑いし、いいだろ」
「間違いない。俺なんかに遠慮せずもっと飲んでください」
「なんでお前がちょっと上からなんだよ」
部下と顔を見合わせながら笑うと、不意に居心地の悪さを感じたので姿勢を崩した。思えば、店に入ったときからカウンターの前にずっと仁王立ちしていたので近くの壁にもたれるのが随分楽だった。同時に、その微かな動作さえ覚束ない自分の意識の朦朧さに、グラスの内側から消えていった酒の行方をありありと示されたような気がした。
開放されたドアの向こうで、キャッチの女が声を張り上げている。その傍らから流れてくる生暖かい空気が、顎の下からなめ回すように顔面へ触れてくる。それが少し心地よくもあった。
夏は空調を効かせずに窓を開け放し、生温い風を浴びながら過ごすことがよくある。クーラーから吐き出された硬質な空気はオフィスのようで窮屈だし、なにより風にそよぐ草木の音や茂みに潜む虫たちの鳴き声が疲弊した心には深く染みる。夜中同衾する妻にきつく言われるといつも渋々リモコンへと手を伸ばすが、その度に、些末だが拭えない不満と喪失感を覚えてしまう。
「非常に残念ですね」テレビではちょうど不倫のニュースが終わり、アナウンサーが短いコメントを述べていた。「若気の至りとも言いますが、それ以上にHさんの倫理観にこそ問題があると思います。大切な人がありながらこういった行動に及んでしまう軽率さは許し難いものです」
すぐ傍で、男たちの笑い声がけたたましく響いた。手持ち無沙汰にカウンターの向こう側を見やると、瑠璃色の酒瓶が煌めきながら佇んでいる。
そのとき脈絡もなく、懐かしい、胸が熱くなるような記憶が湧き上がった。
「なんで不倫したのかな」言葉は脳を介さずに口元まで躍り出た。「奥さんとこの幼なじみ、どっちが好きだったんだろうな、Hは。奥さんを見つけちゃったけど、そのあとに前からずっと好きだった人が現れたら、抱きたくなっちゃう気持ちもわかるよな」
部下の男が、耳まで赤くした顔を揺らして笑った。言っていいのだろうか。ここには誰も居ない。周りに人はいるが、皆残った意識を各々の会話に没頭させていて、こちらに聞き耳を立てられるような者はいなかった。心に寄り添う風の音を遮る妻も、いるはずがない。
「例えば、奥さんに対するものとは違う『好き』ってあるじゃん」
「まあ、そうですね」男は相変わらず笑っている。
「恋人じゃなくてもしたりするの、別に珍しくもなんともないよな」
「ええ、まあ」今度は口の端が少し歪んだ。「先輩、奥さんの他に女居るんですか」
胸の奥に仄かに生まれた躊躇いも、熱が押し上げて見えなくなる。男の楽しげだが訝しげな表情は、たった一言、
「いないよ」
それだけで単なる刹那的な笑みに戻っていった。ふと、その笑顔を一瞥しながらこの男に自分の言いたいことは何一つ伝わらないのだろうと思った。
「いないけど、気になるよ。不倫したことなんてないし、するつもりもないから、むしろ」
「なるほど」
男は腕を組んで、カウンターにもたれながら軽薄に唸った。わざとらしいその態度の中にこそ一般的な常識があるように思えて、期待と落胆への備えを胸の内ではじめる。その片手間に傾けたグラスが既に空であることに気づくと、夏樹はホールディングスタッフを呼び出して追加の酒を注文した。
結婚をして三十を既に通り越した自分にしては、あまりに幼稚な疑問だとわかっている。実際不貞を働くなどという行為は社会的に非難されて然るべきだし、そんなことを感情的に擁護する者がいるのならば自分は大抵軽蔑の視線を投げるだろう。しかしそれとは決定的に違う次元の不満が、この問題に触れるたびに湧いてくる。
「やっぱり、ストレスじゃないですかね。一緒に暮らしてたら上手くいかないことって、めっちゃあるじゃないですか。そういうのが積み重なるとやっぱり──」
「そういうものかな」
「たぶん。俺も一回、浮気したことあるんです。そのとき付き合ってた彼女と上手くいってなくて、そういうときの女ってほんとウザいんですよ」
「まあ、わかるよ」
「でしょ。やっぱりHもそうだったんじゃないですかね」
その言葉は、先刻のニュースで不愉快そうに取材陣の質問攻めをあしらうHの姿に絶妙に符合するような気がした。
背徳と、鬱憤晴らし。若さ故の、未熟さ故の、一時の過ち。世に溢れる姦通の類いは全て、結局そんなありふれたものに帰結していくのかもしれない。自分の中に渦巻く神秘性をまとったような、誰にも知られていないこの感情とはきっと、それらは似て非なるものだ。言葉にならないからこそ、誰にも理解されない。
店員が席の傍まで運んできたグラスを直接受け取って、喉に流し込む。喉で弾ける炭酸の泡は一瞬間だけ意識の半分を覆って、薄まったウィスキーの香りが鼻を抜けると、感情の余白には放念に似た諦めが注がれていった。
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