第6話 侯爵家の御子息が腕を離してくれません

「たまたまこの上にいて景色を眺めていたら、君の歌声が聞こえたから」


 言いながら、アンリ様は上を向く。

 この上といったら、鐘の設置されている屋上だ。景色を見に来る人なんていたんだ……これまで、誰とも会わなかったのは運がよかっただけか。


「君こそどうして? この塔は本来、生徒は勝手に出入り禁止だろう? 僕は生徒会のメンバーだから鍵を持ってるし許されているけど。そういえば、鍵はどうしたの」

「え?」

「僕が開けたあと、内側から締め直したと思ったんだけど……」

「さ、さあ。開いていたので、きっと締め忘れたんじゃないかと思います」


 そういえば、この塔には外側にも内側にも鍵穴があったっけ!

 本当はちゃんと鍵はかかってた。だけど、ヘアピンで開けました、とは告白する勇気がない。


「すみません。私、五月の初めに編入してきたばかりで何も知らなくて」

「編入生……ああ、そういえばミリアともう一人いるって話だったな」


 そう言ってじっと観察するように私を見る。


「君、もしかしてこの前の、ガーデンパーティーであの苦いジュースを飲んでしまった生徒?」

「あ、はい。そうです。その節は生徒会の方々にはお世話になりました」

「いや。あれは生徒会主催のパーティーだったからね。こちらこそ、管理が行き届いていなくて怖い思いをさせてしまった」


 ほとんど言葉は交わしてないけど、一応記憶に残っていてはくれたみたい。


「僕が話しかけたときにあまりにも勢いよく拒否されたから、トウリ達に怖がらせるようなことしたんじゃないかって言われていたんだ。もしそうだったらごめんね」

「まったくもって違うので大丈夫です!」


 拒否したのはものすごく個人的事情です……。


「編入したばかりなら、そもそもこの周辺一帯、一般の学生が立ち入り禁止なのも知らない?」

「知りませんでした……」


 どうりで人がいないわけだ。


「説明漏れだな。こんなところにわざわざ来ようとする生徒もいないし、忘れていたんだろう。君のせいじゃないよ。あまり気に病まないで」

「は、はい」

「ああでも、歌う前に叫んでいた内容は、他の人には聞かれないように気を付けたほうがいいかな」

「……!」


 や、やっぱり聞いてますよね。

 特定の生徒への超個人的な愚痴だけでなく、学園に対する不信感。それから、目の前のアンリ様とミリアさんへの八つ当たりみたいなもの……。

 さっと血の気が引くのがわかったけど、アンリ様はなぜかそんな私を見て苦笑しただけだった。


「次は気を付けてね」

「……ん?」


 あっ、遠回しに見逃してくれてる? 自分は目を瞑ってあげるけど、他の人は違うから気を付けてねって意味?

 アンリ様のこと、少し誤解していたかもしれない。なんとなくもっとドライで人に興味なさそうで、だから淡々と規則通り注意されると勝手に予想してた。


「あの、本当に申し訳ありませんでした。今後は不用意な発言についても気をつけます。では……私はこれで失礼します」


 心の底からありがとうの気持ちを込めてお辞儀をし、私は階段へ向かおうとする。置いてある私物は、あとでこっそり回収に来よう。

 だが、そんな私の腕をアンリ様が優しく掴んで引き留めた。


「待って」

「へぁっ、な、なんですか?」

「行かなくていいよ。もっとここで歌っていけばいい。邪魔をしてごめんね。さあ、続けて」


 つ、続ける?

 意味がわからず混乱していると、アンリ様が補足してくれた。


「さっきの、歌の練習中だったんじゃない?」

「でもここは立ち入り禁止だって……」

「ああ、そっか。なら君の使用は生徒会長の僕が許可する。これでいいよね」


 ……いいのかな?


「もう少し、君の歌を聞かせてほしいな」

「アンリ様に聞かせるんですか!?」

「うん」

「でもアンリ様なら、もっと上手な方の歌だって聞く機会はよくあるのでは……」


 早くこの場から去りたい。

 アンリ様の前で、一対一で歌を聞かせるなんて、緊張しすぎて無理だってば……。

 でも、アンリ様は優しい顔をしながら、掴んだ私の腕を離す素振りをまったく見せてくれない。私には、学園で「神様」と呼ばれているような人の手を強引に振りほどく勇気はなかった。


「さっきの歌は、とても綺麗で上手だったよ」

「ですが……」

「もっと君の歌を聞いてみたいんだ」

「いやでも……」

「誰かの歌にこんな風に思うのは初めてだな」


 アンリ様に嘘をついているような様子はなかった。本気で私に、もっと歌ってほしいと言って……いや、真剣に頼んできている?

