第69話 平行線のその先は


 貴賓室内に静寂が満ちる。向かい合う私と陛下は、互いに微笑みを浮かべていた。

 おそらく、今この部屋を誰かが覗き込んだなら、実に寒々しい光景に感じるだろう。私たちの目はどちらも笑っていないのだから。


 「例えどんな相手であっても、か」


 陛下が口を開く。その声は低い。感情の一切を排したかのように、冷たく響いた。


 「賢い者だと思っていたが、余の思い違いであったか?」


 鋭い視線に射抜かれる。ギラリと輝く瞳は、敵を仕留めようとする獣のようだ。普段はその色に合う涼しげな瞳だが、今となっては見る影もない。不快さを隠しもしない瞳は、身を竦ませるほどの恐ろしさがある。


 私はじっとその瞳を見据える。恐ろしい、それが素直な感想だった。できることならば、今すぐこの部屋を辞したいほどに。

 けれど、それで得られるものは何も無い。啖呵を切ったにもかかわらず逃げ出した臆病者。そんな評価がつくだけだ。


 私の望みは何だった? 生き残ること、それが第一。

 だが、それだけではない。


 望まぬ婚姻はしない。我が家にとって益にならぬ婚姻など、する価値もない。不都合な未来を避けるために、わざわざ教会へ名乗りを挙げたのではなかったか。

 聖女の能力を身に宿していると分かったとき、まだそれを知るものは少なかった。あと数年、逃げることもできただろう。


 それでも名乗り出たのは、王家の手から逃れるためだった。教会に入れば、王家もおいそれと手は伸ばせない。だからこそ、自分から名乗り出たのだ。子爵家に過ぎない当家が、王家から逃れる唯一の手だった。


 その全てを、無に帰すつもりはない。

 仮にここで陛下からの印象が下がったとしよう。それでも、私を婚姻相手に望むことは変わらないだろう。

 数百年ぶりの聖女、その肩書きにはとてつもない価値がある。愚かな娘ならば、都合よく使えば良いだけの話。手を引くとは思えない。


 それでは私に何の利益も生まない。こちらの価値を下げるだけだ。愚かなフリで莫大な利益が得られるなら演じてみせるが、愚を犯す利点はない。

 利用されるだけなど真っ平ごめんだ。


 「さて、私にはなんとも。ご期待に沿えなかったのであれば心苦しく思います」

 「ほう? そのわりには、表情に陰りがないように思えるが?」

 「まぁ。ここに鏡がないことが悔やまれますね」


 にっこりと微笑みを浮かべそう告げると、陛下の眉間に皺が寄る。不興を買ったとしても、突き進むしかない。私と陛下の利害が異なる以上、衝突はやむを得ない。


 何より、聖女になった以上、私を適当に扱うことはないだろう。アシュベルク教を敵に回すことになる。ならばわたしは、厄介な相手くらいに思われた方がいい。足元を見られるようでは話にならない。


