第9話 出発

 朝食も済ませて身支度も整ったというのに、何やかんや理由を付けてルニムネは必死に帰るのを先延ばしにしていた。

「もういい加減にしろよな。朝一でディアトキアに行く筈がもう少しで昼になっちまうじゃないか」

「…………」

 ウォザディーの言葉にも、ルニムネは俯いたまま唇を噛み締めて頭を僅かに横に振る。


「一体どうしたんだ。早く戻らないと。その何とか先生は、ずっとお前の心配をしているんだぞ」

「……ソイベ……」

 ルニムネはボソッと小声で答えた。

「おっ、やっと喋ったな! こんにゃろうめ」

「にゃにしゅるんでしゅか!」

 ウォザディーはルニムネの両頬を親指と人差し指で摘んでタコの口にした。ルニムネはその状態で非難の声を上げる。


「あのな、思った事は言わないと伝わらないんだぞ。どうして帰るのを拒んでいるんだ?」

「……その……えっと……服が……」

 ルニムネは何とか勇気を振り絞って口にしたが、それだけ言うのが精一杯みたいだ。

「服? その服が気に入らなかったか?」

「うう……ううん、ちがっ、ちがうの。この服は好き。本当にお気に入り」

 ルニムネは一瞬嬉しそうな表情を浮かべたが、直ぐに沈んだ顔に戻ってしまう。


「その……みんなが……」

「何だ、そんな事か。心配するな、着なくなった服はまだまだ沢山有るからな。俺にはこいつが有れば充分だ」

 ウォザディーは、着ているローブを摘んでみせた。白い布地は高級感のあるしっとりとした光沢で、光の加減によって様々な表情を見せる。仕立てもとても丁寧で縁取りに銀糸の刺繍が施されていて、ひと目で高級品と分かる逸品である。


「よし、分かった様だな。さあ行くぞ」

「うん」

 ウォザディーが左手を差し出すとルニムネはおずおずと右手伸ばして手を繋ぐ。次の瞬間『ぐにゃり』と世界が歪んだ感覚に、彼女は咄嗟に左手も加えて両手でしっかりと彼の手を握った。


「孤児院に直接行けば早いのだがな。手続きはきちんとしないと後で問題になるからな」

 ウォザディーの言葉に恐る恐る目を開けたルニムネは、見慣れた景色にホッとする。街への門はいつも通り開かれていた。

 門の脇に小さな建物がある。そこが出入りの際の手続所となっているのはウォザディーの記憶とも一致した。


「身分証を提示して下さい……って! 随分と古い物だな」

「これだと問題あるのか?」

 ウォザディーが係の者に出したのは10歳の時の身分証である。特別な事がない限り10年毎に新しくしていくので30年森に引き篭もっていた彼にはこれしか無い。

 正確に言うと叙爵の時に新しくなった身分証も有るが、そちらだと面倒事に巻き込まれそうなので止めておいた。


「まて、お前は!」

 その時一人の警備兵が血相を変えて走り寄って来た。警備兵が叫んでいたのでウォザディーは身構える。しかし警備兵の視線は彼の後ろに向けられていた。


「ルニムネじゃないか! どこに行ってたんだ! ソイベが心配して探し回っていたぞ!」

「わっ! キーべさん、ごめんなさい! 森に行ったら迷っちゃって! 怪物さんに会って送ってくれて……」

 キーべと呼ばれた男はルニムネの首根っこを掴むと今にも拳骨を落とそうとしている。ウォザディーはその手を掴んで止めた。


「何しやがる!」

「叱るのは分かるが、頭ごなしに暴力はどうかと思うぞ」

 ルニムネはその隙を突いてキーべの腕を振り払い、ウォザディーの後ろに身を潜める。

「あんたは何者だ。ここらじゃ見ない顔だが」

「怪物さんだよ」

 ルニムネがウォザディーの後ろから、ひょっこりと顔を出してキーベに対して答えた。


「怪物さん?」

「それは知らんが、ウォザディーだ。森で迷子になっていたルニムネを保護したので送り届けに来た」

 変に誤解されても困るので怪物に関しては濁してウォザディーは名乗り、経緯を説明する。


「キーべさん。確かに“ウォザディー”なのでしょうが……。どうしましょう」

「どうした」

 検問係の男が身分証を掲げてキーベに相談している。それを見たキーベの表情が一瞬変わったように見えた。

「ウォザディーさ……さん、もっと直近の物は無いのかい?」

「ああ、長い間森で生活をしていたものでな。やはりこれではまずいのか?」

 キーベが申し訳なさそうに問い掛けて来る。どうしたものかとウォザディーは思案するが、何も良い案は浮かばないのであった。

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