第2話

 そして私達は車を一度降り、峠から眼下に広がる世界を見渡した。


 そこは四方を山に囲まれたのどかな山村の風景。おそらくは地名の由来となったであろう二本の谷から流れ出る川を中心として、左右には豊かな田園風景が広がっている。彼女が言うように確かに素晴らしい風景だ。しかしあえて意地悪く言うのなら、どこにも特筆する箇所の無い普通の山村の風景。こんな風景など日本国中探せばいくらだってある。


 しかしその景色を見渡していると、程なくして私の脳裏にある一つの疑問が浮かび上がってきた。

 ぼんやりと美しい景色だけに心を奪われていれば気がつくことは無かっただろうが、気が付けばこれほど不思議なことはない。この見晴らしの良い高台からどこを探してもこの村の中心を流れる川の行き着く先が見当たらないのだ。三方を峻嶮しゅんけんな山に囲まれて、そして唯一の村の出口と思われるこちら側の方角でさえも、先ほど我々が登ってきたように決して平坦では無く、高台からこうして村を見下ろすことが出来るのだ。


「いったい、この川はどこに向かって流れているんです?」


 だが、そんな私の疑問は、たぶん彼女にとっては、まってましたと言わんばかりの質問だったのだろう。何故なら、私のその言葉を聞いた瞬間、彼女の顔が嬉しそうにほころんだからだ。


「気が付きました?不思議でしょう。実はね、この集落には川の出口がないんですよ。」


「出口が無い?ウソでしょ?」


 まさか。それではこの集落はいつしかダム湖のように水の底に沈んでしまうじゃないか。私の頭には直ぐにそんな反論が浮かんだが、そんな反論はもちろん彼女の想定の範囲内である。


「いえ、本当なんですよ。ここからは見え無いですけど川の先に淵があってそこで水が消えてるんです。結構な水量が流れ込んでいるのに沼は溢れないし、話によると地下水脈でどこかに繋がってるんじゃないかって。」


 はたしてそんな事があるのだろうか。私はそんな疑問を覚えなくも無かったが、それはこれから自分の目で確かめれば良いだけの話である。

 しかし、そうなると彼女が大好きだと言ったこの二つ谷地区がなんとも不思議な場所に思えてくる。私が最初に感じた日本国中どこにでもあるなんて言うくだらない先入観は直ちに訂正しなければならないだろう。彼女の言うように四方を山に囲まれて川の出口も無いとなれば、この集落はさながら忍者や落人おちうどの隠れ里のようではないか。私はそう思うと、にわかにこの二つ谷地区への興味がむくむくと湧き上がってきた。



 俄然がぜんこの集落に興味が湧いてきた私は、彼女と共にもう一度車に乗り込むと、木々の生い茂る山の中を再び進んで行く。薄暗いこの道をその昔、平家の落人おちうどが……などと私は勝手な妄想をしながらその道を二つ谷へと下って行く。程なくすると両脇に迫っていた木々の右手が開け、陽の光をあびて青々と輝く水田が広がり始めた。行政の区分上は先程の峠が境界線らしいが、どうやら今車を走らせている道が古来の二つ谷の集落とそれ意外の土地の境界線のようだ。その証拠と言えるのかどうかは分からないが、道を隔てて山側にあたる左手には集落と山との境界を分け隔てるかのように石碑のような、はたまた地蔵か道祖神どうそじんのような石で出来たモニュメントが等間隔とうかんかくで数多く並べられている。古来こらいより土地の境界に石碑が置かれることは珍しい話では無いが、これだけの石碑を設置しているとなれば、この土地ではそれだけ土地を巡る争いが多かったのかもしれない。

 私はそんな持論を軽自動車の助手席で展開しつつ、欲しい答えが帰って来るはずは無いと心の端で思いながらも、運転席の彼女にそれを尋ねてみた。


「えっ?境界ですか?それは良く分からないですけど……。あの石は、サブロウ石ですよ。」


 その聞き慣れない名前。それが私は一瞬何のことやら分からず、オウム返しにその名前を聞き返す。


「サブロウ石?」


「ええ。村の人はそう呼んでます。」


 そう呼んでます。そんな語尾に、自分もあまり詳しくは知らないと彼女は言いたいのだろう。そう言われればこの集落に着くまではこんな石碑は見なかった。それならばサブロウ石というのは、この集落だけの風習なのかもしれない。


「じゃぁ、そのサブロウ石が集落の境界を?」


 思わず私はそう声に出してしまう。そんなことなど知らないと彼女は先ほど言っていたはずなのに、私の悪い癖はついつい興味が先に立ってしまう。しかし予想外にも、その問に彼女はあまりにも明確な答えを出してくれた。

 

「いや、境界とかそんなんじゃ無いと思いますよ。だってあれお墓ですもん。」


 私はそのあまり見慣れ無い墓石の形状に多少驚きはしたが、言われてみればなるほどお墓に見えない事もない。ただ……それならば、先ほどまで境界線が何だとか小難しいことを考えていた自分がなんとも小っ恥ずかしいではないか。しばし私はその気まずさに悶え苦しんでいたのだが、彼女はそれにはまったく気が付かない様子で、逆に気を利かすようにサブロウ石にまつわるいくつかの伝承を私のために教えてくれた。そしてそんな彼女の表情はと言えば、やはり得意気であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る