第103話 蠢く悪意
「――勝者、アクランド・ルーファスペア!」
勝敗を告げる声が、高らかに響く。
2月最終週、学年末試験の予選が終わりに近づいていた。
戦っていた相手と握手を交わし、健闘を讃え合う。あちらもやり切ったのか、清々しい表情をしていた。
「シャーロット様、ルーファス様! お疲れ様です」
「お二人とも、こちらへ!」
メアリーとヘレンの声が響く。明るい声が私たちを迎え入れてくれた。
ここは実技訓練場。成績と本戦出場をかけた戦いが、今まさに繰り広げられていた。
「これで予選1位はシャーロット様たちに決まりましたね! 明日には2位も決まるでしょう」
「そうね。メアリーたちも、明日の結果次第で2位になる可能性があるのよね? 応援しているわ!」
「ふふ、ありがとうございます! ヘレン様、明日も頑張りましょうね!」
「はい! 頑張りましょう、メアリー様!」
彼女たちは拳を握り、意気込みを入れる。互いの足並みは揃っているようだ。二人とも優秀な術師のため、きっと本戦出場を決めるだろう。
「試合が終わった者から寮に戻っていいそうですが、どうなさいますか?」
「私とルーファスは少し出てくるわ。先に寮へ戻っていて」
「分かりました。……あまりご無理をなさらぬよう」
心配そうに告げるメアリーに、私は微笑んで頷く。
長い付き合いの彼女は、私の異変に気づいているらしい。共に過ごす時間が減っているのも気掛かりの一つだろう。
それでも、深く突っ込んでこないのが彼女の凄いところだ。
私の思いを察しているのか。心配そうではあるが、無理に止めることも、首を突っ込むことも無かった。
そんな彼女に心の中で感謝する。何も言えないことにも、謝罪した。
メアリーたちと別れ、私とルーファスは校舎へ向かう。
2月も終わりを迎え、いよいよ春が来る。寒さこそ残っているが、雪の日は大分少なくなった。山ではもう、マンサクの花が咲き始めただろうか。
春へと思いを馳せながら、正面玄関へ足を踏み入れたときのこと。
突然、視界の端に光が映った。
「危ない!」
ルーファスの声と同時に、地面を蹴る。後ろへと下がった直後、先ほど立っていた場所に鋼色が降ってきた。
金属音を鳴らし、ソレは地面へ転がった。どうやら鋏のようだ。先程の光は、刃が太陽に反射したものだろう。
「大丈夫かい?」
「ええ。ありがとう、ルーファス」
私は小さく息を吐く。今度は凶器かと、心の中で呟いた。
今学期に入ってから、私を目掛けて物が落とされるようになった。
最初に落とされたのは、薄めの書物だ。次は辞書のような分厚い本。
次第にエスカレートしたのか、本は固い器物へと姿を変えた。今日に至っては刃物が降ってくる始末。
正直、悪戯や虐めにしては度を超している。
こういった被害があり、メアリーたちと過ごす時間は少なくなった。
万が一巻き込んでしまったら、後悔してもしきれない。距離を置くのも自然な流れだった。
「……そろそろ限界かな。大分焦っているようだ」
「そうね。思ったより早かったわ」
実のところ、こうなることは分かっていた。唯一の誤算は、過激化するまでにかかる時間だ。これほど早く過激な手に出るとは思わなかった。あちらは相当焦っているらしい。
本来であればすぐにでも止めさせたいのだが。今はまだ、大事にできない。そんなことをすれば、
幸い、協力者がいる。何とか被害を出さずに済むだろう。この罪を突きつけるのは、もう少し後の話だ。
「とりあえず、学園長には伝えておこうか。多くの人に知らせるのはリスクがあるが、証人はいた方がいい」
彼の提案に同意する。いつか来る日のためにも、被害を知る人はいた方がいい。
未だ授業中の時間だからか。周囲に人影はなく、正面玄関には私たちしかいなかった。辺りは静まり返っている。
重要な証拠品を拾い上げる。金属特有の冷たさに、眉を寄せた。
「まさかそんな事件が起きていたとはね」
「ご報告が遅くなり、申し訳ございません」
私の話に、学園長は盛大なため息を吐いた。
ここ最近、私に向けられた行為は、もはや事件の域だ。虐めや悪戯では済まされない。学園長が頭を抱えるのも当然だ。
私たちは今、地下の研究室へ訪れていた。守衛室の下に作られた、隠された研究区画である。
その中でも、最も特殊な部屋。イグニールの遺体が置かれた研究室にて、話をしていた。
本音を言えば、何度も来たい場所ではない。
