第58話 障害だらけの戦場で
「こ、れは……」
背後から、メアリーの震える声が聞こえる。無理もない。目の前で血が飛んだのだ、動揺しない方が可笑しいだろう。
一つ息を吐き、現状の把握に努める。この惨状の原因、それは炎を操る大熊、イグニールだった。大きな体は2メートルを優に越している。あの爪が当たれば、無事では済まないだろう。
第一王子は運がいい。腕に負傷こそ負ったものの、命はあるのだから。
「メアリー、ヘレン嬢。私たちが壁になります。すぐに第一王子殿下のもとへ」
「っ、シャーロット様!?」
驚いたように声を上げるメアリーに、イグニールの視線が向かう。それに、メアリーは引きつった声を上げた。猛獣に睨まれたのだ。恐怖を覚えないはずもない。
小さな声で落ち着くように告げる。その上で、彼女たちを静かに諭した。このままでは、第一王子が危険だと。
どういう経緯で、この森にあれほどの魔獣がいるかは不明だ。今わかるのは、この状況が非常に
第一王子の負傷、これがなにより厄介だ。学園の管理体制について、間違いなく追求されるだろう。それで済めばまだマシなくらいだ。ここにいる生徒たちへ怒りが向くことは避けねばなるまい。
こうなった原因は不明だが、何にしても死なれては困る。死人に口なしと言わんばかりに、彼の死を利用されたらたまったものではない。
例え第一王子がどれほど苦しもうと、彼は生かさねばならない。死んだ方が楽な痛みであったとしてもだ。彼の肩には、多くの人間の命が乗っているのだから。
第一王子、その言葉にメアリーたちは息を飲んだ。事の重大さが分かったのだろう。一瞬迷う素振りをみせたものの、すぐに頷いてくれた。
それでいい。相手は一国の王子だ。下手を打つわけにはいかない。
「オーウェン、ルーファス。メアリーたちを第一王子殿下のもとまで向かわせるわ。絶対に、彼女たちに近寄らせないで」
「かしこまりました」
「いいだろう」
その言葉を合図に、二人は魔術陣を顕現する。水色と緑色の光が浮かび、イグニールの視線が彼らへ向かう。その隙に、メアリーたちへ合図を出した。彼女たちはそれに合わせて走り出す。
横目で確認しながら、私も足元に魔術陣を顕現させた。淡く光るのは桜色。今私がすべきは攻撃ではない。できる限りのサポートだ。
「《時は流転する――我らに追い風を》!」
まず選択したのは、私たち三人の動きを速めること。真っ先に狙われるのは、戦闘を選んだ私たちだろう。敵からの攻撃が迫った際、素早く避けられなければならない。最低限の備えだが、無いよりはマシだ。
現在、この場にいるのは私たちとブリジット嬢のグループだけではない。非常に厄介なことに、他の生徒たちもちらほら混じっている。皆困惑し、中には失神した生徒もいる。
居場所が固まっていればまだいいものを、イグニールを挟んで反対側に立つ生徒の姿もある。あちらに向かわれれば、守ることは困難だ。何としても、こちらへ集中してもらわなければ。
せめてオーウェンたちが剣を持っていれば良かった。それさえあれば、前衛後衛で分かれることもできたのに。敵の隙を作るにも、魔術のみに縛られると難しい。そんな泣き言を言うわけにもいかないが。
思考する中、ふいに後ろから足音が聞こえた。敵を前にして振り返ることもできない。教員であればいいと願ったものの、その願いは外れることになる。
「シャーリー、良かったわ。無事ね」
「ソフィー様!?」
どうしてここに、そう告げる私に、彼女は迂回してきたと答える。イグニールがいたため、突っ切ることもできず、遠回りしてこちらへ来たのだとか。公爵令嬢が一体何をしているのかと、内心で頭を抱える。
「ソフィー様、ここは危険です。御身を損なってはなりません。すぐにお逃げください」
