第37話 真紅の花が見せるのは
死にたくない、それは生きとし生けるものの本能だろう。
私とて同じだ。死にたくない、生きていたい。脳裏に浮かぶのは亡き母の姿。
私を命と引き換えに産んだ母。母の命と引き換えに生まれた私。
母の分まで生き抜いてみせると誓ったのは、まだ意識が芽生えたばかりの頃だったか。
震える足を抑え付けるように、力を入れる。完全に止まるわけではないけれど、少しは震えがマシになったように思う。未だ胸の動悸はせわしなく、緊張感から喉も乾いているけれど。それでも、今ここで逃げるわけにはいかない。
「カイル、補助魔術を優先してください。私がそちらに余力を回せるかは分かりませんので」
「……聖女様?」
私の指示に、カイルが怪訝な声を出す。私が怯えていることを、彼は分かっていたのだろう。この戦闘において数に入れていなかったようだ。そんな相手から突然指示が飛ぶのだ。どうしたことかと思うのも当然だ。
「私は地面の制御だけで手いっぱいでしょうから」
足元へかがみ、地面に手のひらをつける。どこまでやれるかなど分からない。死にたくないのなら、足掻かなければ。
ソイルボアは土に潜る。この状況で再度潜られたら手に負えない。逃げてくれるのならばいいが、攻撃をしかけられたら被害が出るのは間違いない。土へ潜るという優位性を、確実に封じなくては。
「ソイルボアの動きは極力抑えます。カイル、あなたは騎士たちの援護を。できますね?」
地面へ魔力を流す。ゆっくりと、しかし確実に。ソイルボアに気づかれないよう、敵から離れたところへ優先的に魔力を流した。
蜘蛛の巣を張り巡らすかのように、少しずつ魔力の糸を巡らせる。ソイルボアが潜ろうとした際、その地点に入れないように。または、潜り込んだのち、地上に出られないように。捕捉するための糸を張るのだ。
「分かりました。こちらはお任せください」
私の瞳を見て、カイルが頷く。私の意思の固さが分かったのだろう。彼は困った子どもを見るかのように微笑んでいた。
おそらく、彼は私が逃げても許すだろう。初めての討伐なのだから怖くて当然だと、そう言ってくれる。
けれど、ここで逃げれば大切なものを失う。周囲の信頼とか、そういった類では
失うのは、私の自信だ。私の勇気だ。逃げてしまえば、今日のことを一生思い出すだろう。逃げてしまったという自責と、逃げれば助かるという安堵感。それを知ってしまえば、もう立ち上がることなどできない。
私は、勇敢な戦士でもなければ、何かに剣を捧げる騎士でもない。戦闘と聞いて武者震いができるような人間にはなれない。
だからこそ、一つずつ積み上げるしかないのだ。怖い気持ちも逃げ出したくなる足も抑えて、生き残るために策を練る。今の私にできるのは、ただそれだけだ。
「カイルさん、聖女様は私とオーウェン、デイジーでお守りします。ご安心ください」
「あぁ、三人ともよろしく頼むよ」
カイルの足元に白い魔術陣が浮かぶ。補助魔術の魔術陣だ。カイルは優秀な魔術師、彼の支援があれば十二分に戦えるだろう。
地面につけた手に意識を向ける。視線だけはソイルボアに向けたままだ。カタカタと震える手に、視線は向けない。自身の恐怖を気力で抑えつけているだけなのだ。怖がっている我が身を顧みる余裕はなかった。
「《白き鎧を纏え、ディバインプロテクト》」
カイルの声と共に、白い光が宙を舞う。騎士たちへ光が届くと、彼らの身を淡く光らせた。防御力を高める術だ。これで少しはダメージの軽減が可能だろう。
続けてカイルが術を練り上げる。発動されたのは攻撃力を上げる術。
攻守両面を補強されると、騎士たちは敵へと駆けだした。
甲高い金属音が響く。ソイルボアの表皮は固く、一筋縄ではいかないようだ。それを察したのか、騎士の一人が剣に炎を纏わせた。
迫りくる炎に、ソイルボアの動きに変化が現れる。今までは攻撃を鬱陶しそうにしていたものの、この攻撃については回避を選んだのだ。炎に弱いのか、それとも。
「《追撃せよ、ヘイル》!」
炎を避けるように身を捩らせたソイルボアへ、ルーファスが魔術を放つ。放たれたのは雹だ。挟み込むかのように放たれた術に、成すすべなく被弾した。
ソイルボアの唸るような声が聞こえる。通常攻撃には然したる反応を見せなかったが、どうやら魔術への耐性は低いらしい。明らかに嫌がるような唸り声に、一つの光明が見えた。
「魔術耐性がないようですね。騎士たちには基本的に前衛で足止めをしてもらいましょう。隙を見て、魔術で畳み掛ける方が良さそうです」
