第1話【一緒にお昼食べない?】

 まだ梅雨明けの余韻を残した七月の半ば。


 見上げれば、夏の訪れを感じさせる分厚い雲がずしずしと空を這うように動いていく。


 天気予報で梅雨明け宣言されてから数日経ったが、未だに太陽は顔を覗かせていない。このままの茹だるような暑さが続くのも勘弁してほしいが、真夏の焦げつくような暑さもごめんだ。


 この時期は真剣に秋まで季節を飛ばせないかなと模索することもしばしばある。


 ただえさえ寝不足な上に、肌にまとわりつく、じっとりとした暑さ。自然と足取りは重くなる。


 校門の前には生徒指導の教師が立っており、なにか校則違反しているはずはないけど、なぜか身なりを整えてしまうのは学生の性だろうか。


 緊張感のある校門をくぐり、下駄箱へと向かう。


 見慣れた背中に僕は声をかける。


「おはよ、倉田くらた

「おーっす。って眠そうな顔してんな真城ましろ

「まぁな」

「実際眠いだろ、お前」


 倉田に人差し指を向けて、「正解」と僕は言う。


「真城、授業中寝んなよお前」

「うるさい。倉田も爆睡して、カトセンに怒られてたじゃんか」


 カトセンとは古典の授業を受け持つ先生で、ゆるめの天然パーマの加藤先生だからカトセンと名前に捻りはないし、天パも関係なし。ちなみに僕らの担任でもある。


 そんな他愛のない話をしながら僕らは教室の扉を開けると、クラスの大半の生徒は出席しているようで、黒板の上に掛けられたアナログ時計は始業時間の十分前を指していた。


 僕と倉田はそれぞれ隣同士の席に座り、重量感のある教科書を机のなかに詰め込む。


「そういや、宿題してきたか」

「もちろん。数学だけだよね?」

「だな。委員長、宿題出していいか?」

「僕のもお願い」

「あ、うん。もらうね」


 受け取ったプリントを丁寧に透明なクリアファイルに挟む。


 七月頭の席替えの結果、委員長である奥宮おくみやさんは僕の前となった。


 しっかり者で、同じ高校生とは思えないくらい落ち着いて大人びている印象があり、クラス推薦で他の追随を許さず──他の立候補者はゼロだけど──委員長となった奥宮さん。それに加えて黒髪のよく映える色白な美人さん。男女問わず人気者だ。


 ほどなくしてカトセンが挨拶をしながら入ってくる。


「はい、席につけよー」


 今日休みのやついるかー? とカトセンの少し気怠けだるそうな話し方とともにHRが始まった。


 いつもはほとんど上の空で過ぎていくHRだが、ふと視線を隣に送ると、倉田が机に顔を突っ伏していた。


 おいおい、この男は。さっきあれだけ寝るなよと煽っておきながら、この体たらく。


 いくら何でも寝るまでが早すぎると思うけどね。


 僕は指先を尖らせるように揃える。そして倉田の無防備な横腹をロックオン。


 そこを思い切りつついて、「ぐふっ」と奇声をあげさせて辱めてやろう。


 「くふっ…」と隣人の寝息が漏れている──否、よく見れば倉田はふるふると体を震わせ、笑いを堪えているみたいだ。何がそこまでおかしいのか。


「真城、前見ろ前」

「えっ?」


 言われた通りに前方を、カトセンのほうへ向き直る。


 梅雨を経て、自慢だったはずのゆるい天然パーマは、フォークに巻き取られたスパゲッティくらいくるくると渦を巻いていた。


 僕は視界からの情報を断ち切るためにすぐにうつむく。


 ダメだ、ファーストインパクトのせいでもう脳内に焼き付いてしまった。油断すると、緩んだ頬から笑い声が漏れてしまいそう。


 よし、精神統一しよう、無理やりでも記憶をリセットしなければ今日一日の学校生活に支障をきたすのは明白だ。


 心頭滅却。


 心頭滅却。


 心頭滅却。


「あれはツバメが巣を作るぞ」

「ぐふっ」

「…ふふっ」


 あっ、終わった。



「おっ、おかえり」

「だれのせいだよ、ほんとに」

「別に俺のせいではないだろ。お前が噴き出したのが悪い、客観的には」

「…主観的には?」

「すまん、俺の発言が七割悪い」


 目を細めて、愉快そうに笑う倉田を睨みつける。


 あのあとカトセンに呼ばれた僕は笑った理由を訊かれたが、正直には言えず、くしゃみと咳が同時に出ましたという言い訳にしても苦しすぎる文言を並べた。けれど、それ以上の追求はなく、次からは気をつけろよの一言で解放された。


