第10話

 私は「ナタとまな板」などというこの場に似つかわしく無い無茶苦茶な単語を頭の端に捉えつつ、それらを一切無視して遺体のある部屋へと足を踏み入れた。私にとって、もう今のこの状況は細かい事を気にしている様な場合では無いのだ。


 相変わらず臭いが凄い。が、それでももう吐き気を催すほどではなくなった。よくドラマで先輩の刑事が「じきに慣れる」などと言うシーンを目にするが、どうやらそれは本当のことらしい。

 しかし、ドラマでもなんでも物事に慣れる為には既にそれを一度は体験して知っていることが必要だ。そして今、目の前にはまだ私が一度も目にしたことの無い光景が並んでいた。


「なんだよ。さっきまでと全然状況が違うじゃないか。」


 私は、目の前の光景を見て再び唖然とした。これは被害者の遺体を荒らすなんて状況では無い。さっきまでは重なり合っていた二つの遺体が、いつの間にかご丁寧に引き剥がされいたのだ。母親はその引き裂かれた腹部を酷たらしく晒し、一方で腐りきった幼児の遺体はというと、その傍らで母親に寄り添うように寝かされている。

 何でわざわざそんな事をしなければならないのか。私はもうこの村人達の行動がさっぱり分からない。事件現場の死体をこうやって動かすことに一体何の意味があると言うのか。確かにこの二つの死体が親子だと言うのならば仲良く寄り添うように寝かしたくなるのが心情だろう。しかしここは殺人現場である。ならば、被害者である香苗さんのためにも現場をなるべく保存して、事件の解決のために協力することが我々の出来る一番大事な事のはずだ。それとも、先程のように私達の関与を拒否していた彼らにとって、この遺体を引き剥がさなければならない理由が何かあったとでも言うのだろうか……。


 そして、そんな疑問は、またもや仰木遥の一言によって一気に吹き飛ばされてしまうのである。


「えっ。もしかして生きていたのは涼介君のほうなんですか?」


――何?まさかそんなはずがない。


 私は、咄嗟に彼女の言葉に心の底でそう反応しつつも、すぐに自らの常識に囚われた考え方を否定した。彼女のほうが私よりも現実を見ようとしている。それはさきほど彼女と話した際に嫌というほど知らされた。


 そして私は、改めて注意深く幼児の遺体を観察する。その身にまとった白い衣装は確かに納棺された時に着せられた衣装だろう。しかし気になるのはその寝姿だ。体を丸めるようにして片方の親指を口元へと押し込んで、それはまるで生きている子供の寝姿そのものなのである。私は幸いなことに、幼児の出棺を見送った経験はないが、おそらくそういった姿のままで子供を棺に納める事は無いだろう。ならば、あえてこの腐敗した幼児の遺体にそういったポーズを取らせたのだろうか……。私は嫌な予感がした。そして、ついに私はそれを認めなければならなくなる。


 死体が動いている事を……。


「こ、これは呼吸しているのか?」


 戸惑いながら私は、仰木遥にそう尋ねた。


「やっぱり、安城さんにもそう見えますよね。」


「ええ。僅か肩と胸が動いています。ゆっくりと呼吸をするように……。」


 当初、彼女が動いていると言った遺体は、香苗のものではなかったのである。


「ということは、これ……涼介君が生き返ったって事で……いいのかな?」


 私は彼女の問いかけに「まさか。死体が生き返るはずがないだろ。」そう言いかけて止めた。そんな事は彼女も百も承知のはずである。だからこそ彼女は自信無さげに私に尋ねてきているのだ。しかしこの状況を一体どんな言葉で言い表わせば良いのだろうか。私はふと思い立って、その状況を傍らで私達の姿を黙って見つめる老婆へと求めた。


「ねぇ、おばあさん。あなたならそれを知っているのでしょ。この子は本当に生き返ったのですか?」


 その問いかけを聞いて、仰木遥も老婆へと視線を向ける。いかに彼女が口を閉ざそうとも、私達の視線はもう老婆から離れることは無かった。その時、私達にはこの異常な状態への答えを彼女に求めることしか道は無かったのである。


「生き返ってはおらん……。」


 根負けした老婆がようやく重い口を開いた。しかし老婆が言うように、今こうして動いているのに生き返っていないというのもおかしな話である。私はもう一度老婆へと問いかける。「でも、こうやって呼吸をしてるじゃないですか。」私のそんな単純な疑問に、一度開いた重い口は、もう閉ざされる事は無かった。彼女もようやく観念したのであろう。


「生き返ってはおらんが……。その子は今、生き返ろうとしておる。」


 相変わらず意味深な老婆の言葉は私達をあくまでも惑わせた。


「おばあちゃん。それってどういう意味ですか?ゾンビみたいに死体が動いているってこと?」


 仰木遥がたまらず割って入る。確かに彼女の言うように動く死体なら、それはまさに映画やゲームなどでよく登場するゾンビである。ただ、私も仰木遥もそんな非現実的な存在を肯定する勇気は持ち合わせてはいない。


 老婆は、仰木遥の言ったゾンビという言葉を肯定はしなかった。もしかしたらゾンビという存在自体を知らなかったのかもしれない。そしてその代わりに老婆はその存在のことを、我々も聞き覚えのある短い言葉で言い表した。


「この子は、そんな得体の知れねぇもんじゃね。サブロウ様じゃ。」


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