第2話 大麦畑でつかまえて
扉の外は、見渡すかぎりの麦畑だった。
さすが夢だ。ありえないことが平然と起きる。
俺が住んでいたのは、足立区六町にある四階建てアパートの四階。家賃が安いことだけを理由に住み始め、エレベーターのない現実に後悔し、朝晩の昇降で毎日ふくらはぎが鍛えられていくような、そんな物件だ。
でも今はもう、あの階段も、コンクリートもない。
代わりに広がっているのは、風に揺れる金色の海。
気温は二十度くらいだろうか。太陽光はほどよく暖かく、吹く風にはパンを焼くような甘い香りが混じっている。
「……なんだよ、この癒やしの大地は」
ストレスで死にかけていた俺の心に、容赦なく優しさを浴びせてくる。これは夢のくせに反則だ。
ぼうっと立ち尽くしたが、すぐ目的を思い出す。
——俺を見せびらかすんだろ。
この抜群の美人ボディを。
パンの香りがするなら、人はいるはずだ。夢だと言っても、他人がいないと“見せびらかし”が成立しない。
玄関から一歩踏み出すと、サンダル越しに土の柔らかさが伝わった。昨晩までそこにあったコンクリートは、温度も質感も完全に別物へと変わっている。
麦畑の間には細い道が延びていた。舗装されていないが、横に五人くらいは並べる幅。たぶん荷車を引いて通るための道だ。
耳を澄ませば、人の声がする。
「よし……行くか」
自然の匂いを全身に浴びながら、声のする方向へ歩く。
こんなふうに“自然を感じる”なんて、いつ以来だろう。
毎日、疲れた人間の群れと灰色のコンクリートに挟まれ、罵声や数字に追われ、太陽の光を浴びる頃にはすでに退勤の時間を過ぎている。そんな日々しか知らなかった。
開放感でシャツを脱ぎたくなったが、シャツの下には何もつけてない。
夢とはいえ露出狂にはなりたくない。俺のストレス耐性は、まだそこまで壊れていない。
「女王様!? どうなされたのですか! そのようなお姿で!!」
いきなり甲高い声が飛び、反射的に肩が跳ねた。
麦畑の向こうから一人の老婆がやってくる。
後頭部から耳まで覆うほっかむりのような布をかぶり、ストライプの長袖シャツに白いロングスカート。浅黒い肌と彫りの深い顔立ちで、どう見ても日本人ではない。
俺は思わず後ろを振り返る。誰かのことを言っているのだと思った。
「そうです! 貴方様以外に誰がいるというのですか!」
「いやいやいや……女王様?」
この夢、俺を“美人”にしただけでは飽き足らず、まさかの“王族設定”まで付与してきたらしい。
……夢の脚本、凝り過ぎじゃない?
いや、違う可能性もある。
“俺が女王に似ていただけ”。
そんなドッペルゲンガー的なイベントも夢ではよくある。
どっちでもいい。特別扱いされることに変わりはない。
この際だから乗ってみるか。ごっこ遊びの延長だ。
気分も乗るし、こういうのは恥を捨てたほうが楽しめる。
「……どうなされたのですか、ご婦人?」
お嬢様っぽく首をかしげてみる。
こういう口調でいいのかわからんが、夢だし俺が楽しければそれでいい。
老婆は深刻そうな顔になり、俺にすがるように言う。
「危険なのです、女王様。お一人で歩かれては!
貴方様のお父上が亡くなられてから、この国は乱れております。日のごとにやつれていく貴方様を見るのは、私どもも心苦しく……」
「へえ……」
どうやら“本物の女王様”は別にいるらしい。俺は単に似ているらしい。
だが俺にとっては所詮夢の話だ。
俺が何者でも別にいい。
危険? この夢に危険なんてあるわけがない。
これは俺の夢だぞ。
手からビームぐらい出るだろ。
「大丈夫ですのよ、ご婦人。わたくし、手からビームが出ますの」
——言った瞬間、老婆の顔色が死んだ。
「女王様……やはりお疲れに……」
完全に“精神的に参っている人”を見る目だ。
いや夢だから! 出るから! ビーム!
子供の頃、アニメで見た“手から出すやつ”を想像して、木に向かって右掌を向ける。
掌が熱い。
エネルギーみたいなものが流れ込んでくる。
「いきますわよ!」
叫んだ瞬間——
ピンク色の光線が一直線に走り、木を跡形もなく消し飛ばした。
爆発もなく、燃え跡もなく、ただ“消えた”。
「……やりすぎじゃない……?」
俺も老婆も固まる。
まさか消滅させるとは思わなかった。
こんなの人に当たったら粉々だ。
夢とはいえ引くわ。
「ど、どうかしら。これがわたくしのビームですわよ」
「えっ……あ……ああ……」
老婆は腰を抜かして震えている。
俺も腕を下ろそうとして——
「痛っ!」
掌の皮が裂けて血が滲んでいた。
……あれ。
夢なのに痛い。
手の甲をつねる。
「……いってぇ……」
普通に痛い。
何度試しても痛い。
夢なら、痛みの強さは自覚的に薄れるはずだ。
これは……夢じゃない?
「……ここは、どこ……?」
「じょ、女王様……?」
老婆が心配そうに覗き込む。
俺は自分の胸元を見る。
高く、白く、細い体。
手は傷つき、ビームは出た。
どう見ても——俺は女だ。
どう見ても——俺はこの世界の“何か”に似ているらしい。
「……ご婦人。ここは……どこかしら?」
震える声で尋ねる。
夢じゃない。たぶん。
それなら——俺はもう、“別の世界の俺”なのかもしれない。
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