第79話 愛するからこそ求めるもの
「ふう、これで一息つけるわね」
「お疲れさまでした、お嬢様。すぐにお茶を用意いたしますね」
孤児院の慰問を終え、現在はベント子爵領内の宿に泊まっている。ヘレンの家もこの近くにあるが、私たちは宿に泊まることにした。
もとより必要経費であるし、現地にお金を落とすのも大切だ。無駄遣いにならない範囲であれば、きちんとお金を使う方がいい。
ぐっと伸びをして、ソファーの背もたれによりかかる。孤児院ではたくさんの子どもたちと話ができた。少々気にかかる問題はあるものの、今日の目的は達成できただろう。
まず優先すべきは、子どもたちと仲良くなることだ。そうでなければ、実態の把握は難しい。問題点が分からなければ、本当の意味で支援はできないのだ。一度の慰問で終わらせず、より良い環境を作るために動かなければ。
「どうぞ」
差し出されたのはミルクティーだ。わずかに蜂蜜が入れられているようで、甘い香りが鼻をくすぐる。
ティーカップを傾ければ、優しい味に凝り固まった身体がほぐれるのを感じた。
「ありがとう、デイジー。美味しいわ」
「もったいないお言葉です」
にこりと微笑む彼女に、私も自然と笑みを浮かべる。美味しい紅茶に舌鼓を打っていると、あることを思い出した。
「そういえばデイジー、明日の予定なのだけれど」
「はい。明日は本日同様孤児院を訪ねる予定となっておりますが……いかがしましたか?」
不都合があれば変更いたしましょうか、そう言うデイジーに、私は一人口を噤む。
さて、どうしたものか。不都合というほどではないのだが、気になることがある。
窓の方へ視線を向けると、美しい夕暮れが見えた。街が橙色に染まり、建物の影が地面に伸びている。人気のない光景に私は小さく息を吐いた。
夕暮れ時は、美しくもどこか寂しさを覚える時間だ。温かな色のはずなのに、もの悲しさを感じてしまう。楽しい時間が終わりを告げる、そんなイメージがあるためか。
「明日だけれど、予定変更をお願いするわ。午前は孤児院への慰問、午後は少し街中を見学したいの。ヘレンにもその旨伝えてもらえるかしら」
「かしこまりました。すぐに」
デイジーは一礼すると、静かに部屋を後にした。ティーカップを傾けつつ思考を整理していると、室内にノック音が響く。
ここまで来られるということは、関係者なのは間違いない。私が泊まるこの階は、騎士が通行を管理しており、部外者の立ち入りが禁じられている。
「どうぞ」
「失礼する」
室内に入ってきたのはルーファスだ。
そう言えば、後で覚えておけと言われたのだったか。子どもたちに引っ張られる姿は中々に見ものだったと、つい笑みをこぼしてしまう。
「……君、完全に面白がっているね?」
「ふふ、何のことかしら? ほら、そちらにかけてちょうだい。飲みたければ紅茶は自由に注いでね」
目の前のソファーを視線で示すと、彼は複雑そうな表情のまま腰掛けた。その姿が面白くて、また笑いが漏れてしまう。
何でも卒なくこなす彼だが、どうやら子どもには弱いらしい。邪険にすることは決してないが、接し方が分からないようだ。美しい顔には、はっきりと疲労が浮かんでいる。
「ありがたくいただくよ……子どもは凄いね、パワフルというかなんというか」
「そうね。真っすぐで愛らしいでしょう。あのきらきらとした瞳を見ると、すぐに負けてしまうわ」
私の言葉を聞き、ルーファスは困ったように笑う。ティーポットから紅茶を注ぐと、彼は小さくため息を吐いた。
「たしかにあの瞳には勝てないな。俺には妹も弟もいないから、初めての経験だったが」
ティーポットをそっと卓上に戻す。彼自ら紅茶を注ぐなど、そうはないだろう。彼を平民として扱うと決めた以上、代わることはしないが。
いずれ彼が正体を明かせば見られなくなる姿だ。今の内に目に焼き付けておくとしよう。
「たしかに、下に子どもがいるかどうかは大きいわね」
「君も一人娘だろう? その割には、子どもの接し方に慣れていたように見えるが」
これが男女の差というやつか? そう呟いて首を捻る彼に、私は苦笑をこぼす。
彼は知らぬ話だが、私にはかつて弟がいたのだ。前の世界に置いてきた、10歳差の弟。あの子の面倒をみることが多かった私は、自然と子どもとの接し方を身につけていただけのこと。
