第2話


 夜這い――それは、人気のない夜間にこっそりと部屋に忍び込み愛を交わすこと。

 平安貴族男子はそうやって恋人を作る。

 もちろん、多くはいきなりではない。

 何度か恋の詩を交わした後、約束をして逢瀬……という流れがほとんどだ。

 でも、時には、予告せずに突撃する事もある――


 僕はこの夜の事を一生忘れないだろう。

 生まれて初めて酒に酔い、生まれて初めて、女の人の所へ忍び入った――


 とても静かな夜。

 虫の鳴き音だけがかすかに聞こえる。

 空を見上げると、月がゆらゆらと揺れていた。

 今夜は満月か――


 簀子縁をゆっくりと摺り足で歩き、幼い頃から何度も訪れた部屋に辿り着く。

 カタン。

 格子を上げると更に御簾が下げてある。

「だ、誰?」

 絢子の声。

「君により思ひならひぬ世の中の――人はこれを恋と言うらぬ」

 一昔前の詩人、在原業平の一首をつぶやきながら、扇を手にした左手で顔を隠し、右手で御簾をたくし上げた。


 もう一首。

「月やあらぬ春や昔の春ならぬ、わが身一つはもとの身にして」

 右手を放すと、するすると御簾が背中側に下りる。


 僕は一歩踏み出し、さらに一首。

「春日野の若紫のすりごろも、しのぶの乱れかぎり知られず」

 そう呟くと同時に扇を横に投げ捨てた。


「や、泰成様?」

 単姿の芙蓉の君――絢子が寝台に座って僕を、亡霊でも見たかのような顔で見た。

「一体、どうしたの?」


 僕は絢子の目の前に座り混み、その背中側の屏風に片手をドンとついて、至近距離で見下ろした。

「結婚するって本当?」

「そ、そうよ……この前言ったじゃない。明日には中将様が来る予定なのよ」


 この前――

 そうだ。絢子から相談があると文をもらい、ここを訪問したのはひと月ほど前だっただろうか。

「泰成様、これを見てくださる?」

 御簾の下から白い手が出てきて、折りたたんだ紙を置いてすぐに引っ込めた。

 薄い桃色の上質な紙。手に取るとふわっと、甘い香りが漂う。

 中を見なくても分かる。

 これは恋文だ――

「誰から?」

 僕は冷静を装って聞いてみる。

「三位中将様よ」

 心臓に何かが突き刺さったような痛みが走った。

 匂い立つような美男子。

 彼の後ろについて内裏を歩く時はいつも、女官達が悲鳴をあげながら寄って来るという光景が目に浮かんだ。

 彼に笑いかけられるだけで失神する女官もいた。

 それほど彼は女を魅了するらしい。


 僕の上官がというより、あの恐ろしい程の美男子が絢子に恋文を送っているという事実がショックだった。

「どうして僕にこれを?」

「泰成様に読んでもらって感想が欲しいのよ」

「感想?」

「どう思うか、正直な意見を聞きたいの」

 僕は読まずに御簾の中に文を押し戻した。

「恋文を他の男に読ませるなんて悪趣味だよ。それとも後朝きぬぎぬの歌だと自慢したいの?」

「き、後朝ですって?」

 後朝の歌――一夜を共にした後、男が女に送る歌。

 絢子は御簾をまくり上げて飛び出してきた。

 その目は吊り上がり、明らかに怒っていた。

「あ、絢子。な、何をしてるの?」

 動揺しながらも目は彼女の顔を観察する。

 久しぶりの直の対面だった。

「婚姻前に殿方を通わせるような女だと思ってるの?」

 絢子は僕に向かってさっきの文を投げつけ、更に睨みつける。

 その視線を受け止めながら、綺麗だ――と心の中でつぶやいた。

「単なる言葉のあやだよ。読めばいいんだね」

 渋々とくしゃくしゃになった紙を広げて眺めてみる。

“きみがため――”

 後少将と呼ばれた藤原義孝様の詩を引用した詩だ。

 やはり恋の歌ではないか。

 僕は最後まで読む気が失せて、丁寧に折り戻してから絢子に返した。

「さすが三位中将様だね。まあ、いいんじゃないの」

「え? 何が?」

「僕に見せたのは見定めて欲しかったのだろう?」

 絢子の瞳が一瞬揺れた気がした。

「あの……お父様経由で結婚の話が出ているの、よ。更に中将様からもこんな歌をいただいて戸惑ってるの。お会いした事もないのに……」

 結婚――

 ガツンと頭を何かで殴られたような感覚になった。

 親経由の話ということは、ほぼ決定してしまっているようなものではないか。

「今の時代、顔を合わさずに結婚なんて珍しい話じゃない。君、もう二十歳だよね。婚期はとうに過ぎているのだし、お父上も行く末を心配してのことなんじゃないの」

「泰成様は……それでいいの……?」

 絢子の声が少し震えていた。

「いいも何も……彼はものすごく美男子で魅力的な人だよ。君も実際に会ったら一目で恋に落ちるんじゃない? 僕と違って詩歌も上手な風流人でもある。何と言っても摂関家の嫡男。君は宮筋のお姫様。人も羨む良縁だ」

 口から思ってもいないことがペラペラと出てくる。

「それ、本気でおっしゃっているの?」

「冗談なんか言わないよ。君が幸せになるのならめでたい話じゃないか」

「そう――もういいわ。もういい。よく分かったわ。帰ってくださる?」


 あの時、絢子は僕の本心を聞きたかったのだろう。

 それに気付いたのは何日も後になってからのことだった。

 僕は馬鹿だ。大馬鹿だ。

 こんな切羽詰まらないと勇気が出てこないなんて。

 いや、でも、まだ、今なら間に合う――

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