第7話 あの、私のネクタイは……
放課後の鐘塔で、まさかな体験をした次の日。
「はぁ……」
教室の、黒板を見下ろすように段々に設置された机の一番後ろに座った私はため息を吐く。
今日もいつも通りの授業、いつも通りの日常。
「どうしたの、リサ。具合でも悪い?」
隣に座るシーラが尋ねてくる。
「ううん、違う。そうじゃなくて……」
そこから先が続かない。
「タイがないね、忘れちゃったんだ? 珍しい」
前の席にいたケイが私の胸元を見て言う。そこには、あるはずのいつものネクタイがなかった。
「うん。ちょっとぼんやりしてて……」
嘘だ。
私はポケットの中に手を入れる。そこには、深い青色の高級そうな生地に、同色の青色で細かな刺繡の施されたネクタイが入っている。
何度触ってもそこにある。変わらない。
この学園で唯一、生徒会長だけがつけることのできる特別なネクタイ。
まだ信じられなくて、本当にこれが刺繍の入った青いタイなのか確認したい衝動に駆られる。けど、人前で出して本当に本物だったらそれはそれでまずい。
昨日、アンリ様は私の歌のためにヴァイオリンで即興の伴奏をつけてくれた。
正直に言って、すごく楽しかった。
私の歌に本当にぴったり合うような音を奏でてくれて、歌を聞かせたというか、二人でひとつの綺麗な曲を演奏しきったのだという少し不思議な達成感。歌い終わったとき、これ一回きりって残念だなって思ったら、アンリ様も同じだったみたいだ。
『もう一度同じ曲を? それとも、他の歌にする?』
当然の顔でそんなこと言ってくれるから、つい私も『もう一回同じ曲を』なんて答えてしまったのだ。
そして結局、陽が傾くまで続いてしまった。
アンリ様は優しくて親切だったな。あときっと、音楽が好き。なんとなくそう感じる。だからきっとあんな風に楽しい時間になったんだ。
……けど。
さすがに解散ということになり、鐘塔を降りて入り口で別々の方向に進もうと最後に挨拶を交わしたときの出来事は、あまりに想定外過ぎてよくわからない。
『ああ、待って』
『どうかしました?』
『明日からはこっちのタイにしてくれる?』
急にそんなことを言われたかと思うと、アンリ様の綺麗な指先が私の首元へ。そして驚いて固まる私の制服のネクタイをしゅるりと外した彼は、代わりに自分のつけていたものを私の首元に結んだのだ。
『え? あの』
『生徒会用サロンの場所はわかるかな』
『え、ええ、たぶん』
いや、本当はよく知らないけど。なんとなくの場所しか。しかし動揺していた私はそんな風に頷いてしまった。
『じゃあ昼食はそこにしようか。じゃあ、また明日』
『はい、明日……』
……明日? 昼食ってナンデスカ?
我に返ったときは、すでにアンリ様は一部の生徒しか入れない特別寮の方に歩き去ってしまった後だった。
『あの、私のタイは』
答えてくれる人はいない。
外された私のネクタイは、アンリ様がそのまま持ち去ってしまった――。
「はああああ……」
思い出すと、ため息しか出てこない。私は机の上に突っ伏して、もう一回大きく「はあああ」と息を吐く。
どうしてアンリ様はネクタイをくれたの? これって私をアンリ様のウィンクルムにするってこと?
どうして急に……しかもあんな強引に……。
そういえば歌の合間にした世間話で、編入してきた私が学園に慣れているかだいぶ心配してくれてた。もしかしてそのせい?
ああ、きっとそうだ。同じ編入生であるミリア・シャロームへの手厚い待遇とだいぶ差があるねって驚いていたし、生徒会長として責任も感じたのかもしれない。
あとは……、私が彼ともっと一緒にいたいなんて思ったのが態度に出てしまっていたのかも。
アンリ様は、普段なら言葉を交わすことさえできないだろう雲上人。きっともう二度と一緒にセッションなんてできないだろう。あの時の私は、自分でも珍しいと思うけど、あれきりで別れてしまうのがとても残念で寂しい気すらしていた。
たぶん、そういうのが態度に出てしまっていた。それで余計にアンリ様は同情して……。うう、考えるほど恥ずかしい。
と同時に、言葉にできない不安みたいなものも心に渦巻いてくる。
なにか取り返しのつかない大きなことをしてしまったような、恐れるような気持ちだ。アンリ様にネクタイを渡されるようなきっかけを作るなんて、よくなかったんじゃないかな――
「やっぱり、ロックウッド先輩に振られたから落ち込んでるの?」
「え?」
突然のシーラの言葉で我に返った。
ロックウッド? それは、私に一方的な言いがかりをつけてパトロンの話を白紙にするように仕向けてきたエドモンド・ロックウッドのこと?
