第四話

「先輩……」


 不意に真鍋の声が聞こえた。もしかして寝ていたのだろうか。こんな時に寝てるなんて俺は命知らずだなと思った。真鍋の方へ目をやるとやつれた顔で少しだけ嬉しそうな表情をしていた。

 どうしたんだろうと思い俺は当たりを見渡した。真鍋が喜んでいるのだからきっと真鍋の視線の先だろうと思い、動かない身体を無理に動かして後ろを見た。そこには綺麗な景色が広がっていた。木々に雪が積もっておりそれが氷となって、まるで日中のイルミネーションのようにキラキラしていた。


「あぁ、綺麗だ」


 絞り出すように呟いた俺を、真鍋はくすくすと笑って見せた。


「晴れてますよ」


 晴れている? 俺はよくわからなかった。俺たちは吹雪の中にいて常に視界はホワイトアウトしており——あれ、ホワイトアウトしていない?


「真鍋、俺はついに低体温症になってしまったかもしれない。もしもの時があったら」

「晴れてますよ」


 遮るように真鍋が言った。晴れている。晴れたのだ。何日間俺たちはホワイトアウトした日を過ごしていたのだろう。それが当たり前すぎてもう晴れるという概念さえ忘れ去ろうとしていたくらいだ。

 とにかく天気が戻った。これはとても嬉しいことに違いない。だけど。


「俺、身体が動かない」


「私もです。下山できる自信はありません」


 やはり、生存は難しいと気がついた。俺の足はもう感覚がなくなってきている。なんとか晴れた日差しと真鍋の体温で手や他のところは大丈夫そうだが、足が動かないのではもう何もしようがない。きっと真鍋は滑落した際の痛みがまだあるのだろう。


 無理する必要はないか。手元にあったはずの写真はどこかへ消えていたが、朱美に心の中で語りかける。きっと無理しても何もいいことはないし、きっともう捜索も打ち切られて誰も助けなんか来ないだろう。ならこのまま、雪のイルミネーションの中で朽ちていこうではないか。それがきっと一番いいことに違いない。

 

「朱美に会いたいなあ」


 目頭が熱くなった。かすかに真鍋の手に力が入った。真鍋も無念だろう。まだ若くそして未来ある人材だった。努力家で仕事熱心。優しくて一般的に見たらきっとすごく可愛らしい容姿なんだろう。無念だろうな。


「私は怖くありません。だから先輩も怖く思う必要はないです」


「真鍋は強いな」


 俺はこんなにも。こんなにも。


「先輩はしっかりと助けてくれました。何も責めることはありません。責めることはないのです。責めるならせめて私を責めてください。滑落したのは私です。先輩は助ける必要なんてなかったんです」


「それに先輩は希望をくれました。喜びもくれました」


「なにをい」

「先輩。私……わた」


 真鍋の言葉が止まる。俺の思考も止まる。


「おーい! 佐々木英樹ささきひでき! 真鍋由花!」


 声が聞こえたからだった。幻聴かと思ったが、真鍋が止まったということは幻聴ではないのだろう。俺は最後の力を振り絞った。


「ここに! ここにいます!!」


 雪を踏みつける音が複数した。俺も真鍋も限界だったのだろう。腕の中にいる真鍋は先ほどまで話していたことが嘘かのように俺の腕に力を預け眠りについた。そして足音が近くなってくることによる安心感からか、俺は最後に言葉を聞いて記憶がなくなった。


「遭難者発見!」



◇◆◇



「もう! 本当にやめてよね!」


 俺はすごく怒られていた。目の前には顔を真っ赤にした朱美がいた。あの時は本当に天使だと思ったのに、今は鬼の形相だ。

「ごめんって。もうしないよ」

「貯金の半分も使い果たした挙句に、その指輪さえ無くしたですって! もうそんなことはやめてよね!」

「はい……」

 あのあと朱美と同棲した俺はやっとの思いで打ち明けたことを朱美に怒られていた。


 それは朱美に贈る予定だった指輪を滑落した際に無くしてしまったこと。しかもその指輪の金額は俺が入社してからコツコツと貯めていた貯金のうち半分にもなる額だった。


「そんなことしてなんになるのよ! ゆいちゃんにも謝ってよね!」

「おい、なんでそこで真鍋が出てくるんだよ」

 朱美がはあと一息ため息をついて。知らないっと背を向けてしまった。

「なんだよ……本当にごめんって」


「女心がわからないんだなあ」


 朱美がぽつりと呟いた言葉に俺は首を傾げた。


「あ、もしかして一緒に選びたかった? 指輪」

「そうじゃないから! もう!」

 朱美は怒って俺から離れていった。どういうことだよ……。もっとわかりやすく説明してくれよ……。なんて思いつつ、今は安静にしたいなあと思い、朱美を追うのをやめた。家の中だとしても、この足では少し不便だ。


 あの日救助された俺たちは、すぐにヘリコプターに乗せられ近くの病院に運ばれた。遭難はなんと10日にも及び、まさか生きていたなんてと周囲からは喜びの声と驚きの声が上がった。実際に俺もそう思う。10日も生きていられたなんて。そして、真鍋はいくつかの骨が折れており今も休職中とのこと。俺はあの時感じていた足の冷たさ。それは凍傷になっていた症状だったようで、足の指を何本か切断する手術を行ったのだ。そのため俺も休職中。

 

 職場には出勤しますと言ったところ、お願いだから休んでてくれと何故か懇願されてしまった。俺はつくづくホワイトな会社だなあと思い、感謝の言葉を伝え言われた通り今は甘えさせてもらっている。その際に朱美から同棲の話を持ちかけられ、足のことがあったから断ったのだが、

「もう生涯一緒にいるつもりだから気にしないで」

 と、逆プロポーズのような言葉を言われたため、その言葉にも甘えることにした。


「はい」

 不意に目の前に見覚えのある小さな箱が現れた。俺は朱美の方を見る。

「これ、どうしたの」


「救助隊の方達が滑落した途中に落ちてたって拾ってくれたみたいで私に渡してくれたの」


 涙が溢れた。そして俺は朱美を抱きしめた。

「俺とずっと一緒にいてくれ!!」

 朱美は暖かく俺を包み込んで


「ばかだなあ。当たり前でしょ」


 と言ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

山が鳴く。 〜プロポーズしようとしたら滑落した……〜 夜月心音 @Koharu99___

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