第7話

 それにしても引っかかるのは、さっきのおばあさんの言葉だ。私にはその言葉が「死んでいるということにしてほしい」という意味に聞こえた。ならば、本当は死んでいないのか?私はたまらず老婆にその言葉の真意を問いただそうとしたが、今更ながら及び腰の自分に気がついてそれをやめた。もうここまで来れば自らの目で確かめるしか無いのだ。

 私は、念のため隣に立つ仰木遥に視線を移した。その表情にはもう先ほどの様な泣き崩れる危うさは無い。おそらく彼女も覚悟を決めたのだろうと私はそう勝手に解釈した。


 さて、では誰が毛布を捲るのか……当然、その役目を担うのは私しかいないのである。


 仕方がない。私は誰に許可を得るわけでもなく、おもむろに女性の遺体へと近づいて腹部に掛けられた毛布を手に取った。

 最初から何かを隠そうとしていた村人達。仰木遥が遺体と対面するのを拒んだ達夫も、その隣に立つおそらく達夫の妻らしき女性も、そして我々に意味深なことを言ったおばあさんも、とうとう観念した様子で、ただ私の行動を見守るだけで何も言おうとはしない。

 こんな役回りを一番の部外者に押し付けようとするなど、まったく皆さん揃いも揃って卑怯者である。


 さて、鬼が出るか蛇が出るか。私はゆっくりとその毛布をめくり上げた。


 その瞬間。慣れてしまっていた筈の異臭それに輪を掛けて強烈なにおいが新たに私に襲ってきた。一瞬にして気を失いそうな程の臭いにかろうじて耐えた私が目にした物とは……。


 赤黒く固まった大量の血液。むごたらしく引き裂かれた遺体の腹部。そして、死体に覆い被さるように乗っかった、『真っ黒い何か』。その真っ黒い何かが腐敗して強烈な異臭を放ち……その姿はまるで小さな子供の様な形状をして……。その瞬間、再び胃からこみ上げる物を私は必死に耐える。

 

「な、な……、なんですかこれは……。」


 あまりに凄惨せいさんな光景に、なんとか私の口から出た言葉はたったそれだけ。そこから言葉を繋げようにも精神的負荷が強すぎて、どうにもそれ以上の言葉が出て来ない。それどころかあまりにも強烈な光景に、私の心臓はバクバクと波打ち呼吸すらままならない始末。そして私は一旦その死体から目を外すと慌てて玄関まで駆けていき胃の中の物を全て地面にぶちまけた。


 「まったく……このまま逃げ出してやろうか。」


 私は、汚れることもいとわずに口元をスーツの袖で拭いて、一人で悪態をついた。しかし逃げ出そうにも今更過ぎるのである。


 ただ、こうして建物の外で再び日の光を浴び、新鮮な空気を胸いっぱいに吸うと幾分いくぶん気持ちが楽になった。私は改めて大きく深呼吸をしてから、さっき見た得体のしれない物体の記憶を思い起こした。


 腐っていた?だからあの様な異臭がするのか。しかし、あの黒い物体のシルエットは人の子供のように見えた。いや、そんな事などあるはずが無い。ならば動物の死骸をつなぎ合わせて人に似せて作った可能性もある。もしかして……猿か?だが、なぜこの様な手の込んだ事を……。

 いずれにしろ、これはたちの悪い猟奇的殺人事件の可能が高い。私は今度こそ冷静にそう判断した。


 ならば犯人はいったい……。そして村人達の微妙な態度も気にかかる。


 と、そこまで思案をめぐらして、私は一旦考えることを止めた。ここから先はやっぱり警察の出番である。ドラマように自分達が勝手にしゃしゃり出る場面では無いのだ。


 とりあえず記憶の中の情報を整理し終えた私は、再び建物の中へと踏み込む決意を固める。しかし……それでもなかなか最初の一歩が踏み出せないでいる私は、無意味に後ろを振り返り空を見上げたりしてしまうのである。

 まったく、気が重い……こんな時に煙草の一本でも吸えたなら気持ちが少しは楽になるのかも知れないのだが、生憎と私は嫌煙家なのでそういうわけにもいかない。


 一度、明るい場所に出てみれば、建物の中は再び真っ暗闇である。薄暗く息の詰まりそうなあの部屋はやはりそのままの状態なのだろうか。少しの間だったがあの村人達は私という行動力を失って、ただ何も出来ずにぼ~っと立ち尽くしていたに違いない。そんな事を考えながら私は一歩一歩手探りで例の部屋へと向かう。


 しかしその時。猛烈な勢いで部屋から仰木遥が駆け出して、玄関の外へと飛び出していった。まぁおそらく彼女も私と同じだろう。あんな光景を見て胃の中の物を吐き出さない奴などいるはずがないのだ。

 私は彼女を追いかけてもう一度建物の外へと出る。ちょうど、車の中ににミネラルウォーターを置いていた事を思い出したのだ。そして植え込みの横でかがみ込む彼女に、私はそれを差し出した。


「私の飲みかけで悪いけど、良かったら。」


「すみません。助かります……。」


 彼女は私の手から水を受け取ると一気にそれを飲み干す。しかし彼女は息を整える間もなく、切羽詰まった形相で、これまたとんでもない事を言い出したのだ。


「安城さん。やばいっす。お腹の上に乗ってたアレ。調べたら人間です。」


「ちょ、ちょっと待てよ。どうしてそれがわかる?君が調べたのか?」


 そんな事あるはずがない。彼女があの遺体を調べたというのか?私はたったの十秒も凝視出来なかったというのにである。あれは古参の刑事デカでも音を上げるレベルだ。しかし彼女は私の言葉に躊躇なく「はい。」と答えた。


「マジ?」


「はい。私のおじいちゃんが猟友会に入ってて、イノシシやシカを捌くシーンとかを何度も見てるのでグロに耐性はあるんです。」


「いやいや何を言ってるんです。今きみも吐いてたじゃないか。それに実際問題、子供の死体なんてどうやって手に入れるんだって話もあるじゃない?それは絶対にありえないよ。」


 実際に遺体を彼女が調べたかどうかは別にして、だからこそ私はあの物体を人では無いと確信しているのだ。仰木遥がどの様にしてそれを確認したのかは知らないが、法医学者でも無い彼女の判断など何の根拠も意味も無い。そんなことぐらい彼女だって知らなはずは無いのだが……。

 

 しかしながら彼女の言葉は、そんな私の考えを覆し、あのもう一つの死体が人間の子供である可能性を納得させるに足るものだった。


「だから、手に入れるとかそんな話じゃないんですって。だってあの死体はもともと香苗さんのものなんですから。」


 彼女が言った時。咄嗟とっさに私はこの家に向かう道中の彼女との会話を思い出した。確か……。子供を亡くした女性の様子を見に行くと言っていた。迂闊なことに私は今までそのことをすっかりと忘れていたのだ。確かに今ならば子供の死体は存在している。この地域に土葬という風習が残っていればの話にはなるが、一体だけ手に入る子供の死体が……。


「まさか……。そんなことが……。」


 そのあまりにもなむごたらしい状況に私の思考が急停止する。この仰木遥は、恐ろしいことに墓から掘り起こされた子供の遺体が殺された母親の上に覆い被さっていると言っているのだ。本当にそれが事実なら彼女が吐き気をもよおしたとしても当然だ。

 しかし、私はその様な悲惨な事件がこの世に存在するなど想像すら出来ない。いったいそんなことがあり得るのだろうか……。もしそれが真実だとしたらそれはもう正常な人間の思考を超えている。

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