第38話 星空の下、新たな決意
空に浮かぶは満天の星。ビルの明かりや飲み屋のネオンがないこの場所は、星が良く見える。明かり一つない庭に、私は一人腰かけていた。
真夜中というに相応しい時刻。本来であれば、既に眠りについている時間だ。どうにも眠れずにいた私は、ブランケットを羽織り庭へ出た。前世より余程美しい星空は、ささくれ立つ心をなだめてくれる。
「眠れないのですか?」
背後からそっとかけられる声に、驚いて振り返る。視線の先にいたのは、従者であるルーファスだ。
怒るでもなく、困った顔を見せるでもない。ただ凪いだ瞳でこちらを見つめていた。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
「まだ起きていましたからご心配には及びません」
「あら、こんな時間に?」
「はは、それは聖女様も同じでしょう? 私は本を読んでおりまして、ついつい夜更かしを」
秘密にしてくださいね、と人差し指を口に当てて微笑む彼に、私もゆるりと笑みを浮かべた。
そっと動いてベンチに隙間を開けると、無言で座るように促す。心得たルーファスも小さくお礼を言い、隣へ腰かけた。
「気にされているのですか? 今日のこと」
その言葉に、場の空気が引き締まるのを感じる。私を見かけたときには既に、そこに思い当たっていたのだろう。
「聖女様、あなたはご立派でした。
初めての戦闘、予想外の敵。逃げ出したっておかしくはない。いえ、逃げ出すことすらできず、意識を失っていてもおかしくはなかった。
貴族のご令嬢として生きてきたあなたに、戦闘経験などあるはずもないのですから」
貴族令嬢であれば、通常、戦闘に出ることはない。
彼女たちにとって、最も重要なのは婚姻だ。より良い家と婚姻を結ぶこと、それが何より重要な役目である。戦闘に出て傷など負ってしまっては、縁談を潰しかねない。普通は避けて通るものだ。
「それでもあなたは逃げなかった。震える手足を抑え付けて、生き残るために戦った。闇雲に術を放つのではなく、確実に捕らえられるまで待つ忍耐もあった。初めての討伐でそこまでできるのは、稀なことです」
防衛本能に従い魔術を放っていてもおかしくありませんから、そう言う彼に視線を向ける。彼はじっと夜空を見上げていた。その瞳は空を彩る星々ではなく、もっと遠くにあるものを見つめているように思えた。
「だからこそ、心配でもあるのです」
「……え?」
数拍置き、ルーファスが言葉をこぼす。それに首を傾げると、彼はこちらへ顔を向けた。私に向ける表情は、痛ましいものを見るかのように顰められている。
「何も言葉にしなかったでしょう。怖いとも、辛いとも、嫌だとも。
逃げてしまえば助かるのに、あの場に留まった。泣いてしまえば楽になれるのに、涙一つこぼさない。
その上、弱音一つこぼさないのです。心配にもなるでしょう」
「ルーファス……」
彼の瞳に、唖然とした私の姿が写り込む。
彼に驚かされることは多かった。初めて会った日、その知識や視野の広さに感嘆の息を漏らしたものだ。
それでも、今日ほど彼に驚かされることはなかった。戦闘での冷静さ、周囲の状態を的確に把握する能力、その上で他者を気遣える余裕。子どもだと思っていた彼は、私よりずっと大人びていた。
「あなたはその身に多くのことを背負っているのでしょう。アクランド子爵領の民だけではない。この国の民が少しでも豊かになれるよう、株式会社の運営に携わる。それだけでも十分な偉業です。
だというのに、数百年に一人という聖女の役目まで担うこととなった。それがどれほど苦しいことか、私には分かりません。けれど、この上ない重責だろうとは思います」
「……私は、そんなにできた人間ではないわ」
確かに民を救いたいとは思った。だから株式会社の設立に力を入れた。やりたいと願ったことだから、それに伴う重責は受け入れた。
では、聖女としてはどうだろうか。重責を受け入れる覚悟はあっただろうか。
私はただ、王家から逃げるため、その手段として教会へ申し出た。
仮に王家のことがなくとも、いずれ聖女にはなっていただろう。力が知られるのは時間の問題だったのだから。
