第25話 交渉の行く先は
「私は、教会にのみ身を寄せることはできません。
私がすべきことは、教会の中だけにあるわけではありませんから」
私の言葉を最後に、室内に沈黙が響く。
エドワーズ神官は、私と大神官を見比べて頭を抱えていた。私たちが口を開かないためどうしたらいいのか分からないようだ。その表情には焦りと困惑が見て取れた。
そんな彼を見ていられなかったのか、それとも答えが決まったのか。伏せていた目を上げると、大神官はゆっくりと口を開いた。
「年を取るとはこういう事かと、身につまされますな……」
大神官はカップを手に取り、口元に寄せる。
既に冷めているだろうそれに、メイドが慌てて新しいものを給仕しようとする。
しかし、彼は笑顔で首を横に振った。冷めた紅茶を一口飲み、冷えた紅茶というのもそう悪くないものだと微笑んだ。
「エドワーズほどの年齢から、私は長年神に仕えてきました。
その間、聖女様がお生まれになったことはございません。
私たち神官は、神の教えと伝統にのみ基づき、日々を過ごしておりました」
大神官の瞳は、思い出を紐解くように遠くへ思いを馳せていた。郷愁に浸るその瞳は、輝かしくもありどこか寂しげでもあるように思う。
「だからでしょうか。新しいことを行うという発想自体がなかった。古き良き伝統を守ること。それ自体は悪いことではないと考えています。
けれど、時が過ぎれば環境も変わる。孤児院の慰問をはじめ、従来通りの行いを続けてきましたが……そのせいで、救いの手が届かなかった人々もいたでしょう。
私たち教会は、その事実に目を向けることができていなかったのかもしれません」
聖女がいない環境では、新しい価値観をもたらす者があまりいないのだろうか。
神官として生きるということは、神に一生を捧げるということ。当然、外部との接触は限られたものになるだろう。
教会にも騎士団はあるが、役目が違うからか、そう多くの言葉を交わす関係性ではないようだ。
そのような環境下では、既存の価値観以外に触れる、その機会を失っていても可笑しくはない。
「古き良き伝統を守ること。ハリソン大神官、それは素晴らしいことであると思います。新しい価値観のみでは、取りこぼされてしまうものもあるでしょう。
変化とは、万人にとっていいものとは限りません。
人は千差万別。誰かにとっていい事が、その他の人にとっていいことであるという保証はないのですから」
私の言葉に、大神官は深く頷く。
長い年月を生きている彼だ。私が言わずとも分かっていることだろう。私が言葉をかけたのは、それを思い出してほしかっただけだ。
かつての世界でも、新しい知識が良いものであればあるほど、古くからの教えを蔑ろにすることがあった。私は、教会にそうなってほしいわけではないのだ。
古い伝統を守りながら、それでも必要に応じて新しい価値観を取り入れる。それこそが理想だと思う。
「故きを温ね新しきを知る、という言葉を聞いたことがあります。伝統や先人の知恵など、かつての事柄を通して新しい意味や価値を再発見することです。
教会の今までの行いは、間違いなく意味のあるものでした。その上でより良いものをと望まれるのならば、まず原点に立ち返ってみてはいかがでしょう」
「原点、ですかな?」
大神官の問いにこくりと頷く。
本当に、子どもでいられる時間は一瞬だったな、と脳の片隅で私が笑う。悲しむようで、どこか仕方ないと言うようなその気持ちに蓋をして、私は言葉を続けた。
「そう、原点です。なぜそのような取り組みをすることになったのか、その目的を思い出すのです。そうすることで見えてくるものもあるでしょう。
その行為が、目的を達するための唯一の方法なのか。それとも、他の方法でも達成することができるのか。今の時代、今の人々が求めるものに合わせるにはどうあるべきなのか。
その判断を下すには、原点に立ち返ることが必要なのではありませんか?」
教会にとっては今がその時期なのではないか、そう告げる私に大神官は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、聖女様。あなた様のおっしゃるとおりでしょう。
私は、教会の行いに誇りを持つことはあっても、それ以上の改善を求めたことはなかった。人々が喜ぶ、目に見える姿に満足してしまったのかもしれません。
