第29話 これも狂気の片鱗(3)
「これ、何本に見える?」
私は右手を上げて、彼の前に指を二本、人差し指と中指を立ててみせた。
「二本」
「じゃあこれは?」
「三本」
「ちゃんと見えてはいるようね」
前に医者に習った意識の確かめ方なんだけど、とりあえず正解してる。
ということは大丈夫なんだろうか? いえ、まだ他にも確かめた方が……。
そんなふうに迷っていると、彼がおもむろに片手を伸ばしてきて、三本の形にしたままだった私の指を包むように握った。
「な、なに」
反射的に手を引きかけ、すぐに思いとどまる。あからさまに嫌がる素振りを見せるのは悪いと思ったからだ。
だけど気付いてしまったのか、アンリはすぐに手を離して腕を下ろした。
私も手を彼の横に置きなおす。
……気まずい。
さらには、今の状況がまるで彼を押し倒したかのような体勢だと気付いた。
どうしよう、体を起こさなきゃ……でもここで離れたら、余計に拒否してる感じにならない?
内心悶々とする私を、彼がじっと見つめてくる。
な、なに? 綺麗な顔が間近にあるのを意識して、恥ずかしくなってくるんですけど。
「もう逃げないの? 今なら簡単だよ」
「ここで逃げたって塔の扉には鍵がかかってるもの」
「君なら開けられるだろう? ヘアピンで。今すぐ階段を駆け下りれば、それくらいの時間は稼げる」
「そ、そうかもしれないけど! でもさすがにけが人を放ってはいけないわ。というかあなた、結構酷く背中を打ってるんじゃない?」
ここで私が逃げたとして、すぐに起き上がって追いかけられない程度には。
「少し休めば治るよ。……それまでずっとこうして、君に押し倒されていてもいいけど」
「お、押し倒してない!」
慌てて私は体を起こした。
彼もゆっくりと半身を起こす。
私が逃げなかったから、二人で床に並んで座ることになった。なにか話したいけど、いい話題が浮かばない。
「ほこりがついてる」
そういって私の髪の毛を軽く彼が撫でた。
「こ、こんなところを掃除する人は少ないから」
塔の屋上。頭上には屋根からぶら下がる鐘があった。でも鐘の中に設置されているはずの分銅は取り外されている。鳴らないようにしてあるみたいだ。
アンリは、気になるのか何度か私の髪の毛の先を触った。微妙な刺激がくすぐったい。
「さっき、ちょうど君の後ろから光がさして、きらきらして綺麗なものに見えたんだ」
「ほこりで? それで神様なんて変なことを言ったのね。心配したんだから。頭を打ったせいじゃないかって」
「ふふっ。変なことか。そうだよね」
彼は少し遠いところを見る。
「君は最初にこの塔で出会ったときもそう叫んでいた。神様と呼ばれる僕だって、ただの人間だろうって」
「あれはただの八つ当たりで……誰も聞いていないと思ったから」
「あんなことを言う人は初めてで、とても興味が湧いたんだ」
ああ、そうか。あれが、彼が最初から私に興味津々で親切だった理由だったんだ。何をそんなに気に入られたのかとずっと不思議だった。
「しかも、とても素敵な歌を歌っていたしね」
「そこはありがとう。私もあなたの演奏とか……、渡してくれる楽譜も好きよ」
あの手書きの、無名だという作曲家の歌の数々。あれはきっと――。
「ねえ、本当に逃げないの?」
不意に彼が冷たい声で聞いた。
私は、はっとして彼を見る。
「逃げなければ、僕はまた君を怖がらせるだろう。君の指摘した通りだ、僕は言うほど自分の行為を悪いと思っていない。きっと思う力がないんだ」
「そこは認めるんだ……」
「僕は『普通』じゃない」
無表情で彼は言いきった。
「学園の、神様だものね……?」
「ここだけじゃない。僕の周りの者はみんな、僕を自分達とは違う生き物としてしか見ないよ」
「でも、レベッカ先輩やトウリ先輩なんかは違うでしょう? 家同士で交流があって、前からの友人だっていってたし……」
「友人……そうだね。でも友人であることと、僕を違う生き物として見ることは両立する」
「だけどとても仲良さそうにして」
「家格に差があるということも、あの二人はよく理解し意識している」
そういうもの?