私の声に、カイルたちは頷く。騎士たちも聞こえていたのだろうか。意図を理解しているかのように、私たちの壁としてソイルボアに向かい立つ。こちらへソイルボアが向かわないよう、動きを封じてくれるようだ。
もちろん、敵とて無抵抗でやられてくれるわけではない。雹をぶつけられた苛立ちか、尾を地面に叩きつけている。これほどの巨体が出す振動は、人間にとって影響が大きい。体幹を鍛えている騎士とはいえ、何度も続けられれば姿勢が揺らぐ。
その隙を見て、ソイルボアが尾を振り上げた。一番近くにいた若い騎士は尾に弾き出され、その身を地に叩きつけられた。
「《炎よ! フレイムボム》!」
攻撃後の隙を狙い、デイジーが炎魔術を放つ。着弾と同時に小規模な爆発を起こすその術は、ソイルボアにとって不快だったようだ。黒板に爪を立てるかのような、金切り声をあげる。
その隙を見逃さず、オーウェンが前へ躍り出た。おそらく、一人欠けた騎士の穴を埋めるためだ。
「ルーファス、お前は術にリソースを回せ!」
「言われずとも」
走り際そう告げるオーウェンに、静かにルーファスが答える。二人ともに不敵な笑顔を浮かべており、恐怖の色は見られなかった。
本当に、情けないな。私は小さく心の中で呟いた。
私が子どもだと思っていた者たちは、皆進んで攻撃を仕掛けている。戦うことに、この戦闘に、無駄な思考を混ぜてはいないのだ。仮に恐怖を覚えていたとしても、それをおくびにも出さない。なのに自分は、と暗くなりそうな思考を、頭を振って切り替えた。
反省はいつでもできる。今できることをしなければ。魔力を送り込む手に力を籠める。ソイルボアの周辺に張り巡らせた魔力の糸は、私の指示一つで動かせる状態だ。集中を途切れさせることなく、三割ほどの余力で足元に魔術陣を顕現させた。
「《時の流れを緩ませよ、ターディー》!」
桜色の光がソイルボアを包む。光を浴びるとともにその動きは鈍くなった。その隙を見逃さずオーウェンは剣を振りかぶる。その剣は風を纏わせており、風の刃と共に敵へ襲い掛かった。
赤いしぶきが宙を舞う。切り落とすまではいかないものの、表皮に傷をつけることができた。騎士たちも同じ個所へと攻撃を放つ。傷を抉るようなその攻撃に、ソイルボアから悲鳴が上がった。
怒りが頂点に達したようだ。2メートル程ある上半身を、薙ぎ払うように動かす。近くにいた騎士たちは慌てて飛びのいたが、何人かは木々に叩きつけられていた。
前衛が削られ、壁に穴が開く。それを好機と見たのか、ソイルボアはにたりと牙を見せつけると、地面へ向けて頭を下ろした。
「っ、させるか!」
私はその声とともに、張り巡らせた糸へ一気に魔力を流し込む。強固に固められた土は、ソイルボアの侵入を許さない。ガツンと頭に衝撃がきたことに驚いたのか、一瞬ソイルボアの動きが止まった。
「《時は流転する、肥沃なる大地よ我が敵を捉えたまえ! アースチェイン》」
桜色の魔術陣と黄色の魔術陣が足元を照らす。土属性魔術を早めるための並列行使だ。土で強固な鎖を編み上げ、ソイルボアの身体を拘束する。材料は嫌というほど地面にあるのだ。一部壊されたとしてもすぐに補充できる。冷静に敵の状況を見て、拘束を維持することに集中しなくては。
そんな私の動きを待っていたかのように、デイジーが魔術を練り上げた。先ほどよりも大きな炎の玉を空中に五つ展開する。寸分違わず同時に放たれた火炎は、ソイルボアの身体を焦がしていく。
パキリ、鎖が一部砕ける音がした。魔術の勢いとソイルボア自身の動きのせいだろう。瞬時に鎖を編みなおし、身体に巻き付ける。壊れては編み上げるのをひたすらに繰り返した。
これほどの巨体に動かれては、また騎士たちが弾き出される可能性がある。そうなれば、魔術の行使もままならなくなるだろう。何としても、ここで抑え込むしかないのだ。
つう、と汗が流れ落ちる。極度の緊張感が身体を襲っていた。しくじるわけにはいかないという思いが、負荷をかけている。
そんな私をいたわるように、あたたかな手が背を撫でた。
「大丈夫、必ず仕留めるから」
「ルーファス……」
穏やかに微笑む彼に、身体が弛緩する。砕けたように語り掛けるその言葉は、自然と私の心に沁み込んだ。
添えられたあたたかな手が、一人ではないと教えてくれる。できる限りのことをする、それで十分なのだと背を押すかのように。
「見ていてくださいね、聖女様。あなたの努力を無駄にはしませんから」
水色の魔術陣が顕現する。穏やかに笑っていた表情は既に消え、敵を冷徹に見据えている。ひたりと敵を見る茶色い瞳が、魔術陣の光を受けて青みを帯びていた。嵐の前の静けさ、どこか不穏さを滲ませるその瞳は、荒天を迎える前の海に似ていた。