ネタ晴らしをすれば答えはいたって単純だが、それを口にするつもりはない。
「いずれあなたも慣れると思うわよ。孤児院を訪れることも増えるでしょうしね。子どもと接してみて、どうだった?」
「そうだな……何だか不思議な感覚だった」
私の問いに、彼は腕を組んで黙り込む。言語化しようと思考を巡らせているのかもしれない。不思議な感覚、それが彼にとって悪いものでなければいいのだが。
そう考えていると、彼が不意に顔を上げる。思考が整理できたのだろうか。その顔には、どこかすっきりとした表情が浮かんでいる。
「可愛いとは思う。けれど、少し怖いんだ」
「怖い?」
突然の言葉に、私は目を丸める。あんな小さな子どもが怖いとは、一体どういうことだろうか。驚きのまま彼を見つめていると、彼は困ったように微笑んだ。
「何も物理的に怖いわけではないさ。力だけなら俺の方が遥かに強い。
けれど、そうだな。どうしても敵わないな、と思ってしまう部分がある」
「敵わない……可愛げとか?」
「否定はしないが、大分失礼な言い草では?」
相変わらず遠慮がないな。そう言って、口の端を引き攣らせる彼に、私は軽く謝罪する。なお、心は一切籠っていない。今までも言いたいことを言い合ってきたのだし、今更である。
ルーファスはため息を吐くと、ティーカップを傾けた。ミルクティーの味がお気に召したのだろうか。眉間に寄せられた皺はわずかに緩んだように見える。
「可愛げについてはともかく、だ。俺が敵わないと思ったのは、あのひたむきさだ」
「ひたむきさ?」
「そう。ジャックという少年を覚えているか?」
彼の問いに、私は静かに頷く。ジャックは12歳ほどの少年だ。子どもたちがお兄ちゃんと呼び、慕う相手である。彼のことは、私を強い人と言っていたのでよく覚えている。
「ジャックがね、剣を教えてくれと言ったんだ。まだ12歳の少年が、遊びではなく真剣に」
鬼気迫るものがあった。そう告げるルーファスに、私は口を閉ざす。強くなりたい、その願いを否定する気は毛頭ない。
しかし、そう願わなければならなくなったのは、何が理由だろうか。騎士への憧れ、その程度であればいいのだが。
そう考えている私に、ルーファスは穏やかな笑みを向ける。おそらく、私の懸念を悟っているのだろう。心配しなくていい、そう言ってジャックの話をしてくれた。
「何でも、ヘレン嬢を守るために強くなりたいんだそうだ」
「ヘレンを?」
突然出てきた友人の名に、私はぱちりと目を瞬いた。ヘレンを守りたい、そう言ってくれるのは友人としてありがたく思うが、どういった経緯だろうか。
「ヘレン嬢は昔から孤児院に足を運んでいたらしい。子どもたちからすると姉のような存在だとか。
そんな彼女を守れるように、強くなりたいと言っていた。恩返しをしたいようだ」
「そうだったの……。それはたしかに、ひたむきと言うべきね」
受けた恩を返したい、その思いはとても立派だ。
ヘレンは恩を与えたなど思っていないだろうが、相手がどう受け止めるかは自由だ。恩返しをしたいと彼が望むのも理解できる。
「俺が強くなったのは、そんな綺麗な理由ではなかった。
だからこそ、眩しく感じたのかもしれない。誰かを守るために強くなりたい。そう言えるあの子が羨ましくもあり、どこか怖くも思えた。自分の醜さを、突き付けられたように感じてね」
そうこぼす彼を見て、私はある日のことを思い出した。
あれは、臨時休講の日だったか。イグニールとの戦いで自身の未熟さを知り、実技訓練場に籠ったとき。焦燥感を振り払うように、魔術訓練に没頭した。
そんな私を止めに来たのがルーファスだった。私の言い分を受け止めた上で、「何事も限度がある」と諭してくれた。
そのときに、ふと気になって彼に問いかけたのだ。なぜそこまで強くなったのか、と。
あのときは、ルーファスがルーク殿下だと気づいていなかった。彼が命を狙われているなど知る由もなく、その強さがどこから来るのか知らなかった。
問いかける私に、彼が語ってくれた強くなった理由。それは恥ずべきものでも醜いものでもなかった。
「弱ければ死んでいく、それが世の理だから」
私の言葉に、ルーファスは顔を上げる。どこか驚いた表情をしているのは、私が彼の言葉を一言一句違えずに口にしたからだろう。