ううん、クリフ家であるから特にそうなのかな。
身分の高い人の付き合いって、想像していたより厳しい……。あまりに遠い世界すぎて、逆に私がレベッカ先輩やトウリ先輩ほど意識できていないんだよね。その分、理解も難しい。
「あ、でも家族なら……」
魔法が使えるクリフ家の一員だから余計に特別視される。でも両親や兄弟なら、少なくとも“家”の部分は関係ない。
「僕を『神様』だなんて最初に言い出したのは家族だ」
アンリの目が冷たい光を帯びる。
「正確には父。彼は『光魔法』を持つ息子が生まれて、どこかおかしくなったんだろう」
たしか……私の薄い知識だと、クリフ家当主はアンリの母親のほうだったはず。父親のほうは、国への貢献でもらえる一代限りの爵位を与えられているんだっけ。クリスティーヌ達が慈善事業に積極的な方だと話していた気がする。特に子供の教育に関する活動に力を入れているって……。
「例えば、幼いころから僕は何ごとにも心が動きにくい子供だった。実はね、昔はとても困った目で見られてたんだ……扱いにくい子どもだって。だけど今はもう父は、いや、誰もそんなこと覚えていないだろう」
「みんな変わってしまったの?」
「そう。僕が魔法を使えるとわかったからだ。何を考えているかわからないのは、人ならざるものである証。喜ばしいことに変わったんだよ」
アンリは、くすりと笑った。
「他の家族も、みんな父に倣った。僕はただいるだけでいい。それだけで彼らは喜び、敬い、一歩下がって僕の機嫌を窺う」
「それは……」
「悲しそうな顔をしないで。君が気にすることじゃない。君と同じ言い方をすれば、これが僕の運命だ」
片膝を立て、そこに腕と頭を預けてこちらを流し見るアンリはただただ美しく笑っていた。全然悲壮感なんてない。そう見えてしまう。
私はそれが哀しいと思った。
だから黙って彼を見つめた。何と声をかければいいかわからなかったから。
アンリは私の頬をすっと撫でた。そしてそのまま床に下ろしていた私の手を上から包み込むように握る。……逃がさないというかのように。
怖い。でも――。
ああ、そうか。そうなのね、私……。
「普通じゃないこんな僕に気に入られて残念だったね。こんな話までして、余計に手放してあげられないよ。君は運命通り、狂気に染まった相手と切れない縁を結んだんだ。ごめんね――」
「待ってよ。謝らないでって言ったじゃない」
「僕が本当は悪いと思っていないから? でも一般的に謝るべきことだろうとは予想がつくよ」
違う……いえ、それも一つにはあるけど、それだけじゃない。
私はむっとして反論する。
「あのねえ。私だって、だいぶ前からわかってたの。あなたの傍にいるのはどう見てもよくないことだって。きっとあなたが自覚する前から」
今こうしてここにいるのは、私の選択だ。彼から逃げることを私が選ばなかったから、こうなっちゃっている。
だから、勝手に一人だけですべてを悟って諦めたみたいに語らないで。
「私だって変な運命のもとで色々と見てきたんだから、危険には敏感なの。あなたと一緒にいて、本来なら距離を置くと判断すべき要素がたくさん目についたわ。というかあなたがもう本当に危険人物だし!」
「……だからさすがに逃げたくなった?」
「違う、そんなこと言ってないでしょ! ……嬉しいと思うなんて、私、本当におかしいのよ!!」
やけになって叫ぶと、アンリが目をぱちくりさせた。
「嬉しい……?」
「全部じゃない。怖いとも思ってる」
そう、両方の気持ちがある。
私だって信じられないけど。
逃げ道を塞がれるのを本能的に危険だって感じる私がいる。そして一方で、
これまでずっと、何かから逃げるように過ごしてきた。誰かと深く関わってはだめ。その前にどこかにいかなくては。誰かを特別に想うことも、想われることもどちらも危険で避けるべきこと――。
でも彼は、そういう考えがすっかり染みついた私を引き止めてくる。きっと全力で。
そうしたら、私はいつもみたいにどこかに去らなくても済む。だって彼が逃がしてくれないから。彼の傍にいられる。
どうやら私は、彼が私を逃がさないでくれるのが嬉しい……ようだった。
「君は僕から離れたいのかと」
「トウリ先輩に言ったこと? さっきは状況的にああ言わざるを得なかっただけで……わぷっ!」
最後まで言う前に彼に抱きしめられた。
「君の隣にいていいんだね」
「わ、私だって……」
彼の肩に顔を埋めながら、私は小声で告げる。
「あなたの隣にいたいのよ……」
抱きしめられる力が逃がさないというように強まる。ああ、今の状態は警戒すべき状況だって、ちゃんと頭の片隅では相変わらず警鐘が鳴っているのに……。
けど、彼の腕の中はとても安心できた。いつもどこにも根をはらずにふらふらせざるを得ない私を絶対に繋ぎとめてくれる場所のようで。
これからも、私は変な運命のせいでやっぱりふらふらし続けると思う。でも彼の元だけは、変わらない私の居場所になってくれるのかもしれない。
「リサ……」
「アンリ……」
不思議だった。名前を呼び合っただけで嬉しい気持ちが湧いてくる。
「ふふ、このままこの塔に閉じ込めたいくらいだな」
…………。
……………………。
………………………………。
「それはいや」
私はなんとか彼から少し体を離す。
そしてはっきりと告げた。
「その場合は逃げるわ」
逃がさないでいてほしいといっても、さすがに限度や好みというものがあります!
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