 「よく回る口だ。益のある婚姻とやらが望みというが、我が息子では相手にならぬというのか?」


 陛下の問いに、私は内心で驚きの声を上げる。よもやそこまで直接的に口にするとは。こちらは誰と断定した物言いはしていないのだが。

 有耶無耶に流されることを嫌っているのだろうか。明確な回答を私から得たいらしい。


 「現時点でルーク殿下について語る言葉はございませんわ。お会いしたことがありませんもの」

 「ほう? これだけでルークのことと理解するか」

 「ふふ。のことでしょう?」


 陛下はジェームズ殿下を自身の子とは認めていない。そういう趣旨の発言はよく耳にした。

 なにより、陛下自身も一人しか想定していないように思える。もしジェームズ殿下も含めるのなら、「我が息子たち」が正確だろう。


 この方は一国を代表するお方。発言の正確さがいかに重要かは身をもって知っているはず。そんな彼の言葉だ。表現全てに意味があるとみていいだろう。


 「なるほど。意図を読み取る力には優れているらしい」


 くっ、と口角を上げる。八重歯を見せて笑う姿は、どこか楽しげだ。飄々とこちらを見る陛下に私も微笑み返した。


 「確かに、アクランド嬢とルークには面識がなかったな。

 とはいえ、面識がなくとも婚約など決まるもの。理由にするには少々弱い気がするが?」

 「おっしゃるとおり、お断りというには弱いかもしれませんね」


 小さく息を吐き、頬に手を当てる。眉を下げ困ったような表情を作ると、陛下へ口を開いた。


 「ですが、そもそもお受けする理由がないのです。お断りさせていただくのも致し方ないのではありませんか?」

 「……何?」


 ピクリ、陛下の眉が動いた。

 室内の空気が再び緊張感に包まれる。この室内に入ってからというもの、心が休まることがない。早く片付けて休みたいところだ。そんな気持ちで、私は言葉を続けた。


 「ルーク殿下と婚姻することで、当家に一体どれほどの益がございましょうか」


 私にとって何より重要なのはこの点だ。ルーク殿下との婚姻を決める理由がない。


 「王子妃を輩出するというのは、十分な名誉ではないか?」

 「おっしゃるとおりです。けれど、当家は既に聖女を輩出した家。名誉という意味では、十分かと」


 過去に何人もいる王子妃よりも、数百年に一人しかいない聖女を輩出する方がよっぽど名誉だ。さすがにそこまではっきりと言うつもりはないが、おそらく伝わっているだろう。ひくり、と口の端が引きつっているのが見える。


 「ならば、慈善事業についてはどうだ? 今は会社を通して民へ手を伸ばしているようだが、王子妃となればより手広く行えるだろう。会社を通すより、慈善事業に注力できるはずだ」

 「確かに、慈善事業のみに焦点を当てるならばそうでしょう。

 しかし、それは私がしたい支援の形ではありません」

 「支援の形?」


 不思議そうに尋ねる陛下へ、静かに頷く。ここは譲れない部分だと口を開いた。


 「はい。例えば、孤児院への寄付ですとか被災地への援助というものは、他の誰かがやってくださるでしょう? 他の貴族や王家の方が支援してくださいます。王妃様も孤児院への寄付をなさっていますよね?」

 「……そうだな」


 私の問いに、陛下は渋い顔をして頷く。王妃という単語を出した途端にこれだ。二人の仲は相当に悪いようだ。


 「それらの支援は絶対的に必要です。

 けれど、それだけでは足りないのです。民の中には、両親がいて、仕事があって、それでも貧しい生活を強いられている者たちがいます」

 「耳の痛い話だな」


 税を払うことすら困難だという声もある。そう呟く陛下は思案顔だ。

 実際のところ、国全体を見ると税を払えない民も多い。領主が不正を働いているというならともかく、公正に徴税している土地ですら貧困にあえぐ民がいるのだ。これは、我がアクランド家にとっても無視できない問題である。


 「そう言った方々を、従来の支援方法では救えません。だからこそ、私は起業という方法をとったのです」

 「支援の穴を塞ぐことが目的ということか」

 「そのとおりです。王子妃になれば、確かに慈善事業は行えるでしょう。ですがそれは、私がやりたい支援の形ではなくなります。


 また、設立した会社はアクランド子爵家にとって大きな利益をもたらしています。金銭面だけでなく、民からの好感もある。

 当家にとって、この事業を縮小することは考えられません。従来の支援方法をとるくらいならば、このまま事業を進める方が有益です」

 

 私の説明に、陛下は黙り込む。瞼を閉じ、何やら思考しているようだ。

 民の困窮は、陛下にとっても見過ごせない問題のはず。最終的に税収が下がって困るのは国だ。民が税を払える程度の裕福さを持つことは重要だろう。


 「言い分は分かった。王子妃を輩出するという名誉も、王子妃として慈善事業に邁進することも、アクランド嬢の望みとは異なるようだな」

 「えぇ。どちらも素晴らしいことではありますが、当家にとって害より益が上回るとは言えません」


 陛下がゆっくりと目を開ける。美しい青の瞳は、こちらを見定めるかのように鋭い。そんな瞳を真っ直ぐに見つめながら、私は口を開いた。


 「率直に申し上げますと、王家との婚姻は課題が山積みです。

 聖女という肩書こそあれ、私は子爵家の出身。王家と婚姻が結べるのは伯爵家以上が基本。本当にルーク殿下と婚姻するのであれば、しきたりを曲げるか、私が伯爵家以上の家へ養子に出る必要があります」


 そう。根本的な問題として、私は殿下と婚姻するに足る出自ではない。

 聖女という肩書は、あくまでも教会上のものだ。教会の要人だからこそ丁重にもてなしてくれるが、当然ながら爵位に変動があるわけではない。私がルーク殿下と婚姻するには、いくらかの手を打つ必要がある。


 「また、聖女として好意的に迎えられていても、これが王子妃となれば不快に思う者も出るでしょう。伯爵家以上のお家柄であれば、自身の家から王子妃を輩出したいと考えているはずです。