 正直、正面からそんな風に言われたら嬉しい。

 これでも歌を生業にしたいって思っている。私にとっては生きていくためのひとつの手段でもあるけど、人の心に響くものを歌いたいとも思ってる。


「じゃあ一曲だけ」

「一曲だけ?」

「伴奏もないですし……聞いていただくのなら、練習じゃなくてちゃんと歌いたいですし……そうすると披露できるのは一曲くらいかなと」


 半分は言い訳だ。伴奏がなければ絶対に歌えないってことはない。ただ、最高に緊張する相手ただひとりのために歌を披露するのは、一曲が限度だと思う。

 せっかく褒めてくれた相手の前で、失敗したくもないし……。パーフェクトに歌って、歌の上手な生徒がいたなっていう思い出になってくれたら嬉しいかな。


「そうか……。それなら、さっき歌っていた曲が良いな。もう一度聞かせて」

「他の曲ではダメですか?」

「どうして?」

「あれは、途中までしか知らない歌だから……」

「言われてみれば、たしかにいきなり歌い終わった感じはしてたなあ。どこで教わったの? 作者は?」

「作曲家はわかりません。たまたま楽譜を手に入れたんです。楽譜にあるのは、さっき歌った部分までで……」


 私は隅に置いてある木箱を見る。察したのか、アンリ様がようやく掴んでいた腕を離してくれた。

 私が木箱に近付いて蓋を開ければ、横からアンリ様も覗き込み、「結構私物を持ち込んでるんだね」って呟く。ああ、しまった。よくないよね、これ……かなりどきりとしたけど、ここは無言で流させてもらいます。ごめんなさい、ちゃんと撤収しますから。

 私は中にはいっている少しよれた二枚の楽譜を取り出した。


「実はこれ、ここにある棚の後ろに落ちているのを偶然見つけたんです。たぶん、どなたかが不注意で忘れていってしまったものかと」


 おそらく、本当は三枚目以降に続くのだと思う。だから歌の終わりが中途半端な感じがするのだ。

 楽譜には作曲した人の名前は書いていない。

 手書きだから、おそらく書いた人が作曲したのではないかと思うけど……。


「そうだ! アンリ様なら誰のものか心当たりはありませんか? ここに出入りすることができるのは、限られた人だけなんですよね?」

「うーん」

「持ち主がわかれば、続きの楽譜を見せてもらえるかもしれません。アンリ様なら――」

「ふふ、急に積極的だね?」


 指摘されて、かあっと顔が熱くなる。さっきまでたぶんアンリ様にも伝わるくらい恐縮していたのに、急に遠慮なしに迫ってしまった。


「す、すみません」

「いいや、それほど君がこの歌を気に入っているってことだろ?」

「ええ。この歌の旋律は、すごく私の心に響くんです。私の波長に合うというか、とってもすんなり音が体から出てくる感じがするというか」

「じゃあ、なおさらこの曲を歌ってもらいたいな。他の曲ではなく」

「あ……」


 たしかに、ここまで褒めちぎった歌を歌わないってことはないだろう。

 失敗したなと思ったけど、アンリ様は私の動揺を見抜いたのか、優しくフォローしてくれる。


「中途半端に終わっても気にしないよ。さっき歌っていたのだって、とっても素敵だと僕は思ったんだから」


 そして、おもむろに木箱の中へ手を伸ばした。


「このヴァイオリンは君のもの?」


 アンリ様は、木箱の中に入っていたヴァイオリンケースを取り出してにこりと笑う。


「歌だけでなく、楽器も弾くんだ」

「ええ……たまに触るくらいですが」


 そう。私は歌うだけじゃなくて、たまにここでヴァイオリンも弾く。いつもはちゃんと持って帰っているんだけど、先日、ついぼんやりして木箱に入れて帰ってしまった。


「ヴァイオリン、借りていい? せっかくだから、簡単だけど僕が伴奏を担当しよう」

「えっ!?」

「だめかな? 人に自分の楽器は触らせたくない?」

「いえ、そんなことはないですけど。え? 伴奏?」

「楽譜もあるしね。簡単で適当なものになっちゃうけど」

「その楽譜には主旋律しか書かれてませんが……?」

「うん。だから凝ったものは無理なんだ、ごめんね」

「えっと、はい。大丈夫です」


 さ、さすが。文武両道の神様には芸術の才もあった。簡単で適当な伴奏なら、即興でつけられるらしい。本当に超優秀な人すぎる。

 というか、彼の伴奏で歌うの? 本当に? 緊張が倍どころの話じゃないんだけども?


 軽いパニックになっている私の前で、アンリ様はさっさと準備を終え、楽譜を見ながらヴァイオリンを鳴らし始めた。


 なんだかとんでもないことになっている。そして、もう逃げられない……。

 私は腹をくくった。


「アンリ様、少しよろしいですか? 楽譜通りでは短いので、私はここで繰り返しを入れています。それから二回目の繰り返しのあとにはここを――」

「なるほど、ならここは――」

「はい。この部分だけ飛ばして――」


 私の歌を素敵だと言ってくれた人と、ただ一緒に音楽を奏でることだけを考えよう。

 目の前にいるのが学園中から崇められているすごい人という事実を、私は一旦忘れることにした。


「じゃあ、始めようか」

「ええ――」



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