「《終雪と共に散るがいい、裁かれよ――スノースピア》」
氷雪で作り上げられた複数の槍が、ソイルボアの頭上をくるりと一周する。二つほどの槍を自身の側に残し、それ以外は敵を囲むように配置されている。ルーファスの手が振り下ろされるのに合わせて、周囲の槍は次々と下降した。
ぐちゅり、と水分を含む音が連続して鳴り響く。血の雨が降りそそぎ、地面を濡らした。
「これで最後だ」
ルーファスの声が聞こえたと同時に、あたたかな手が目元を塞いだ。剣蛸のある少年の手。私に残酷な姿を見せないようにとの配慮だろうか。その手は、痛くない程度の力が込められている。見なくていいという、彼の無言の気遣いだった。
ひゅん、と風を切る音が耳に届く。その刹那、ソイルボアの断末魔が森中に響き渡った。ビリビリとした振動とともに、最後の声が脳を揺らす。
どれほどの時間が経ったのだろうか。一分か、それとも数秒程度だったのか。長いような短いような、不思議な時間を経て、私の視界は開かれた。
ルーファスの手が離れるとともに、視界に入ったのは彼の顔だ。私の前にしゃがみ込み、心配そうにこちらを見つめている。
「ソイルボアの討伐は終わりました。ご気分の悪さはございませんか?」
「えぇ、大丈夫。あなたが守ってくれたおかげでね。
ありがとう、ルーファス。ソイルボアを倒してくれて」
私の言葉に、ルーファスは首を横に振った。じっと私を見据え、諭すように口を開いた。
「確かにトドメを差したのは私です。ですが、それを可能としたのは聖女様、あなたです」
鎖でソイルボアを抑えていなければ、前線が崩壊し魔術の行使は出来なかった。そう告げる彼に、オーウェンとデイジーが続く。
「そうですよ、聖女様。前線が崩壊してしまえば魔術を行使するだけの時間が稼げない。一発で仕留めるような魔術の使用は出来なかったでしょう」
「二人の言うとおりです。それに、お嬢様が誰よりも早くソイルボアの襲撃に気づいて守ってくださいました。それがなければ、戦うことすらできず、あっさりと戦力を減らしていたでしょう」
デイジーの言うとおり、あれを防げなければ、到底戦闘などできはしなかった。体制を立て直すことすらできず、急襲により死人すら出ていたかもしれない。
私も少しは役に立てたのだと、ほっと胸を撫でおろした。
「ありがとう、みんな。とりあえず、騎士の皆さんの様子を確認しないとね。怪我人がいるのなら治療しないと」
そう言って立ち上がろうとしたが、肩に手を置かれ制止される。置かれているのはルーファスの手だ。驚いて彼を見ると、どこか難しい顔で私を見つめている。
「怪我人はこちらへ移動させます。デイジー、騎士たちを誘導してくれないか。オーウェンは処理を」
「わかったわ」
「任せてくれ」
ルーファスの指示に、二人は身を翻す。各々の役割を果たすため、周囲に話しかける声が聞こえる。デイジーの声に導かれ、ソイルボアに弾き出されていた騎士たちがよたよたと立ち上がっていた。
「聖女様はこちらで彼らの治療をお願いします。カイルさんも手伝ってくださるでしょうから、無理はなさらないように」
「……ありがとう、ルーファス」
聖女様、と呼びかける声に視線を向ける。怪我を負った騎士たちが到着したようだ。一人、また一人と私の前に並ぶ。まるで人の壁ができたようだった。
「聖女様、治療を開始しましょうか」
カイルは穏やかに笑い、私に告げる。ルーファスがそっと腰を上げると、そこにカイルが収まった。
「はい、カイル。皆さん、痛いところがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
白い光を手に纏い、騎士たちに微笑みかける。そんな私に、騎士たちは嬉しそうに感謝の言葉を述べてくれた。
一人ずつ怪我を治療する中、ふとルーファスへ視線を送る。私が座っているため、見えたのは彼の頭くらいだ。
オーウェンと向き合い話しているその顔は、どこまでも冷静だ。足元にあるものが何なのか、一切感じさせない表情をしている。泰然たる彼の姿は、違和感一つなかった。無理に気を奮い立たせているのでもなければ、恐怖を隠しているような素振りもない。
そっと瞼を下ろし、息を吐く。初めての戦い。その光景を脳裏に思い浮かべた。
瞼の裏にはまだ、真紅の花が咲いている。
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