 私が王子妃にまでなれば、権力の集中だと非難が上がりかねません。当家の事業に砂をかけられる可能性すらある。


 それらの問題、言い換えるならば害でしょうか。その婚姻に害を上回るほどの益を、私は見出せません」


 私の言葉を最後に、室内に沈黙が訪れる。陛下は口を開くことなく、ただ私を見据えていた。

 大神官も沈黙を守っている。ちらりと視線を送ると、茶目っ気のある笑みを見せてくれた。いざとなったら、教会として私を守ってくれるつもりのようだ。こういうとき、国から独立した機関というのは有り難い。


 逸れていた思考を戻し、陛下へ意識を向ける。すると、そこには口元を抑える陛下の姿があった。


 「……陛下?」


 気分でも悪いのだろうか。そう思い腰を上げるも、動きは遮られた。


 「く……っ、ハハハハハハハハハッ!!」


 突然の吹き出すかのような笑い声に、私は腰を上げたまま固まる。何事かと陛下を見ると、腹に腕を回し、高らかに笑っていた。目尻には涙が浮かんでいる。

 泣くほど笑っている事実に、私は何とも言えない表情を浮かべた。


 「……陛下」

 「ゆ、許せ。ここまではっきりと王家との婚姻が無価値と言われるとは思わなかった! ククッ、戦での功績をタテに婚姻を望んだ家とは大違いだ!!」


 傑作だな! そう告げる陛下は、笑いが止まらないようだ。声を抑えようとする素振りすらなく、ひたすらに笑っている。笑いを取れたようで何よりと言えば良いのだろうか。


 それはともかく、陛下の発言には物申したい。“戦での功績をタテに婚姻を望んだ家”とは王妃の生家を指すのだろうが、私の前で発言するのは辞めてほしい。闇深い話はいりません。


 「これは愉快だ! 大体は王家との婚姻を喜ぶものだが、ここまで拒絶するとはな!」


 くつくつと笑みを浮かべる陛下は、至極楽しげだ。一触即発のような空気は無くなり、私はほっと胸を撫でおろす。

 引き下がる気はなかったけれど、一国の王に喧嘩を売るのはさすがに怖い。聖女という肩書がなければ、さすがにここまでは言えなかった。不敬と言われても仕方がないレベルだ。


 上げかけた腰を下ろし、席に着く。改めて前を見ると、きらきらとした瞳でこちらを見つめる陛下の姿があった。そのやたら輝いた瞳が恐ろしいのだが。


 「……何か?」

 「なに、面白い娘だと思ったまでのこと。これほどまでに、我の強い者もおらぬだろう。一国の王を前にし、あの言葉。相当の意思がなければ吐き出せまい」


 面白がられているな、とため息を吐く。もう隠す気すら失せた。陛下に対する礼儀としてはよろしくないが、今更である。啖呵を切った上大笑いされたのだ、取り繕うのも馬鹿らしくなる。


 「我の強さについては否定しません」

 「そうだろう! 普通であれば、早々に引き下がるところだろうよ。誰だって権力者に睨まれたくはないものだ。聖女という肩書があれど、実際に口に出す者などおるまい」


 お前以外にはな。そう告げると、陛下は口角を上げる。ニヤリと浮かべられた笑みは、何か企んでいるかのようだ。自然と身構えてしまう。


 「にもかかわらず、己の我を通すために口にした。それも、王家との婚姻に益が見いだせないときたものだ! これを笑わずしてなんとする!」


 ハハハハハハッ! 高らかに響く笑い声に、私はがくりと肩を落とした。大問題にならずに済んだのは良かったものの、ここまで笑われるとは。叱責や怒りをぶつけられるとばかり思っていたため、何とも言い難い心地である。


 「ん? 何故冴えない顔をしている」

 「さ、冴えない……。私としては、陛下にお叱りをいただく覚悟で言葉を発したのです。ですから、この展開に少々驚いておりまして」


 女性の顔に冴えないとはこれいかに。下手に言い返すこともできず、私の思いを口にする。怒られずに済んだのは幸いだが、感情の置き場に困ってしまう。


 「そんなことか。もとより、発言を咎める気はなかった。王家との婚姻を避けていることは、最初から分かっていたからな。あれほど早く教会に入ったのだ。察しはつく。」


 私の動きを見て、陛下は私の意図を理解していたようだ。

 となると、何のためにこの問答をしたのかと尋ねたいところだが。


 「なら何故婚姻について尋ねたのか、そう言いたいようだな?」


 背もたれに寄りかかり、陛下が口を開く。

 こちらの心情を見透かすかのような言葉に、私は息を詰まらせた。無様は晒せないと堪えたものの、一人きりの部屋だったら声を出していたかもしれない。陛下の察しの良さに、うすら寒いものを感じる。