けれど、この部屋は実に都合が良かった。鍵を持っているのは学園長だけ。教師であっても入れない部屋だ。秘密裏に事を進めるには都合が良い場所といえる。
私は書物に目を通しつつ、学園長たちと話をしていた。
普段なら決してしない行為だが、そうも言っていられない。事情は学園長もご存じのため、遠慮なくページをめくる。
「今年は本当に事件が多い。それも、政治にまつわる波乱ばかりだ。学園の意向だけでは動きようがない」
「ええ。通常なら犯人を取り締まり、相応の処分を下せばいいのでしょうが……今回ばかりは、そうもいきません。事情が事情なので」
苦く笑う私に、学園長は眉間の皺を深くする。面倒な状況に立たされたのだ。誰だって嫌な顔をするだろう。
「学問を学ぶべき場所で、悪戯に政が顔を出すとは。実に不愉快極まりない話だが……。
政情が不安定な以上、避けられないか」
苦々しく告げる学園長に、私は黙したまま頷く。
彼の言葉通り、我が国の政情は不安定だ。後継者争いに国が揺れている。
第一王子派と第二王子派、その双方が火花を散らしているのだ。今までも争いはあったが、今年は特に過熱していた。
王子たちがデビュタントを迎えたことに加え、聖女が正式にお披露目された。婚約者の選定も含めて、争いは泥沼の様相を呈している。
「君たちのことだ。安全確保はできているのだろうね?」
「はい、つつがなく。私も、死にたいわけではありませんから」
学園側が誰も知らないのは問題かと、お話した次第です。そう告げる私に、学園長は首肯した。
「その配慮に感謝を。……覚悟していたとはいえ、政治に学問の場を荒らされるのは複雑だ」
その言葉に、学園長の本心が滲んでいた。
学園長も、今年二人の王子が入学することは知っていたはずだ。彼ならルーファスの違和感に一目で気づくだろうし、陛下から水面下の話もあったと考えられる。
それを証明するかのように、学園長はかなり気を遣っていた。
例えば、今いる研究室。鍵の所有者は学園長のみだ。入室したことがあるのは、私たちを除けばトラヴィス先生だけだとか。
トラヴィス先生も、オリエンテーション当日しか足を踏み入れていないらしい。遺体を運び入れるために訪れたようだ。
それ以降は、いかに教師といえども入室していないという。
あのような騒動が起きた以上、慎重にならざるを得ないのだろう。誰が関与しているかも分からない状況だ。誰であっても、不用意に入室は認められない。
また、犯人への警戒以外にも、入室制限は意味がある。不慮の事故を起こさないための予防策だ。
例えば、何かの誤りで魔道具が停止したら。円柱に収められたイグニールの遺体は、瞬く間に崩れ落ちるだろう。本人に悪意がなくとも、証拠を毀損すれば処罰は免れない。
学園の人間を守るためにも、入室制限は必要なのだ。
私たちが入室できるのは、ひとえに学園長の配慮だ。事情を理解していること、そして学園長が同席することで成り立っている。
万が一の場合、学園長なら即座にイグニールを氷漬けにできる。折衷案として、同席を提案してくださったのだ。
私がこの部屋を求めた理由。それは、私が今手にしている書物にある。
この部屋には、私が運び入れた教区簿冊が置かれているのだ。ケンドール辺境伯領のみでなく、近隣のものもある。
必要に応じて国へ情報提供することはあるが、基本的に部外者へ見せるものではない。不必要に人目に触れることがないよう、隠し場所が必要だった。ゆえに、この研究室を訪れたのだ。
自分でも思い切った判断をしたものだと思う。
しかし、それは残された時間が少ないことの裏返しだ。手段を選んでいる暇はもうない。
「大神官の話では、26年前に少年と出会ったそうだね」
「ええ。スタンピードの折、前線で治療を手伝っていたとか。
前線に子を置いていったことに加え、少年は痩せ細っていたと聞きます。愛情は注がれなかったのでしょう」
「……惨い話だ」
苦い声で学園長が呟く。彼は生徒を心から大切にしている。子ども自体が好きなのだろう。
そんな彼にしてみれば、許し難い話に違いない。8歳前後の子どもを育児放棄した可能性があるのだ。不快感を覚えるのも当然だ。
「国も捜索に乗り出しているのだろう?」
「はい。ですが、ケンドール辺境伯領に該当者はおりませんでした。現在は捜索範囲を広げておりますが、未だ知らせはありません。
本人が口を噤む可能性もありますし、捜索は難航するかと」