「何を言っているの、シャーリー。そんなことするつもりなら、ここにはいないわ」
きっぱりと告げる彼女に、揺らぎはない。互いに視線を合わせることはないが、その声から退くつもりはないのだと知る。なぜと尋ねる私に、彼女は静かに答えた。
「この場には王族がいらっしゃいます。だというのに、臣下である私が逃げるわけにはまいりません。最も尊き身が戦場にあって、なぜ退くことができるのです。
それに、ここにはあなたがいる。聖女という、この国で唯一の存在。それを置いて逃げるなど、ウィルソン公爵家の名折れです」
その声は重い。きっと、彼女だって怖いはず。今彼女を立たせているのは、その気高き矜持だけだ。それを理解し、胸が締め付けられるように傷んだ。
「よく言った、ソフィー。妹を思う身としては、逃げて欲しいところだけれどね」
そう言って、イアンが彼女の隣に立つ。メアリーたちが到着したこともあり、こちらの援護へ回ったのだろう。生憎、ケンドール辺境伯家のご令孫は立ち上がれそうにもない。この状況で協力いただけるのなら有難い。
「前衛の用意ができない今、僕らにできるのは魔術の攻撃だけ。タイミングを見計らっていくしかない。それでも、問題は山積みだけれどね」
「イアン様のおっしゃるとおりです。これほど人がいる状況。大きな術は使えません」
周囲の人間を巻き込む可能性がある。そんな大技は使えない。
そして、ここは森の中。相手は炎を操る魔獣だ。延焼すれば退路を失う。火が点けられることのないよう、先回りしなくては。
問題ばかりで頭が痛くなる。私は、人を守りながらの戦闘には慣れていない。いつだって、騎士や神官たちに守られてきた。それだけではダメだと分かっていたけれど、これほど早く窮地に立つとは。
大きく息を吸い、精神を集中させる。無いものねだりは無意味。今できることをやる、それしか方法はない。
周囲に静寂が満ちる。それを切り裂いたのは、オーウェンだった。緑色の魔術陣が強く輝き、風の刃が走り出す。それを追うように、氷でできた針が射出された。ルーファスの追撃だ。
イグニールは風の刃を避けると、氷の針を叩き落とす。いくつかは直撃したようだが、あまり効果はなさそうだ。その手には炎が宿っており、針は一瞬で蒸発する。それを証明するかのように、わずかな水蒸気が漂っていた。
並みの攻撃では通用しないのか。とはいえ、大技も出せない現状。ならば、今すべきは相手の動きを鈍らせることだ。
「《時の流れを緩ませよ、ターディー》!」
私の詠唱と同時に、桜色の光がイグニールを包む。目に見えた攻撃性がないからか、避けようとはしなかった。その油断に救われた。おかげで、敵の動きは一気に鈍くなったのだから。
「《追撃せよ、ヘイル》!」
それを見逃すことなく、ルーファスが術を放つ。放たれた雹の弾幕は、突然鈍くなった身では避けられないようだ。全弾命中し、イグニールは不快そうな声を上げる。
「なるほど。分かってはいたが、簡易な術では対抗できそうにないな」
ルーファスがぽつりと漏らす。どの程度の威力があれば効果が出るかを試していたのだろう。
周囲に人がいる以上、慎重に術を選ばざるを得ない。誰も巻き込まず、敵に効くもの。それを見つけるには、少しずつ術を変えていくしかないのだ。
「《我が敵の行く手を阻め、フレイムウォール》」
ソフィーが炎の壁をイグニールの周囲に顕現する。延焼を避けるためか、地面から1メートルほど離して壁が作られた。突然視界を奪われたからか、くぐもったような声が響く。そのチャンスを活かさんと、イアンがすかさず術を放った。
「《撃ち抜け、アースバレット》」
炎の壁を突き抜けて、弾丸が放たれる。視界を遮られたため、避けることも弾くこともできなかったようだ。壁の奥では衝撃音が鳴り響いている。