「要するに、生きるためには力が必要だったってことでしょう? それは決して卑下する理由ではないと思うわ。誰かを守るために強くなるのは素敵だけれど、そのためには優先すべきことがある」
「優先すべきこと?」
「そう。とっても大切で、とっても単純な話よ」
そう言って私はルーファスと視線を合わせる。どうか、彼にきちんと届きますようにと願いをこめて。
「自分の命があるから、誰かを守れるの。なら当然、生き残らなければならないでしょう? 死人に守れるものは無いのだから。
何より、守りたいと願う相手がいるのなら、その人のために生き残らないとね」
「守りたい相手のために……」
「そうよ。まさか、大切な人にあなたの死を背負わせるつもりではないでしょう?」
守りたいと思ってもらえること、それはきっと嬉しいことだ。誰かにそれほどまで思われるのは幸せだろう。
けれど、だからといって自身を犠牲にして守れとは思わない。護衛という立場の相手でも、命を捨てて守れとは言えない。愛し合う相手ならなおさらだ。
意気込みだけならともかく、本当に自身を顧みないのでは困る。
生きてさえいてくれれば、明日を共に生きられるのだ。死んでしまえば、そこで全てが終わってしまう。
「思い出だけを抱えて生きる、それはきっと、途方もない苦しさよ」
思い出は、時間が経つほどに美化される。実際の出来事よりも、いくらか美しい形で記憶に残ることが多い。
愛する人のいない中、美化された思い出だけを抱えること。それは決して美しい話ではないだろう。
もし、愛する人に置いて逝かれたのなら。きっと、どうしようもなく悲しくて、寂しくて、苦しみの中泣くだろう。
そして幾ばくかの時を越え、美しい思い出に浸るのだ。愛する人と過ごした日々を辿り、また涙する。思い出が美しければ美しいほどに、縋りたくなっても可笑しくない。
そんな人生、愛する人に送らせたいとは思わない。少なくとも、私は。
「だからこそ、私はあなたの思いを否定はしないわ。生き残るために強くなる。それは決して卑下すべきことではない。ジャックの願いも素晴らしいとは思うけれど、誰かを思うのならば、生き残る覚悟が必要よ。
きっかけなんて、どちらでもいいと思うの。結局は、どう生きるかが全てでしょう。
生き残るために強くなったとしても、誰かを守りたいと思う日は来るかもしれない。
逆に、誰かを守るために強くなっても、生への執着がなく相手を傷つける可能性もある」
強さを求める理由よりも、強くなった後の生き方の方が余程重要だ。
「あなたも、いつか心から愛する人ができるかもしれない。そのときは元の願いを忘れないようにね。大切な人のために、生き残るのよ」
そう告げる私に、彼はゆっくりと目を細める。眩しいものでも見るかのような表情だった。
彼は私の従者だ。そして何より、大切な友人である。互いに手を貸し、背を叩きながらここまで来た。
複雑な心境はあるものの、彼と結んだ友誼はたしかにここにある。
いつか、彼が堂々と自身の名を名乗れるように。いずれ道が別れるのだとしても、友の幸福を願うのだ。
「君は強いな」
ルーファスがぽつりとこぼす。くしゃりと前髪を掴み、口元には悲しげな笑みが浮かんでいる。何かを堪えるかのような表情に、なぜだか胸が騒めいた。
「強い?」
「そう。力とか魔術ではなく、心が強い」
こんなにも違うものか、思わずといったようにこぼれた声は、酷く悲しい響きをしていた。
「俺の母親が死んでいることは話したね?」
「……ええ。繊細な女性だったと、聞いているわ」
「ははっ! 大分配慮してくれているようだ。俺はもっと、キツい言葉を使っただろうに」
実技訓練場で語った際、彼は母親についても話してくれた。「戦う力も無い、か弱い女性。それが俺の母親だった」と。彼がそう告げた真意は、今も分からない。
きっと、共に離宮で暮らした彼だからこそ、見えるものがあったのだろう。
「母は、か弱い女性だった。真綿に包まれるように愛された女性だ。それゆえに戦うことを知らなかった。戦闘はおろか、人間関係の諍いも苦手だった」
ルーファスはゆっくりと口を開く。どうやら言葉を選びながら話をしているようだ。
それも当然か。彼にしてみれば、私は彼の正体を知らない人間。直接的なことが分からぬよう、言葉を選ぶ必要がある。
「人の悪意に鈍かった。周囲にいる優しい人間しか知らなかったんだ。周囲も母へ目隠しをしていたのだろう。悪いことは見なくて済むように、そんな配慮もあったのかもしれない」
