第30話 影が映し出したもの


 「トラヴィス……? あなた、どうして……」


 トラヴィスと呼ばれた男は、大きなため息を吐く。帽子を外してガシガシと頭をかく手は、何だか投げやりな姿だった。


 「どうして、は俺の台詞なんですけどね……」


 なぜ供も付けずに外を出歩いているのかと苦言を口にするトラヴィスに、シアは唇を噛んだ。

 バレたら怒られるということは理解していたのだろう。買い物のときに予想したとおり、彼女は高位の家の生まれのようだ。


 「トラヴィス、あなた今日は非番でしょう? だというのに、なぜ私の後をつけていたのよ」

 「……あなたが一人で外出さえしなければ、俺は今頃非番を楽しんでいましたよ」


 皮肉気に笑って言うトラヴィスに、シアの目が鋭くなる。

 そんなシアを見て、彼は再度大きなため息を吐くと、緑色の瞳をすっと細めた。


 「もしそこのお嬢さん方が助けてくれなければ、大変な目にあっていたことをわかっているのか? 今回はたまたま運が良かっただけだ。次はこうはいかないだろう。


 ……自分の身になにかあれば、大変な騒ぎになる身分だということ、もう少し理解してもらいたいんですがね」


 そう告げる彼の声は低く、ナイフのような鋭さをしていた。


 夕暮れの風が彼の髪を攫う。ひらりとなびく緑色の髪は、光の加減でどこか青っぽくも見えた。


 「……大変な騒ぎ? 何を言っているのよ。私がいなくなって誰か心配するとでも? 面倒な奴がいなくなってせいせいした、それが本音でしょう」


 トラヴィスを睨み付けるシアの瞳は、怒りに燃えていた。

 怒鳴らないのは彼女の冷静さが成すものか。今にも飛び出しそうな怒りを抑えつけ、淡々と言葉を紡ぐ彼女の忍耐力には目を見張るものがある。


 ずっとこうして、怒りを抑えながら生きてきたのだろうか。言いたいことも言えず、ただ口を塞ぎ耐えてきたのか。

 それは12、3歳の子どもにとってどれほどの苦痛だっただろう。

 それでも沈黙を選ぶしかなかった事情があるのだろう。私はそれを知らない。彼女がどこの家の者かも知らない。


 知っているのはただ、今日一日の彼女の姿だけだ。


 「あの人たちだって、私のことなんて見向きもしないわ。必要だったのはこんな娘じゃなかったんですもの。


 私だって、望んでこの姿なわけではない。髪の色も目の色も、顔立ちすらも! 自分で選ぶことなんてできない。地味だなんて言われても、私が選んだわけではないのに!


 どうして私ばかりが責められなければならないの!」

 

