第3話
「やめた方がいい……」
「え?」
「あの男はやめた方がいい」
「何をおっしゃているの? ――って、泰成様。まさか酔ってる?」
僕はそれに応えず、絢子の瞳を覗き込んだ。
灯台の灯りが瞳の奥で揺れる。
丸い、きれいな澄んだ瞳。
汚されたくない――
「――ないで」
「え?」
「お願いだから結婚しないで」
「そんな、今更無理よ」
「いや、まだ間に合う――」
僕は両手で絢子を抱きしめた。
「や、泰成様?」
「あんな男にとられる位なら僕が奪う」
「どういう事――きゃっ」
僕は彼女を押し倒した。
反動で烏帽子が落ちてしまう。
両手を絢子の顔の左右につき、上から見下ろす。
「君は僕の事どう思ってる?」
「今更何? 知ってて目を逸らしてきたくせに」
絢子の言う通りだった。
ずっと、彼女の気持ちに気付いていながら、捻くれた僕は何も出来なかった。
ここ数年、顔を合わせたら――御簾越しとはいえ――いつも揶揄ってばかり。その結果口喧嘩して帰るという事を何度も続けてきた。
「はっきり聞いた事がない」
「す、好きよ、だけどもう」
好き。
その言葉に安心して絢子に軽く口付けた。
「僕も君が好きだ」
驚いた顔で僕を見つめる絢子。
「泰成様……どうして……」
「今は何も言わないで」
そう口にして、もう一度、今度は深く口を吸う。
固くなっていた彼女が脱力し、受け入れるのを感じた。
ああ、もう駄目だ。止められない。
「僕と契りを結んでくれますか?」
絢子は微笑んでこくりと頷いた。
――その後、僕たちは初めて結ばれた。
***
翌朝――と言ってもまだ明るくなる前、まどろんでいた所にドタドタという足音が近づいてきた。
「あ、絢子。誰か来たよ、起きて」
絢子をさするがぐっすり寝ていて起きない。
「大変です! 殿様がいらっしゃいます!」
絢子の女房、兵衛の声だった。
実は昨夜は兵衛に手引きをしてもらったので、彼女は僕がここにいる事を知っている。
「兵衛。ぼ、僕だけど、すぐに来られるのかな?」
「はい、ああっ、もうすぐそこに」
僕はもう一度絢子を揺らして起こそうとするが――
「兵衛、どきなさい。絢子、私だ。入るぞ」
万事休す――
御簾が巻き上げられ、絢子の父君――大納言様が中を除いて目が点になる姿が現れた。
それはそうだ。
二人の装束は脱ぎ散らかされ、文机も脇息もなぎ倒され、僕たち二人は裸――一応一つの衣を二人の肩辺りまで被ってはいたけれど、何があったかは一目瞭然の状態なのだから。
大納言様の目は僕に注がれた。
「絢子のもとに密通ありと投げ文があって来て見れば、まさかあなたとは――」
「も、申し訳ございませんっ」
僕は片手で衣を抑え、もう片方の手を下について顔を伏せた。
「あら、あららら」
もう一人誰か女の人の声がして顔を上げると、大納言様の北の方だった。
その顔は優しく微笑んでいて嬉しそうにも見える。
「絢子、起きなさい。もう、この子ったら」
と、近寄って絢子を揺り起こす。
「ん――お母さま? うわっ! 何で皆いるのっ?」
絢子ががばっとそのまま飛び起きようとしたので、僕は慌てて掛けている衣から出ないように腕を抑えて止めた。
「あ、泰成――」
彼女は僕が隣にいる事に気付くと、顔を真っ赤に染めた。
僕は覚悟を決めて大納言様を真っすぐ見た。
「大納言様。お願いします。絢子様と結婚させてください!」
ああ、こんな情けない格好でこんな大事な台詞を言う事になるとは。
「お父さま。私からもお願い。やっぱり結婚は大好きな人としたい! 泰成様と結婚させてください!」
大納言様は大きくため息をついてから、僕を見つめた。
「泰成君。まずは服を着て家に帰りなさい」
厳しい口調だった。
僕では駄目だというのか。
当たり前か――
宮筋の僕の父は既に亡くなっていて後見がなきに等しい頼りない身だ。
皮肉にも、昨夜詠んだ在原業平と境遇が少し似ている。婚姻が決まっていた姫君と駆け落ちしようとして発覚したのまで――
「そして今夜と明日もここに来なさい」
大納言様の優しい声に、僕はハッとして顔を上げた。
今夜と明日?
三晩続けて通えと――つまり正式に結婚を認めるという意味だ。
「話は三日目の朝にしよう」
先生はにっこり笑って退室した。
「まあ、良かったわね」
北の方は涙を浮かべながら絢子を抱きしめた。
「他の殿方との結婚話が出て、何もできない母を恨んだことでしょう」
「あら、お母さまを恨んだ事なんてないわよ」
「恨まれても良かったのよ。私だけはあなたたちが相愛なのを知っていたのだから」
「え? そうだったの」
絢子は僕を見た。
「ぼ、僕は帰ります、明るくなる前に……」
「あら、そうだったわね。さて着替えを手伝いましょうか」
「えっ? いや、僕、自分で着替えます」
「そう、ふふふ。では私も退散しますわね」
北の方も戻って行った。
慌てて装束を着て絢子を見ると、何とまた横になって目を閉じている。
「絢子? また寝てるの? 大丈夫?」
絢子は目を開けて、
「だって、ほとんど寝てないから眠いわよ」
とかすれた艶っぽい声で僕を見る。
「そ、そうだったね……ごめん」
僕は黙って捻り文を差し出した。
「これ――遅くなるといけないから今渡しておく」
「後朝の文?」
彼女は飛び起きて、ぱっと顔を輝かせ受け取ってくれる。
「後で一人で読んで。僕はいったん帰るから」
彼女の頬にそっと口づけしてから僕は立ち上がった。
帰り道――牛車の中で僕は顔がニヤつくのを止められなかった。
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