それは悪いことではないのでしょうが、もっとやれることもあったのではと今となっては思ってしまいますな」
恥じ入るように告げる大神官に、私は静かに首を横へ振った。
恥じることは何もないだろう。余力があり、それでも何も行動しない者だっているのが世の中だ。
行動しない者を責める気持ちはないが、行動し続けるその姿勢が尊いものであるのは確かだ。
ましてや、素晴らしい振る舞いを続けてなお、より良くしようと考える彼に誰が文句を言えるというのか。
「教会のあり方は素晴らしいことです。もちろん、これから一層素晴らしいものにすることもできるでしょう。私としても、これからの教会が今より素晴らしいものになるのであれば、それほど嬉しいことはありません。
それと同時に、教会だからこそできない範囲というものもあるはずです。例えば、政治に打って出ることはなさらないでしょう?」
大神官は笑って頷く。王統については口を出すものの、その他の政治的判断に教会が口を出す気はないようだ。厳密な政教分離は成し得ないが、密接な関係を気づいていないのであれば十分だろう。
「もちろんです。我々は神の教えのもとに生きる身。ときには人たる王の導きと神の教えが反することもあるでしょう。そして、王の治世からこぼれ落ちてしまう民がいるのもまた事実。
私たちは、そういった人々に手を差し伸べることも役目の一つであると思っています。
疲れ果てた人々が安らぎを得られる場所。もう一度歩き出すための宿り木。それこそが教会です。政治とも俗世とも一定の距離を置くべきだと思っております。
……聖女様、だからこそあなたは、教会のみに身を置くことを望まないのですね?」
そう問いかける瞳は、静かな海のように凪いでいた。この問答の中で、大神官は私の意図に気づいたのだろう。
民がより豊かに暮らせる未来を作ること、それを叶えるには教会だけではダメなのだ。雇用を生み、新しい価値観を提供できる場所。会社こそが必要不可欠である。
そして、本来私が引き出したかった答えについても、大神官は既に気づいているようだ。続く彼の言葉がそれを証明していた。
「聖女様の視野は我々聖職者より広いもののようです。人を救う、その行い一つとってもこうも違うのですから。
優れた視野を持つあなたには、それに相応しい場も必要でしょう。
――それであれば仕方ありますまい。聖女様の意思を汲みましょう」
「大神官っ!? 何をおっしゃっているのです!? 聖女様がその力に目覚められたというのに、教会に身を置かないなどと!」
エドワーズ神官の言葉を、大神官は片手を上げることで遮った。
「申し訳ございません、聖女様。エドワーズはまだ若く、こういったやり取りは苦手なようで」
「お気になさらないでください、大神官。まっすぐな良い方だと思います。
これから教会で過ごす日々に不安がありましたが、彼のような気のいい方がいるのなら安心です」
「え? えぇ? 聖女様??」
苦笑する私たちに、何が何やらと困っているエドワーズ神官。教会に行くのは嫌だったのでは!? と混乱している彼に、微笑ましさから笑みがこぼれた。
「はい。教会のみに身を置くのは困りますね。でも、そうでないのなら話は別ですよ?」
「え?」
どういうことだ? という風に私をみる彼に、大神官は困った子どもを見るように笑った。
「エドワーズ、つまり聖女様は教会に来てくださるということだ。
その言葉のあとに、大神官は私へ視線を向ける。その瞳はいたずらに笑っており、少年のように輝いている。どうやらお茶目なところがある方らしい。
少年のような笑みを浮かべる大神官に、こちらもにっこりと笑みを深めた。
「教会にずっと身を置くことはできませんが、定期的にアクランド子爵邸へ帰れるのならば問題ありません。こちらの事業に差し支えない範囲のやり取りも認めていただきたく存じます。
そもそも、私は未成年です。親元から離されたままは嫌ですしね」
そう言っていたずらに笑った私を見て、エドワーズ神官は唖然とする。
大神官はというと、私の言葉に驚くエドワーズ神官が面白かったのだろう。声を隠すことなく、笑っていた。
「え? えぇ!? そういうことですか!? というより、大神官はお気づきだったんですか!? 僕だけ何も気づかず焦っていたと!?