私は黙ったまま、彼の話に耳を傾ける。
彼の母であるベアトリス様は、ランシアン侯爵家の二女。お爺様のご息女で、上には現侯爵であるサブリナ様がいる。
末の娘として可愛がられたのだろう。ランシアン侯爵家は家族仲が非常に良いと聞いている。
そんな温かな家に生まれたご令嬢だ。大切に育てられ、徹底的に守られていたとしても不思議ではない。
「父も、母をとても愛していた。掌中の珠とでも言うべきか。本当に愛されて生きた人だったんだ」
陛下のベアトリス様に対する寵愛は有名だ。王妃と結婚しているにもかかわらず、離宮へ囲い込むほど愛していた。ベアトリス様を囲ってからは、王妃の下へ訪れることは一切なかったという。
陛下の愛情は、ただ一人に注がれたのだ。
「だからこそ、あの人は自分で戦うことができなかった。優しい人々に守られる、本当のお姫様だったわけだ。
他人の悪意に気づかず、疑うことも知らず。あっさりとその命を散らせた」
馬鹿な話だ、そう告げる彼の顔には苦悶の表情が浮かんでいる。言葉では切り捨てているけれど、割り切れない思いがあるのだろう。
ベアトリス様の訃報。それは、彼が幼い頃の話だと聞く。まだ親の手が必要なときに、あっさりと失ってしまった。その衝撃はどれほどのものだったか。
殺される可能性があったのは、ベアトリス様も彼も同じだった。
命を狙われる者同士、生きていれば支えになっただろうに。彼女は息子の成長を見届けることなく、生涯を終えてしまった。
母親という己の保護者であり、命を狙われる仲間でもあった人。それを亡くした後、彼の人生が極めて厳しいものとなったのは言うまでもない。
ベアトリス様が亡くなった時点で、陛下の血を継ぐ者は生まれなくなった。陛下の愛はベアトリス様のみに注がれていたからだ。
あとはルーク殿下のみ始末すればいい。第一王子派が勢いづいたのも当然の結果だった。
「もし、母がもう少し強かったなら。そう考えてしまうときがあった。
正直に言えば、今でもそう思うときがある。彼女がもう少し強く、思慮深かったなら、と」
醜い考えだろうけれどね、そう自嘲する彼に、私は首を横へ振った。
彼がそう思うのも無理はない。幼子にできることなど、たかが知れている。大きくなって放り出されるのと、親の庇護が必要な子どもが放り出されるのでは話が違うのだから。
ベアトリス様の死は、間違いなく犯人が悪い。
けれど、それと同時に、まだ子どもだった彼が親の死に嘆くのも当然だ。ときには怒りをぶつけたくなる日もあっただろう。防げる事件だったならなおさらだ。
私は事件の詳細を知らない。それでも、何かしらの落ち度があったから起きた事件だということは分かる。
その落ち度が、警備の穴か、ベアトリス様の油断か、他の何かだったのか。詳しいことは分からないけれど。つけ込まれる何かがあったのは間違いないだろう。
彼の心は、ずっと捌け口を探していたのかもしれない。犯人を責め、母の落ち度を嘆き、そして最後は自分を醜いと蔑む。
その気持ちを抱えながら、ただ生き残るために力をつけたのなら。それは、どれほど苦しい日々だっただろう。
「俺はね、強い女性と結婚したいんだ」
「強い女性?」
「そう。現実から目を逸らさず、向き合える強さが欲しい。危険をきちんと察知して、自身で判断できる力。それがきっと、その人の身を守ってくれるはずだから。
母のようにあっさりと殺されては困るんだ。どんな瞬間も側にいられるとは限らないだろう?」
当然だ。彼は王族。いつかは玉座を手にするであろう人。いつも妃の側にいれるはずがない。公務は山程あるのだ。自由な時間は限られる。
「物理的な力が必要なんじゃない。人の波を渡り歩ける強さを持っていて欲しいんだ。警戒心が無ければ、あっという間に悪い奴に踏み躙られてしまう」
彼の視線が私へ向けられる。その瞳は真剣で、とても口を挟める雰囲気ではなかった。
自然と私は口を閉じ、彼を静かに見つめ返す。
「俺が助けに行けるように、全てが手遅れにならないように。自分を守れる女性を愛したい」
ーーせめて、守らせてくれる時間が欲しい
そう告げる彼の言葉は、とても悲しく響いた。
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