 その言葉には、万感の思いが込められていた。誰にも言えず、ずっと隠し続けた彼女の本音だろう。


 外見など、自分で思いどおりに選ぶことはできない。化粧で見た目を整えることはできても、生まれ持ったもの自体を変えることはできないのだ。

 髪を染めるとか化粧で美しくみせるとか、そういう方法では意味がない。


 両親の望む姿で生まれなかったこと、その一点が彼女の苦しみの始まりだったのだから。


 「望まれたように生まれることができなかったのなら、をすればいいと思った。……けれど、それすらもない。


 あの人たちは、私のことなど見てもいない。私が何をしても、どんな成果を上げても言葉一つなかった。

 あの人たちにとって私は、そもそも娘とすら思われていなかったのでしょうね。


 生まれ損なった私に、価値なんてなかった。私にかける言葉一つ持たないのに、私への望みなんてあるはずもなかった。

 望まれる生き方をする、そのスタートラインにすら、立たせてもらえなかったのよ」


 過度な期待が子どもを潰す、そういうケースもあるだろう。けれど、何一つ目をかけられないことが子どもを押し潰すことだってある。


 彼女の両親はそれが理解できないのだろうか。それとも理解していて放っているのか。どちらだとしても、まともな親とは呼べないだろう。


 「どれだけいい結果を出そうと、褒められることはない。どれだけ愚かな真似をしようとも、怒られることはないでしょう。

 今日のことがバレたとして、あの人たちが何か言うと思う? ねぇ、トラヴィス」


 冷えた風が通り過ぎる。太陽は段々と沈んでいき、暮色が迫っていた。

 周囲が薄暗くなっていく様は、彼女のこれまでを表しているかのようだ。

 何度も両親を思い、努力を続けた彼女。それが報われることはなく、彼女の希望は少しずつ闇に溶け出していったのだろう。


 彼女の問いかけに、トラヴィスが答えることはなかった。瞼を下ろし、眉を寄せる姿は苦悶に満ちている。

 きっと彼女の問いかけに対する答えは持っているのだろう。


 しかし、それが望ましい内容でないために返答ができないのだ。それを証明するかのように、彼は反論の声一つ上げなかった。


 「普通はね、間違えたことを子どもがしたら怒るのですって。危ないから、してはいけないことだから、子どものために親は怒るのよ。


 けれど、あの人たちはそんなことしないわ。仮に今日のことをあなたが報告したとしても、何一つ行動を起こしたりしない。

 せいぜいが、あなたに告げるくらいではないの? 面倒なことにならぬよう見張っておけとね」


 ちくちくと突き刺さる言葉は棘のようだ。両親へ抱く思いは、いつしか形を変えてしまったのだろう。

 少女の口から出るには、酷く痛ましい言葉だ。


 トラヴィスは一度口を開いたが、声になることはなかった。何かを探すかのように視線をさ迷わせ、そっと目を伏せる。

 シアの望む言葉を返すことができない、それが彼の口に蓋をしたようだ。


 場に静寂が満ちる。聞こえるのは、時折吹く風の音だけだ。私たちを通り過ぎるように吹く夏風は、ほんのりと日中の暑さを残していた。


 いっそのこと冷たい風であればよかったのに。

 温かさを残す風は、シアを励ますだろうか。それとも、風のように手の届かない願いであると叩きつけるのだろうか。


 「……シアお姉さま」


 できることならば、前者であるといい。そんなことを願いながら、私は口を開くのだ。


 「シアお姉さま、私はお姉さまのことを何も知りません。どのようなお家に生まれたのか、今までどのような道を歩まれたのか、何一つ知りません。

 けれど、今日一日で分かったことがあります」

 「シャーリー……?」


 きっと、アクランド子爵家など比べるべくもないお家柄なのだろう。そのような生まれの方が持つ苦しみが、私に真実理解できるとは思わない。


 けれど、少女一人で抱えるには大きすぎる重荷を、ただ見過ごすこともできないのだ。

 肩代わりはできないけれど、傍で支えることもできないけれど、それでも。


 「シアお姉さまが、とても理知的な方であること。機転に富まれ、場を見る力に優れていらっしゃること。可愛らしいものよりも、美しいものを好まれること。


 そして、お姉さまを心配して休日を潰してしまうような人が、傍に付いていてくださることです」


 私の言葉に、シアはトラヴィスへ視線を向ける。

 その視線に気まずそうな顔をしたトラヴィスは、私へ疑問を投げかけた。


 「そのことですけど……お嬢さん、何で俺がいるって気づいたんですか? 俺とは今日が初対面でしょう?」

 「えぇ、初めてお会いしました。本日三回ほど、お見かけいたしましたが」


 微笑みながらそう答える私に、彼はポカンと口を開ける。その姿を見て、苦笑交じりに言葉を続けた。


 「最初はシアお姉さまが男たちに絡まれているときでした。周りには人だかりがありましたが、少し離れたところで状況を見定めているあなたがいました」


 他の人たちが心配げに見ている中、静かに見つめる男に気がついた。気づいたのは、その緑色の瞳に心配そうな色が見当たらなかったからかもしれない。

 冷静に場を見定める男に、そのときは正義感が強いのかと思っていた。


 「次にあなたに気づいたのは、屋台市場です。中央広場に近いからか、人で賑わっていました。人ごみを縫うように中心部に向かいましたが、その際あなたの前を通り過ぎました」