 「……はい。正直に申しますと、そこは疑問です。なぜ、わざわざ尋ねられたのでしょうか。御多忙な身の陛下が、無駄をなさるとは思えません」

 「ふむ。それは正しい。余とて暇ではないからな。

 しかし、その上でなお、確認する必要があったのだ」


 そう告げる陛下は、穏やかな笑みを見せる。今までの愉快そうな笑みから一変し、とても優しい表情だ。ぱちりと目を瞬いて、陛下を見つめる。


 「アクランド嬢。王家が何故、君との婚姻を望むか答えられるか?」

 「はい。一応は答えられますが……、何と申しましょうか。ご不快な表現が入る可能性もあるかと」

 「構わぬ。もとより身から出た錆だ。申してみよ」


 ふん、と鼻を鳴らす陛下に、私は苦く笑う。陛下にとっても、王家を取り巻く状況は不本意なはずだ。ご自身の結婚自体が不本意だったのだから。


 「現在、王子殿下はお二方いらっしゃいますが、共に後継者を主張するには難しい点がございます」


 陛下の顔を見ながら、ゆっくりと語り出す。黙したまま視線で続きを促された。何も口を挟まず聞くつもりらしい。


 「ジェームズ殿下は、女神の祝福たる王家の青がないこと。ルーク殿下は王家の青を宿されていますが、出自を問題とされております。

 ルーク殿下自身の欠点というわけではございませんが、婚外子であるのは事実。難しいお立場にございます」


 そう告げると、陛下は眉を寄せるも口を開くことはなかった。

 私の言葉に問題があるというよりも、その現状を憂いているのかもしれない。陛下からすれば、ご自身の選択がご子息を苦しめているのだから。


 「お二方の懸念事項を補う最も簡便な方法が、伴侶に優れた者を選ぶことです。双方ともに不足とされる部分がある以上、それ自体は解決のしようがありません。


 けれど、その上で自身への支持を集めるならば、有力な伴侶を選べばいい。一人では求心力に欠けるとしても、二人であれば人心を得ることができるかもしれませんから」


 ジェームズ殿下が王家の青を宿していないことも、ルーク殿下の出自に難があることも、正しようのない事実だ。

 ならば、その上で支持を集める方法を考えるしかない。


 「そういう意味では、聖女という立場についた私はうってつけの人材でしょう。民に歓迎される聖女であれば、見栄えもいいというもの。ありがたいことに、事業についても好感をもって受け止められております。

 求心力に欠ける部分を補填するのであれば、丁度いい存在であるのは確かですから」


 そう締めくくると、陛下は無言で頷いた。どうやら、私の推測は当たっていたらしい。


 「そのとおりだ。だからこそ、王家は君を求めている。そしてそれは、多少のことでは揺らがないのだ」

 「……と、言いますと?」


 私の問いに、陛下は口を歪ませる。その瞳はギラリと輝き、雄々しい表情を浮かべている。


 「君が望むと望まざるとに関わらず、君を求めるということだ。王命が無理でも、やりようはある」


 陛下の言葉に、私は息を飲む。頭の中に警鐘がなった。陛下の言う“やりよう”が何を示すのかは不明だが、すんなりとは済まないらしい。


 「陛下。いくら貴方様でも聖女様へ害をなすのであれば、教会は黙っておりませんぞ」


 今まで黙していた大神官が、陛下へ釘をさす。底冷えがするような冷たさに、私は驚いて大神官を見た。いつもの穏やかな笑顔はなりを潜め、凍てつくような厳しい瞳をしている。


 「なに、落ち着いていただきたい。こちらとしても、聖女様の重要性はよく理解している。だからこそ、こうして直接話しているのだ」


 陛下はそう言うと、私の方へ視線を戻す。先ほどの獣のような瞳ではない。ただ真摯にこちらを見つめていた。


 「余は君を高く買っている。こうして話し合いの場を設けたのはそれが理由だ。君が望まざると、王家は君を求めるだろう。これは間違いない事実だ。

 その上で、直接口にしたのは余にできる誠意だ。望まぬ結婚を強いられる苦痛は、誰より知っている」


 陛下の言葉が耳を打つ。望まぬ結婚を強いられる苦痛、それは確かに陛下が良く知っているだろう。その苦痛を、誰より味わってきたはずだ。


 「それでも、諦めるわけにはいかぬのだ。

 今になって、父の思いを知るとは思わなかったがな」


 ぽつりとこぼされた言葉は、誰に拾われるでもなく、寂しく消える。

 哀愁を纏うその姿に、私は何も言えなかった。

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