 ついでに提出したプリントに自分の名前を記載しておらず、委員長が訂正してくれたらしい話をカトセンから聞かされた。委員長にはお礼を言っておこう。


 席につき、もうすぐ始まる一時限目の授業の準備を進める。


「なんだそれ。よく許されたな」

「いや、たぶん髪型のことカトセン気にしてるよ」

「…そうなん?」

「髪の毛、少ししめっとしてたし、明らかに櫛でまっすぐ整えてたあとが…」

「ふふっ」


 一個前に座る委員長の肩が小さく揺れた、気がした。


 僕と倉田は会話を止めることなく、さりげなく目を合わせて頷き、あと一押しだ、と互いの意思を合致させる。


「でも、いま思い出しても圧巻だった」

「なにがよ」

「カトセンの髪型よ」


 ここで僕が倉田に目配せ。ラストアタックは任せろと、僕は親指を立てる。


「完ッ全にフォークで巻き取られたスパゲッティだったわ」

「~~っ!」


 とうとうこられえきれず、先ほどの僕たちよろしく机に顔を伏せてしまう委員長。


 大笑いしたいだろうがこの状況だと、会話の届かない周りのクラスメートからしてみれば、独りで突然笑いだした変な委員長というレッテルを貼られかねない。ただ、そんなレッテルを貼られたところで痛くも痒くもないくらい、委員長の印象はいいのだが。


 棒読みが過ぎたが、彼女の反応を見るに結果オーライ。完全勝利だ、否、完全笑利といったところか。何に対して勝利したのかは定かではないが、僕は倉田とグータッチを交わす。


 なんだ、これ。



「はい、じゃあここまで」


 四時限目の終わりを告げるチャイムが響き、僕は丸まった背中をぐーっと伸ばす。


 いやはや、授業は疲れる。


「寝てんじゃねーよ」

「いっ…!」


 教科書の角が脳天を直撃し、声にならない鈍痛が全身を駆け巡る。


 あまりの痛さに言い返そうかと倉田を睨みつけるも、その冷ややかな視線に蛇に睨まれた蛙のようにまた背中を丸める僕。


「お前、二限目から記憶ないだろ」

「…ない」

「昼休み食べ過ぎんなよ。午後の授業も昼寝で終わるぞ」

「…はい」


 友人がオカン過ぎる件について。


 倉田とは高校一年生からの付き合いで、今年で二年目だが、こうしてときどきオカンモードに入ることがある。


 一緒にいる僕が子供っぽいせいで、倉田の母性をくすぐって…うん、止めようこの話は。どの感情で処理すればいいか分からない。


「俺、友だちに誘われたから昼飯行ってくるわ」

「いってらっしゃい」


 倉田を見送った僕は、トイレに行こうと立ち上がる。


 委員長の周りには複数人が集まっており、大方お昼ご飯の誘いに来たのだろう。横を通り抜けるスペースも見当たらないため、僕は邪魔にならないよう教室の後ろ側のドアへと向かい、廊下に出る。


「ねぇ、真城くん」


 吸い込まれるように振り返る。


 そこには先ほどまでクラスメイトに囲まれていたはずの委員長の姿があった。


 何か未提出のものでもあったかな、と寝起きの頭で考える。


「委員長、どうかした?」

「あのっ…!」


 その声は少し震えているようで。


「お昼、一緒に食べませんか?」


 お弁当箱をちょこんと抱えて懇願こんがんする委員長の様子に、僕は「可愛い」と口走らないように慎重に、そして最大限の平然を装って答える。


「いっ、いいですっ…けど」


 …あぁ、ここでしどろもどろになってしまう僕はダサい。

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