 一度印象に残っていたからか、その姿を認識するのは早かった。

 街中で同じ人を見つければ、先ほどもいたな、と思うことくらいはある。これは前世でも同じだ。洋服でもなんでも、何かしら記憶に残る人ならば、数時間程度は覚えているものだ。

 彼の前を通り過ぎる際に思ったのは、まさにそれだった。


 「そして最後に、この森林公園内です。夕暮れ時という時間だからか、子どもは一切いませんでした。大人だって数える程度です。

 その中に何度か見た姿があれば、何かしらあるのだろうと気づきます。三回も遭遇するなど、そうあることではありませんから」


 私の言葉に、トラヴィスはがくりと肩を落とした。

 護衛としては、子どもに気づかれるなど屈辱だっただろうか。それは申し訳ないと思うけれど、聞いてきたのはそちらなので諦めてほしい。


 「そういう……というか、最初から印象に残っちゃったのか……」


 失敗した、と落ち込む彼に、シアは少し気遣うような瞳を向ける。

 口にはしていないものの、それなりの関係を築いているのだろう。彼を心配する程度の間柄ではあるようだ。


 「ねぇ、シアお姉さま。お姉さまにとってご両親は複雑な相手なのかもしれません。けれど、彼はどうでしょうか。

 休みを潰してまでお姉さまを守ろうとする。そんな彼では、頼るに値しないのでしょうか?」

 「……それは……」

 「確かに、立場は違うでしょう。同じものを同じ目線で見ることはできないかもしれません。

 けれど、トラヴィスさんならば、お姉さまに理不尽な態度は取らないでしょう。お姉さまを不要とすることもないはずです。


 だって、叱ってくれたじゃないですか。一人で家を飛び出したあなたのことを」


 本来であれば、わざわざ隠れて護衛する必要なんてなかった。気づいた時点で家に連れ戻してしまえば、仕事としてはそれで十分だったのに。


 「いけないことをしていると知りながら、それでもお姉さまの邪魔はしていませんでした。お姉さまが安全に街を楽しめるよう、陰ながらついてきたのでしょう。


 護衛という職務を果たす為ならば、さっさと連れて帰ってしまえば良かったのです。

 それでも、ここまで黙っていてくれたのはお姉さまに楽しんでほしかったからではありませんか?


  その上で、間違いを犯したあなたを、きちんと叱ったのです。それは、お姉さまを思っていなければできることではありません」


 叱るという行為は難しいものだ。相手にきちんと伝えたい、その気持ちがなければ成立しない。


 トラヴィスが彼女の家に仕える者である以上、彼女を叱ることはリスクが伴う。主人の機嫌を損ねる可能性だってあるのだから。


 それでも彼は、顔を合わせてすぐに苦言を呈した。それだけのことをした彼女に、きちんと理解してほしかったからだろう。


 「……トラヴィス、あなた……」

 「……はぁ。こういうのは、柄じゃないんですけどね」


 そうこぼして、トラヴィスはシアの前にかがむ。彼女に目を合わせると、手を伸ばし、指で額を強く弾いた。


 「いった……っ!」

 「反省しろ、この不良娘。どれだけ心配かけたと思ってんだ。

 頼むから、自分から危険に向かっていくのはやめてくれ。

 ちゃんと……大人に守らせてくださいよ」


 綺麗に決まったデコピンに、シアは額を抑え悶絶する。その姿にトラヴィスは含み笑いを浮かべているが、彼女を見つめる瞳は思いやりに溢れていた。


 シアもトラヴィスの気持ちに気づいたのだろう。手を上げたことに文句は言わず、小さく謝罪をこぼした。




 日はすっかりと暮れ、空には弓張月が浮かんでいた。

 宵闇を照らす光は、穏やかに地上へ降り注ぐ。

 地面に浮かぶ月影は、親子のような二人の姿を象っていた。

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