聖女として求められた。振り切ることは困難で、聖女になることにメリットもあった。だから受け入れた。
消極的に受け入れた私に、聖女としての重責を担う覚悟があったかと問われると、返答に困ってしまう。
「成り行きだった。色々なことがあって、聖女になるのを受け入れた。けれど、私は元々聖女になりたかったわけではない。だからと言って手を抜くことはしないけれど……」
「それだけで十分でしょう」
私の言葉を遮るように、ルーファスが断言する。その言葉も、彼の瞳も、強い意志が込められていた。
「人は誰しも成りたい自分に成れるわけではない。夢が叶うのは一握りの人間です。多くは何らかの流れにのって、自分の生を生きていく。
それが悪いこととは思いません。人生とは、そういうものでしょう。辿り着いたその先で何を成すのか。重要なのはそれだけです」
「辿り着いた先で、何を成すのか」
「はい。自分一人の世界で生きているのなら何にだってなれるでしょう。騎士にでも画家にでも、時には王にだってなれる。自分しかいない世界ならば、自分が何者なのかを決めるのは心ひとつですから。
けれど、現実はそうではない。様々な人間がいて、出来上がった社会がある。その中で成りたいものに成るのは極めて難しい。己の望みとは違う生き方を求められることだってある。
聖女になりたくてなったわけではない、あなたのように」
かつての世界を思い返す。夢を叶える人、それはほんの一握りだった。実力だけでもダメで、運が必要なケースもある。子どもの頃願った人生とは、大きく異なる道を辿った人は多いだろう。
「だからこそ、辿り着いた先で何を成すかが重要なのではないでしょうか。今いる場所で最善を尽くす。その在り方は賞賛されるべきでしょう。時にはそれが違う道を開くことすらあるかもしれません。
何にしても、今できる最善を尽くすこと。それが何より重要なことだと思います。
――手を抜くことはしない、そう言い切れるのであれば、それだけで十分です」
私の手を、温かな温度が包み込む。ルーファスの手だ。恐怖に襲われる私をなだめた手。今はぎゅっと私の手を包み込んでいる。
「自分にできる限りのことをする。それでいいのです。恐怖を抱えながらも、必死に最善を尽くした。それを卑下する必要などありません。
弱音だって吐き出していい。涙をこぼしてもいい。それでもあなたは成し遂げた。その事実こそ尊ばれるのだから」
視界が歪む。水面を覗き込むかのように、目の前が揺れた。瞳に張った水の膜は、私の視界をきらめかせる。
鼻がつんとする。口の中に唾がたまった。奥歯を噛み締めながらそれを飲み込むけれど、震える喉の動きは鈍い。
「ホーンラビットの討伐はおろか、ソイルボアまで倒したのです。求められる以上の成果を出した。急襲を受けたにも関わらず、死人は一人もいない。これは誇るべきことでしょう。
自分の成果を誇れないというのなら、私が代わりに誇りましょう。あなたは立派だった。我が国が求める聖女そのものだ」
ぽたり、水滴が頬を伝う。一度こぼれた水は、二度と元には戻らない。頬に流れるモノを、意識してしまえば止めることは出来なかった。ただ静かに、降り注ぐ雨のようにしとしとと濡らしていく。
「……清廉でも信仰に厚いわけでもない、そんな聖女でも?」
震える声で問いかける。私は元々信仰心に厚いタイプではない。宗教というものに、まだ馴染めたとは言い難い。
そして、清廉な人間だとは口が裂けても言えない。生きていくために金が必要だった。夜の街に出てまで稼いだ記憶は、私が私である限りなくなることはない。
あの仕事が悪いものとは思わない。けれど、良いものだと胸を張れたこともない。当時、信頼できる友人にしか話さなかった。私の中でどこか卑屈な気持ちがあったからだ。お金さえあればこの仕事はしなかった、そんな気持ちが。
お客様の中には、早く夜を上がってほしいという人もいた。こんな仕事辞めなよと遠慮なく言う人もいる。その度に思うのだ。
――こんな仕事、それをしなければまともに生活できないのに、と
生きていくには金がいる。だから働く、ただそれだけなのに。振りかざされる言葉に、笑顔を返せるようになったのはいつだったか。そうなる頃には、心は凍り付いていた。