「不貞を認められぬ以上、本人が口を噤むのも当然か。法律上の問題ならともかく、教義上のこと。
自身の信仰に、我が身が反すると知れば。自責の念から口を閉ざすだろう。当人に罪がなかったとしても、だ」
信仰は時に大きな力を持つ。そしてそれは、いかなるときも良い結果を生むとは限らない。
唯一絶対の教えが、自身に牙を剥くこともある。
「……ん?」
ぺらりとページをめくる。そこに書かれた、ある一文が目についた。
知っている人の名前だ。調査のことしか考えておらず、当然のことが頭から抜けていたらしい。教区簿冊なのだから、馴染みの名があるのは当然だ。
「どうかしたのかい?」
「ああ、ルーファス。見覚えのある名前があってね」
現在開いているのは、ハリス男爵領の教区簿冊だ。当然、ハリス先生の名前が記載されている。自身の知らない名前ばかり見ていたせいか、つい目に止まった。
まあ、書かれた内容も驚きだったのだが。
レーナ・ハリス、9歳の頃入籍及び洗礼。前触れもなく飛び込んできた単語に驚いてしまった。
入籍。未成年の婚姻が認められない以上、養子に入ったのだろう。冷静に考えれば分かることだが、驚くとは気を抜いていたのか。
その単語を見て、即座に婚姻を想像してしまった。固定観念は良くないなとため息を吐く。
「誰の記載があったんだい?」
「ハリス先生よ。9歳で入籍と書いてあったから驚いてしまって……」
ルーファスの問いに答えると、学園長は納得したように口を開いた。
「ああ、ハリス女史は養子として迎えられたからね」
「やはりそうでしたか。私、婚姻かと早とちりしてしまいました……」
「ははは! それは仕方ない。入籍の語に、婚姻を連想する者は少なくない。
養子であることは隠すものではないが、一々説明もしないだろう? 生徒たちは、知らない者の方が多いだろうね」
それもそうか。貴族である以上、血縁関係の誤魔化しは許されない。養子であるという事実は、調べればわかることだ。隠すなどできるはずもない。
そもそも、養子を取ること自体は珍しい話でもないのだ。才能豊かな子を、養子にする者は昔からいた。
子供にとっても利益のある話だ。相続権こそないが、恵まれた環境に身を置くことはできる。知識という財産を手にできれば、より良い人生を送れるだろう。
現に、ハリス先生は我が学園で教鞭を振るっている。養子となり、魔術の才を活かすことができたのだ。彼女にとっては、人生を豊かにする転機となっただろう。
養子であることは、隠す理由こそないが言って回る内容でもない。
結果として、知る者もいれば知らない者もいる、という今の状態になったのだろう。
「ハリス先生は、個人的にベント子爵領へ寄付されたとか。後継でないとは聞いていましたが、そういう事情だったのですね」
「男爵家の財産は、彼女が自由に使えるものではないからね。
それでも私財を寄付をしたのは、彼女なりに思うところがあったのだろう」
領地が近い間柄だ。彼女にしてみれば、他人事ではなかったはず。一歩間違えれば、ハリス男爵領も被害に遭った可能性がある。
そして、かつては平民であった彼女だからこそ、思うこともあるだろう。私が会社を起業したのと同じように。
「近隣の領地についても、粗方見終わったのかい?」
「はい、おおよそは。ベント子爵領については、これからですが」
「ああ、そこは一番大変かもしれんな。なんせ、実際に問題が起きた地だ。時間をかけて確認した方がいいだろう」
明日以降、集中力のあるときに見ると良い。そう告げる学園長に、私も頷いた。
焦って見落としがあってはならない。一度頭を休ませた方がいいだろう。
学園長の提案に従い、私たちは研究室を出る。退出間際、部屋の中央へ目を向けた。
円柱に収められた、氷漬けのイグニール。ベント子爵領を襲ったのと同じ、操られた魔獣。
その姿に、私は拳を握った。なんとしても、この問題を解決しなければ。
日付が変わった頃。真っ暗な闇の中、静まり返る校舎内を歩いていた。
真夜中に出歩いているのは、隣を歩くルーファスが原因だ。夜に時間をくれないかと頼まれたのである。
同伴者は、デイジーとオーウェンだ。4人である研究室へ向かっていた。よくシアたちと集まる部屋だ。鍵はルーファスが事前に借りている。
「中へ」
潜められた声に従い、私たちは速やかに研究室へ入った。
真っ暗な室内に差し込むのは、美しい月明かりのみ。青白い光が、室内を淡く照らしている。
「ルーファス、一体何の話?」