連続した衝撃音が止み、一瞬の静寂が訪れる。それを引き裂いたのは、不快さを隠さぬ雄叫びだ。
「っ、《肥沃なる大地よ、我が敵を捉えたまえ! アースチェイン》!」
苛立ちのあまり、炎を放たれるのはマズい。下手にこちらへ突進されるのもだ。相手の動きを遅らせているとはいえ、こちらに近寄られるのは避けたい。その一心で、土の鎖で敵を捕捉した。入念な準備は困難だったため、急ごしらえだ。それでも、無いよりは遥かにいい。
とはいえ、大技の使用ができない以上、長期の交戦は避けたい。敵を倒すより早く、被害者が出る可能性もある。人命の保護が最優先だ。
「メアリー! ホイッスルを吹いて! 早く!」
私が声を上げると、メアリーは慌てたような声を上げた。
あのホイッスルの音は、学園内の教師に伝わると聞いている。ならば、敵を捕捉しているうちに救援を呼ばなければ。これだけの騒ぎで教師が来ていない以上、こちらからアクションを起こすしかない。
幸い、メアリーとイグニールは距離がある。多少彼女が動きを見せても、あちらへすぐに攻めることはできない。その前に私たちが立ちはだかっているのだから。
「わ、分かりました! すぐに……っ!」
「駄目よ! 何を考えているの!?」
メアリーがホイッスルを吹こうとしたとき、突然制止の声が上がる。その直後、メアリーの悲鳴が響いた。振り向いて確認したいが、敵を捕捉している今、それも難しい。何が起きているのか、そう思った直後、ソフィーの鋭い声が飛んだ。
「コードウェル公爵令嬢! 今の状況が分かっているの!?」
その声を聞き、私の胸に広がったのは苛立ちだ。よりにもよってこんなときに、邪魔をされるとは。ブリジット嬢が何を思って妨害したのかは知らないが、それならこの状況を何とかしてくれと言いたい。
「当然ですわ! あのイグニールを倒さねばならぬのでしょう。それなら、素早く倒してしまえばいいだけのこと」
「まさか……あなたっ!」
止めなさい! ソフィーの制止を呼びかける声が響く。私の背に悪寒が走った。マズい。後ろを振り返らずともそれだけは分かる。
背後から、強い魔力の渦を感じる。おそらく、最大出力で魔術を放つつもりだろう。
慌てて顔を上げて前方を確認する。イグニールの背後には、3人の男子生徒と2人の女子生徒がいた。内1人は、意識を失い倒れている状態。ブリジット嬢の魔術が放たれた場合、避けることはできないだろう。
――余計な真似を!
苛立ちが募り、小さく舌打ちをする。この状況で、形振りなどかまっていられない。令嬢らしさなどかなぐり捨ててでも、守らなければ。
「ルーファス! イグニールの足元を凍らせて! 今すぐに!」
「任せておけ!」
私の指示に、ルーファスは素早く術を展開する。それと同時に、私はイグニールの拘束を解いた。そちらにリソースを裂く余裕なんてない。今すべきは、奥にいる生徒たちの保護だ。
焦りで手が震える。それを意地で抑えつけ、必死で魔力を編む。間に合え、間に合え、間に合え! ただその一心で魔術を展開した。
「《流転せよ! 守護のヴェールを彼らに》!」
桜色と白、二色の光が煌めく。それは、背後の魔力が最高潮に達するのと同時だった。
「《凍てつく息吹よ、我が敵を喰らいたまえ! ブリザード》!」
白銀に輝く雪の嵐が、イグニールへと向かう。視界は吹雪に覆われた。激しく吹雪く雪の音と、イグニールの悲鳴のみが耳に届く。
その奥にいるはずの、人の声は聞こえない。
それをどう評価すればいいのか。その答えを知るには、雪の嵐が止むのを待つしかなかった。
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