夜の街。そこには華やかな思い出があった。同時に、常に後ろ暗い気持ちを抱えてもいた。清濁併せ吞むこと、それが何より大切な街。そこで過ごしてきた私には、清廉という言葉はほど遠い。
「内面など、多くの人間は見ておりません。何を成したか、人の評価など大抵それで決まるものでしょう。
個人的な付き合いならいざ知らず、公人は“いい人”であるかなど関係ない。人が良くても、無能ならばそっぽを向かれるものです」
ルーファスの言葉に、また一つ、水滴が滑り落ちる。清廉でなくていい、それは私の重荷を軽くした。聖女らしくなれない自分を、それでもいいと誰かに認めて欲しかったのかもしれない。
ずっと、自分は聖女らしい人間ではないと思っていた。その気持ちは今でも変わらない。少なくとも、私の想像する聖女像とはかけ離れている。
けれど、それでもいいのなら。最善を尽くすことで認めてもらえるのなら、私にとっては余程気が楽だ。
人間性はそう簡単には変えられない。育った環境、経験した物事。それが私を形づくる以上、いきなり聖女らしくなれと言われても無理だ。
「大衆が見るのは、あなたの功績です。もし、あなた自身に思うところがあるのならば、誰にも文句を言わせない実績を積み上げればいい。
その上であなたを悪く言う者がいるのなら、捨て置きましょう。そういう輩は、何をしてもあなたを評価しない。そんな人間に労力を割くのは無駄なことだ。
ありのままのあなたでいい。結果を出すための努力を怠らないのならば、いくらでも助力します」
「ふふ、あなた、随分と過激なことを言うのね」
ルーファスの口ぶりに、自然と笑みがこぼれた。彼の言葉は鋭く、ともすれば反感を覚える人間もいるだろう。けれど、今の私にとっては救いだった。
最善を尽くせ、結果さえ出せばいい。それは、夜の街のルールと同じ。最善を尽くし、売り上げを上げる。そんなかつての在り方と、何も変わらないのだから。
「残念ながら、昔からこういう性格ですので」
肩をすくめて言う彼に、声をあげて笑う。理知的な少年は、どうやら皮肉屋でもあるらしい。彼の言葉は少々過激だが、的を射るものでもある。世の中結果が全て、そういう言葉は前世でもよく聞いていた。
「それなら、私には随分丁寧に接してくれていたのね?」
「聖女様相手に無礼な振る舞いはできないでしょう?」
片頬をあげて笑う姿に、愛らしさは皆無だ。眼鏡姿も相まってどこか大人びて見える。それがまた妙に似合っていて、笑いがこぼれた。
「なら、どうか普段通りでいてちょうだい。変に気を遣われるのは疲れるもの」
「おや、本当にいいのですか? 後から直してくれと言われても直せませんよ?」
「かまわないわ。もう今のあなたを見てしまったもの。
それよりその敬語、やめる気はないの? 普段は別に敬語でもないでしょう?」
私の言葉に、彼は焦げ茶色の瞳を瞬いた。そんなに予想外な質問だったかと、こちらが首を傾げたくなる。
「何故普段は敬語でないと?」
「何故って……戦闘中は崩れていたじゃない。オーウェンとのやり取りならともかく、私にも敬語を使わなかったでしょう?」
ソイルボアとの戦闘中、彼が私の背を撫でたことがあった。いたわるように撫でたその手と、彼の言葉は覚えている。「大丈夫、必ず仕留めるから」その飾り気のない言葉に、私は安堵したのだ。
「たしかにそんなことも……」
「間違いなくあったわよ」
記憶の棚をひっくり返しているのか、考え込む彼にさらりと告げる。
あの緊迫した状況下で言ったのだ。敬語で喋るタイプではないと言われずとも分かる。さすがに公の場では控えて欲しいが、それ以外ならどんな口調でもかまわない。この理知的な少年が、そんなミスを犯すとも思えない。
そのような内容をやんわりと伝えると、彼は驚いたような表情を浮かべた。基本的に穏やかな表情か真面目な表情しかしない彼だ。そのような反応は新鮮だった。
「はは! なるほど、君は存外冷静に周りを見ていたようだ。俺の手助けは不要だったかな?」
「いいえ、確かに助けてもらったもの。本当に、感謝しているの」
「役に立てたならなにより。それより良いのかい? 君が止めない限り、俺はこの接し方を崩す気はないけれど?」
