第6話
私もその一瞬はもしや死体が生き返ったのかと本気でそう思ってしまった。しかし、そんなことなどあり得るはずないではないか。ここはまず冷静になるべきだ。私はそう必死に自分に言い聞かせた。そして、落ち着いて冷静に考えてみれば死体が動くことの説明などいくらでもついた。例えばこれだけの異臭を放っているのだから、お腹に溜まったガスが急に抜けるなんて事があってもおかしく無いはずである。もしそうだとすればお腹がいびつに大きいのも、それが動いた事だって合理的に説明が出来る。
誰だって、いつまでもこんな異臭の充満した薄暗い部屋に、血まみれの死体と一緒にいればおかしくなるに決まっている。あらぬ妄想に捕らわれてしまうことだって当然あるだろう。
この時。正直に言えば、私はもうこれ以上この場所に仰木遥を留めておくことは危険だと思っていた。部外者の私でさえ頭がおかしくなりそうなのに、関係者の彼女ならなおさらである。
そうとなれば、取り乱している彼女をなんとかしてこの異様な空間から外へ連れ出さなければならない。そしてどこでもいい。近所の民家で電話を借りて警察と消防に通報しさえすれば、もうこの件からはおさらば出来る。私は、もういい加減こんな状況にうんざりしているのだ。
「遥さん。とりあえず、この部屋から出ましょう。あなたはパニックを起こしておられる。」
「パニックなんかじゃありません。さっき、香苗さんのお腹が動いたのを安城さんだって見たはずでしょ。」
当然のように彼女はムキになって否定した。私だって目の前の死体が動いたのをこの目ではっきりと見ている。しかし私としては実際に死体が動いていようがいまいがそんな事はどうでも良かった。私はとりあえず彼女をなんとかいい含めてさっさと外へと連れ出したいのだ。
「いえ、気のせいですよ。もし生きておられるなら達夫さんや、こちらのお母様方が放っておきませんって。だからまずはこの部屋からでましょう。」
「で、でも。さっきは本当に動いたんです。信じて下さい……。生きているかどうかの確認だけでも……。」
一生懸命に食い下がる彼女の言葉を私は全て否定して、なんとか部屋から外へ出そうと試みた。言葉で駄目なら、その肩を力強く掴んで無理やりにでも……。しかしその時。私達の横にただ突っ立っているだけと思われた女性の一人が、唐突に仰木遥に語りかけてきた。先程、彼女におばあちゃんと呼ばれた女性である。
「
渡りに船とはこのことである。さすがにこの老婦人も取り乱す彼女の姿を見かねたに違い。死体が生き返るなどあってはならないのだから。
「ほら、仰木遥さん。おばあさんもこう言ってます。早くこの件は警察に引渡しましょう。」
私は老人の言葉をきっかけに、彼女を押さえる手に力を込めた。もう、このまま彼女を無理やりにでも外へと連れ出すしかない。
「離して下さい。
「だから亡くなってると仰ってるじゃないですか。遥さんは早くこの家から出たほうがいい。」
「違うんです。今、おばあちゃんが……。おばあちゃんが二人ともって……。」
「……。」
――えっ、二人ともだって?
その瞬間、今まで押えつけ無視していた彼女の言葉が、私の脳裏にどうしようも無い違和感となって押し寄せた。そう言えば確かにこの老人はそのように言っていた。二人とも……と。
――いったい何を言っているんだこの年寄は……
そして、そう思った時。私の彼女を押えつけていた腕の力が抜け、その傍らの
情けないことに、本当に取り乱していたのは私のほうだった……。
どうやら私は、勝手に冷静になったつもりで、その違和感を他愛のない理屈でもって誤魔化していたようなのだ。そして何よりも情けないのは、今まさに私は仰木遥のことを利用してこの場所から逃げ出そうとしていたことだ。
まぁしかしこれが役人根性と言うものであろう。事なかれ主義で常に及び腰。そんな私は、世間一般的に認知されたその他大勢の役人達のイメージと大差ないことをつくづく思い知らされる。
しかしながらこれも運命なのだろう。このタイミングでそれに気付かされた私は、結局のところこの辺りで役所務めの責任というものを果たさなければならないらしい。
そして私は、まず仰木遥に丁寧に頭を下げると、改めてその老婦人に、さきほどの言葉について尋ねる。
「すみません。先ほどあなた二人ともと言いませんでしたか?」
「あぁ確かに二人ともと言った。二人とも死んじょる。頼むけぇ。そういうことにしてくれんじゃろか。」
そういうことにしてくれ……。その意味深な言葉が何を意味しているのかは分からなかったが、ここに来て私はとうとう覚悟を決めた。いや立場上決めざるを得なかったと言うべきか。
この鼻をつく異臭。いびつに膨れ上がった死体の腹部。そして、ただ黙り込む三人の老人達。その理由の全てがずっと目を背けていた遺体にかけられた毛布の下にある。そうに違いないのだ。
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