わざわざこんな時間に呼び出したのだ。万に一つでも、他者に聞かれたくない話だろう。ここにいるメンバーも、深い関わりのある者だけだ。
「君に頼まれていた件だ。王妃殿下の金銭を洗えと言っていただろう?」
「……終わったの?」
たしかに頼んでいたが、もう終わったのか。驚いて目を丸める私に、彼は首を横へ振る。
「残念ながら、全ての調べがついたわけではない。湯水の如く金を使っていたようで、確認も一苦労さ。予算内や私財であれば、文句は言えないけれど。
ただ、いくつか興味深いことが出てきてね」
これを見てくれ。そう言って手渡されたのは一枚の紙だ。ランプが無いため、月明かりが差す床へ置く。
「これは王妃の支払先をまとめたものだ。基本的には、出入りの商会が主となっている。たまに、別の宝石店や仕立て屋を使うこともあるようだけどね。
そんな中、一点不思議なところがある」
ここだ。そう言って指差したのは、見慣れない店名だった。エピメレイア、というらしい。一体、何を扱っている店か。
「特に覚えがないのだけれど……王都では有名な店なの?」
「いや、そうではない。調べたところ、小さな薬屋だった」
「薬屋?」
私の声に険が帯びる。薬屋、別に悪い店ではないけれど。王妃の取引先と言われると、少し警戒してしまう。
「そう。6、7年前からかな。栄養剤や痛み止め、ハーブに治療薬、軟膏など。定期的に購入していた。
薬屋と取引すること自体は問題ない。医師を頼らないのは不自然だが、禁ずる規則はないしね」
「それが分かった上で、気になることがあると?」
問いかける私に、ルーファスが頷く。どうやら、本題はここかららしい。
「この薬屋へ最後に支払ったのは9月上旬。それをもって、取引は停止している」
「9月上旬、ね」
何といいタイミングか。何年も購入歴があったにもかかわらず、その時期に取引を停止したとは。
「不味い物を買って、手を切ったのかしら?」
「可能性は極めて高い。タイミングが良すぎる」
「9月上旬なら、文官の毒殺には間に合ったでしょうね」
私の言葉に、室内は沈黙に包まれる。ルーファスとオーウェンは静かに頷き、デイジーは息をのんでいた。
「王妃殿下が購入した物は?」
「残念ながら、記録がなかった。おそらく、記憶もね」
「……記憶も、って」
嫌な予感が走り、私の背が震える。まさか、そこまでしたというのか。
「エピメレイアの店主であった老人は、現在行方不明だ。店は閉じており、ご子息が最低限の管理をしている」
調査にはご子息が協力してくれたという。その結果、9月の注文書が紛失していたらしい。
加えて、頼りとなる店主は行方が知れない。記録だけでなく記憶も辿れないようだ。
「店主の捜索は?」
「9月の時点でご子息が願い出ていた。しかし、今なお見つかっていない。生存は絶望的だろう」
語る声は低い。その声とは裏腹に、彼の瞳には熾烈な感情が浮かんでいる。渦巻く怒りを抑えているのか。
「9月分の注文書のみ破棄されていたと?」
「ああ。他の注文書は棚に保管されていた。全て破棄する必要はないと考えたのか、時間が足りなかったのかは不明だ」
本当に、恐ろしい話だ。確実な証拠はないけれど、明らかに疑わしい。
「調査は未だ継続中だ。何か分かり次第伝えよう」
「そうしてちょうだい。……本当に、嫌な話ばかりね」
ここ一年、目を疑うような事件ばかりだった。人の命をなんだと思っているのか、そう問いたくなるほどに。
確実と言える証拠さえ見つかれば、今すぐにでも糾弾するのに。未だ話は推測の域を出ない。
学園での魔獣騒ぎ、ベント子爵領で起きた惨劇。そして、後継者争いに端を発した様々な事件。
全ての事件を確実に解決しなければ。民の味わった苦痛と、失われた命のために。
早く解決したいと気持ちが逸るけれど。何一つ、溢すわけにはいかない。失敗は許されないのだ。
真剣な表情で私を見るルーファスに、口を開く。一つ、聞いておくべきことがあった。
「王妃殿下に持病は?」
「ないね。健康そのものさ」
にこりと見せた明るい笑顔。それに、私は目を細める。
それきり口を閉ざし、窓へ視線を向けた。真っ暗な空に美しい月が浮かんでいる。
闇を照らす月のように、全ての悪意を白日の下に晒す。
その日まで走り続けなければと、唇を噛み締めた。
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