愉快気に笑う彼の言葉に、私は小さくため息を吐く。こちらが本来の彼か、と。それで良いと言ったのは私だし、嫌だとは思わない。思うのは、よくもまあここまで演技を続けてきたものだ、という感心だ。
ルーファスと出会ったのは10歳の頃。もう二年程の付き合いだ。その間本来の性格を隠してきたのだから、その演技力は賞賛に値する。
「前言撤回はしない。良いと言ったのは私だもの。ただ、随分沢山の猫に愛されているようね?」
にっこりと微笑んでそう告げる。要は猫かぶりが上手だな、という話だ。私の言いたいことはすぐに理解できたのだろう。彼もにっこりと笑みを浮かべた。
「動物に愛されるのは、心が美しい人だと聞いたことがある。俺も存外悪い人間ではないようで安心したよ」
「よく言う……」
この男、精神は鋼でできているのだろうか。揶揄されていると気付きながらも、一切ダメージがないように見える。
これだけ精神が強いのなら、オーウェンとペアを組まされても上手くやれるはずだ。普通なら平民と貴族が同じ立場など、双方ともに嫌がるものだが。今までは、お互いが良識ある人間だからやれていると思っていた。
しかし、ここに来て新たな可能性が出てきた。そもそも、この男にとって嫌がるほどの内容でもなかったということだ。嫌な思いをさせるより余程良いが、当初は心配していただけに脱力してしまう。
「いずれにしても、不満はないわ。そのままでいてちょうだい。私にとっても都合がいいもの」
「都合がいい?」
ベンチから立ち上がり、星空を見上げる。もう随分と話し込んでしまった。明日も通常通りの予定が入っている。いい加減、休まねばなるまい。
不思議そうに首を傾げる彼に振り返り、はあ、とため息を吐く。藪をつついて蛇を出す、といったところか。自分の失言にため息をこぼしてしまう。
この先を言えば、身の危険こそないものの、精神的なダメージを負う気がしてならない。
「……ありのままでいい、あなたがそう言ったのでしょう。それなのに、あなたにだけ無理をさせるのはフェアじゃないわ。
私だって、ありのままのあなたを認めるくらいはしてみせるわよ」
私の言葉を最後に、沈黙が落ちる。
いや、何故だ。待ってくれ。私はてっきりからかわれるものだと思っていたのだ。大口叩いた私に、愉快そうな笑みとともに皮肉を飛ばすだろうと。
それなのに何だ、この沈黙は。もういっそ笑い飛ばしてくれないか、と頭の中で悲鳴を上げる。
「はは、そうか。……君は、そう言ってくれるのか」
なのに、男の反応は違った。笑い飛ばしも、からかうこともない。ただ眩しそうに、こちらを見つめている。その瞳はいつになく穏やかで、重苦しいほどの憧憬を含んでいた。
その姿に返す言葉などあるはずもなく、私は身を翻した。
「もう寝るわ、おやすみなさい」
「おや、一人で戻るのかい? 送っていくよ?」
くすりと笑いながら問いかける彼に、私はジト目で振り返る。
この庭は私の部屋からすぐ近くだ。私の部屋は教会の中でも最も奥に配置されており、外部の人間が忍び込むことはほぼ不可能。ただ部屋に戻るだけなら危険などない。
それを分かっていて、この男はそういうのだ。単に、私をからかいたいだけなのだろうが。
「結構です。あなたも早く寝てちょうだいね。それから……付き合ってくれて、ありがとう」
最後の言葉は、声が萎んだかのように小さくなってしまった。
本来の彼を見る前ならば、素直に言えた言葉なのに。この皮肉屋を前にすると何だか言いづらくなるから困る。
もごもごと言う私の声は、きっと届いていたのだろう。仕方ないな、というかのような笑顔が向けられた。
「おやすみ、我が聖女。君の夢が穏やかでありますように」
星空の下、笑う男は美しかった。
彼にからかわれた私は、すっかり忘れていた。この庭に来る前の重苦しい気持ちを。
私の重石を外してくれた彼ならば、この先も上手くやっていけるかもしれない。彼に恥じぬ聖女として、いつかは気兼ねない友人のような関係になれるといい。
部屋までの帰り道、私は一人微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます