ブラック企業に勤めていたんだが、部屋ごと異世界に飛ばされて女になっていた。

山田花子

第1話 二日酔いの朝は瑠璃色で

 ひどい頭痛だ。頭の中に心臓でも入っているんじゃないかってくらい、ズキズキと脈打っている。


「……あー……」


 うめき声を漏らし、枕元のスマホに手を伸ばす。画面には午前六時の文字。サーッと血の気が引いた。

 俺が勤めているのは、自他ともに認めるブラック企業だ。本来始業は九時なのに、いつの間にか六時始業になっていた。もちろん手当なんて出ない。昨日も家に着いた頃には日付が変わっていた。


 シャワーを浴び、冷蔵庫に残っていたストロングゼロで将来の不安とか、どうしようもない焦燥感とか、嫌いな上司の愚痴とか、そういうの全部を雑に上書きして、気がつけば三缶目の途中で意識が飛んでいた。


 慌てて起き上がると、ベッド脇の空き缶を蹴飛ばした。中身はまだ残っていたらしく、床がびしょびしょだ。


「……最悪だな」


 床を拭くか、シャワーを浴びるか。思考がそこまで進んだ瞬間、妙な違和感に気づいた。


 やけに床が見えにくい。


 足元が、やけに遠い。


 目が悪くなった? 寝起きでピントが合ってない?

 違う。そういうのじゃない。


 物理的に下が見えない。


 胸に手を当てる。ふに、と沈む。柔らかい。驚くほど柔らかい。ビーズクッションみたいなのが二つ、胸についている。


「おお……」


 思わず声が漏れる。ついでに首が重いことにも気づいた。なるほど、こんなもの抱えて生活してるのか。世の女性は大変だな……と変なところでしみじみする。


 次は下だ。ズボンに手を突っ込む。


 ない。


 長年連れ添ってきた“アレ”が、ない。


 スカスカしている。嫌いな上司の頭くらいスカスカだ。


 ズボンのゴムを引っ張り、中を覗こうとしたが——胸が邪魔で見えなかった。


 思考停止。


「……夢だな、これ」


 床に転がったストロングゼロを振ると、まだ残っている。迎え酒のつもりで一気に流し込み、缶をシンクに投げ捨てる。アルコールが喉を通った瞬間、脳がシャキッとする。震えていた手もピタリと止まる。


 ベッドに倒れ込み、天井に向かって手を伸ばす。


「……俺の手、きれいだな……」


 白くて、細くて、きめ細かい。毛穴なんか見えない。雪みたいだ。


「どうせ夢なんだ。自撮りでもするか」


 インカメラを起動した。

 画面に映った自分を見て、息が止まる。


 ——美人だ。


 冗談抜きで美人だ。週刊誌のグラビアにいそうなくらいの、完璧美人。胸は大きく、ウエストは驚くほど細い。街で見かける細腰の女性を見るたび「どこに内臓入ってるんだよ」と思っていたが、入るものらしい。なってみて初めてわかった。当たり前っちゃ当たり前だが。


 夢だからって盛りすぎだろ。この体。


 結局、調子に乗って十枚ほど自撮りしてしまった。どの角度から見ても美人。これが俺か。大したもんだ。


「……誰かに見せてえな」


 そう思った瞬間、SNSを開く。

 が、圏外。接続できない。


「意外と不自由な夢だな……」


 変なところだけリアルな夢だ。

 冷蔵庫を開けると空っぽ。こんなところに常識の壁があるとは。夢のくせに妙に律儀だ。


 とにかく、今の俺を誰かに見せたい。それだけだ。


 ——よし、外へ行こう。練り歩こう。


 ジャージにシャツ、足元はサンダルのままでいい。時間帯はちょうど通勤ラッシュのはずだ。疲れ切ったサラリーマンたちの中に急に超美人の俺が現れれば、そりゃ視線集まるだろ。藻しか入ってない水槽にピラルク一匹放り込んだようなもんだ。


 善は急げ。玄関へ向かい、サンダルを突っかけて扉を開ける。


 ——そして、固まる。


「………………」


 一度扉を閉め、もう一度開ける。


 変わらない。


 そこには——


 果てしない麦畑が広がっていた。


 地平線まで続く金色の海。

 風が吹き抜け、ざわざわと波を立てている。

 太陽の光は暖かく、風にはどこかパンを焼くような甘い香りが混じっている。


 現実の“足立区六町の4階建てアパートの玄関”は、跡形もなかった。


 夢にしても、やりすぎだろ。


 俺はただ、その光景を前に立ち尽くした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る