な、な、何で言ってくれないのですかぁーー!!」
隣に座る大神官に、大声でエドワーズ神官が詰め寄る。大神官は一層笑いを深め、もう止まらなくなっていた。思うとおりに揶揄うことができたからか、満足気な笑い声が室内に響き渡る。
水面下でのやり取りが分からずとも、自分が大神官に揶揄われていたことは分かったのだろう。エドワーズ神官の顔は赤らみ、目元には涙が浮かんでいた。
「何を言っているのやら。聖女様はおっしゃっていたではないか。教会
「確かにおっしゃっていましたが! ……あれ……?」
どうやら彼も気づいたようだ。
エドワーズ神官がゆっくりとこちらへ視線を向ける。その顔はなんとも複雑そうな表情をしている。彼は表情を取り繕うということが苦手なようだ。
「はい。言ったでしょう?教会
にっこりと笑みを浮かべて告げると、彼は口をあんぐりと開いた。
そしてプルプルと震え出したかと思うと、がっくりと肩を落とし、両手で顔を覆った。
「もう嫌だ……いつもこうやって僕は揶揄われるんだ……。大神官だけでも分かりづらくて大変なのに、聖女様まで……」
そう言っていじけだす彼に、父が同情の目を向けている。
父と叔父のやり取りを振り返ると、叔父に遊ばれている姿が思い浮かぶ。父もあれこれと言い返してみるのだが、最後は決まって叔父に言いくるめられていた。
そんな自分の姿を、エドワーズ神官を通して思い出しているのかもしれない。
「ふむ。そんなに嫌なら別の者に担当者を変えるか? 聖女様のお側に付きたい者はたくさんいるだろうし、すぐに変更できるが」
「僕が嫌がると分かっていておっしゃっていますよね!? 絶対嫌です! 絶対僕が聖女様のお側付になりますから!」
言い募る彼に、大神官は面白そうに笑う。完全に遊ばれていると分かったのだろう、彼は疲れたようにため息を吐いた。
数拍置いて上げられた彼の顔に、疲労感や不満気な雰囲気はなかった。気持ちを切り替えたのだろう、私へ視線を送る彼の顔は真剣そのものだ。
日頃から相当大神官に遊ばれているのだろうか。鍛え上げられた精神は、持ち直すのが早いようだ。実に頼もしいことである。
「改めて自己紹介を。
僕はカイン・エドワーズ。アシュベルク正教会の下級神官です。
今後聖女様のお側に付くことになりました。誠心誠意お仕えいたしますので、よろしくお願いいたします」
先ほどまでの情けない表情から一転、真剣な面持ちで告げる彼に微笑み返す。こちらからも改めて自己紹介をすると、緊張がほぐれたのか彼も穏やかに笑った。
「下級神官ではありますが、このエドワーズは優秀です。きっと聖女様のお役に立つことでしょう。どうかよろしくお願いいたします」
大神官はそう言ってエドワーズの背中を軽く叩く。褒められたエドワーズは照れくさそうに笑っていた。
何はともあれ、交渉は成功だ。
始めにアクランド子爵邸に残りたいと言ったことが功を奏したのだろう。最初にあちらにとって困る願いを告げることで、本音がそこにあると思わせる。
次の段で最初の願いから少し緩和したものを提示できれば、そちらに食いつくだろうとは思っていた。
結局のところ、教会に行かないという願いは叶わないと分かっていた。教会としては、聖女が教会と関わらずに生きていくというのは認められないだろう。
私から見れば、時属性魔術の勉強ができるという点で教会に行く利益はあった。教会に行くだけであれば、そのこと自体に不満などなかったのだ。
だが、教会に缶詰めになるのだけは許容できなかった。
一番の理想は、教会とアクランド子爵邸を行き来できること。時属性魔術も習え、事業にも手を伸ばせる環境が欲しかった。
その環境さえ作れれば、家族と会えなくなる心配もなくなる。何としてもこの形で合意したかったのだ。
そのため、話の運び方は慎重に考えた。また、より確実性を高めるために、ヨーグルトで事業の素晴らしさをアピールした。
教会にとって好意的かつ画期的に受け止められる事業ならば、それを邪魔することはないだろうと踏んでいたのだ。
結果としてアクランド子爵邸に帰ることのみでなく、事業への関わりを止められることもなかった。理想通りの条件を飲んでもらえたといえる。
会社へ向けられる好感度の高さは、商品開発において頭を悩ませる種になったものの、私を救ってくれる武器でもあったのだ。
希望どおりの結果を得られ満足気に頷く私に、父はほっとしたように息を吐いた。
実のところ、一番緊張していたのは父だ。愛娘が教会に取られるのではと、ここ最近不安に駆られていたのだ。そのせいか、目の下のクマがどことなく濃くなっているように見える。
時折、シャーリーがいなくなるのは嫌だと泣く父を、カーターがあしらっているのを見かけた。……そこは慰めてやれよ、と思ったのは言うまでもない。
もう大丈夫だと笑いかけると、父は花がほころぶような笑顔を見せてくれた。
教会側と今後のスケジュールについて相談している頃、とある屋敷では小さな騒動が起きていた。
その騒動は、一人の少女の今後を大きく左右することになる。
何も知らない私には、そんなこと知る由もなかったのだが。
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