「ごめん、触れていいのかわからなくて迷ってたの。話したくないなら、私達ももう聞かないけど……」
「な、なにが?」
「結構噂になってるみたいだよ。リサ、気付いてなさそうだから一応、教えておくね」
シーラが気を遣って話を終わらそうとする気配を感じ、私は慌ててその流れを止める。
「待って! 私がエドに振られた? 彼がそう言ったの?」
「あれ、その呼び方……リサってロックウッド先輩と交流があったんだ?」
「ええ、まあ。実家の関係でちょっとだけ」
ということにしておく。私がロックウッド子爵にパトロンになってもらい、早々に学園を出ていくつもりだってことは周囲には言ってない。事情とか詳しく聞かれても、説明が面倒だったから。
「あのね、噂してる人達が勝手に言ってることもあると思うから、気にしないでね」
「私達はリサがそんなことをしそうな人だと思ってないよ」
「きっと、何か誤解があるんだわ」
ケイとクリスティーヌまでよくわからないフォローをしてくる。
「誤解ってなに? 振られたって話だけじゃないの?」
三人は迷うように視線を合わせた。シーラは教室を見回すと申し訳なさそうに言う。
「今はちょっと時間がないから、お昼休みに話すね」
「え、ええ」
頷くと同時に、教室に次の授業の教師が入ってくる。
なんだろう、あの意味深な視線の合わせ方。私が振られたってただ噂になってるだけじゃないの?
気になって授業に集中できなかった。
授業が終わって昼休みになると、すぐにシーラ達は裏庭の東屋でお昼を食べようと言ってくる。裏庭は人が少ない。内緒話に持ってこいだ。
だけど、彼女達が人のいない場所で落ち着いて私に伝えたかった内容は、そこに到着する前にわかってしまった。
「あの子が、エドモンド様にしつこく迫って断れたリサ・ヒース?」
「彼の恋人のキャサリンさんをいじめたんだって」
「階段から突き落とそうとしたとも聞いたぞ。怖すぎる」
そういう声が聞こえてきたから。
実際、裏庭の東屋で教えてもらったのもそういう内容だった。
「キャサリンさんが、あなたに酷い目にあわされたと言いふらしているのよ。昨晩や今朝も寮の食堂で言っていたみたいね」
「気付かなかった……」
「あまり人の噂話に加わっていかないものね、リサは」
クリスティーヌの言う通り。
私は寮でもできるだけひっそりと部屋にこもって過ごしている。食事時も、偶然クリスティーヌ達と一緒になったら同席するけど、それ以外は端っこでささっと食べて済ますだけだ。シャワーのときも同じ。
私の学園での噂の仕入れ元は、たまたま近くにいた人達のお喋りを耳にするか、クリスティーヌ達から聞くかだ。
本当は、もう少し浅く交友関係を広げておきたいけど、学校って入る前に想像していた以上に閉じた世界だったので躊躇してしまうのだ。
「リサは何にもしてないんでしょ。なら、誤解はちゃんと解けるよ」
ケイの励ましにクリスティーヌも頷く。
「あなたが意地悪したところを見た人はいないのだから、いずれ皆も気付くわ。私達も、折に触れて否定しておくわね」
「ありがとう……」
キャサリンが私を悪者にするのは、確実にエドモンドから遠ざけたいからだろう。周囲の厳しい目もあれば、彼に近付きにくくなると考えたんだと思う。これまでの経験的にその可能性が一番高い。
エドモンドとのことは昨日で終わったと思いたかったのに……。
どんよりした気持ちになりながら私はクリスティーヌ達と別れ、一人だけで少し早めに東屋をあとにした。
よほど噂がショックで一人になりたかったのだと思われたみたいだけど、そうじゃない。
例えばキャサリンを好きで好きでたまらない生徒がいて、万が一だけど、その生徒が報復のために私に危害を与えようとしてくる可能性がないとも言いきれないからだ。
「キャサリンのノートを破ったって……」
「俺は教科書だったって聞いたけどな」
「両方じゃない?」
いやいや濡れ衣だから! どうしてこんなことに!
ひそひそと、けどなんとなく聞こえてくる噂話を気にしないように、足早に廊下を進む。
注目されるのが落ち着かなくて、遠回りして人が少ないルートを行こうとどんどん迂回していたら、気付けば特別エリアという一部の生徒しか使用できない区画の近くまでやってきていた。
そうしたら、別の意味で悩みの種になっていた相手が姿を現した……!
「ああ、いた。リサ、ちょうど君に会いにいこうとしていたんだよ」
「あ、あ、あ……アンリ……様!」
まさか、ここで彼に会う!?
「敬称はつけないでって言ったのに。昨日はつけないで呼んでくれたでしょう」
「そ、それは」
敬称なしで呼んでっていうあなたの圧が、あまりに強かったからです! それにあのときは二人きりで他人の目がなかったし! どうせ今ひとときだけの付き合いだしって思ってたし!!
とは言えず、私はもごもごと言い訳にならない曖昧な言葉を口の中で呟く。
俯くと、アンリ様の声がほんの少しだけ低く平坦なものになった。
「……ネクタイ、着けていないんだね」
「あっ、えっと」
「昼食はサロンで一緒にって言ったの、忘れちゃったかな」
「それは……!」
そうだった! 変な噂が気になって、すっかり頭から抜けていた!
ど、どうしよう……!?
でも私は、アンリ様と二人で何か話してるっていうこの状況に気付く他の生徒達がいることに気をとられてしまう。
視界の端で、怪訝な視線を向ける生徒が一人、二人……いえもっといる!? これ以上、増える前になんとかしないと……!
私はアンリ様にずいっと近づくと小声でまくしたてた。
「ごめんなさい、今は急いでいて……こちらから会いに行きますから、それまでは勘弁してください! 本当にごめんなさい!」
言い終えるとすぐに距離を取る。
本当に、本当にごめんなさい!
心の中で何度も謝りながら、私は彼の答えも待たずに教室へと走ったのだった。
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