第三話

◇◆◇ 


 その時まさかと思った。

 きっと少し安心してしまったのだろう。


「もうすぐ登頂だぞ!」


 その言葉に。その声に。いつも恋焦がれていた先輩の声を聞いて私は安堵した。先輩が朱美先輩にプロポーズをしようとしていることを知っていた。だけど、私は諦められずにいた。


 だから、少しだけ思ったのだ。山の神様に頼んだら何かしてくれるんじゃないかなって。山には元々山岳信仰がある。だから、この山の神様に頼んだらきっと叶えてくれるって。不意にそう思ってしまったのだ。そして自然と頭の中で願い事を呟いていた。


 先輩と二人きりになれますように。


 途端、ずりっと足元の雪が崩れた。えっと思い瞬間、死を覚悟した。嘘でしょ、もうすぐ登頂なのに。そして何よりも先輩にもう会えないかもしれない。私はこの気持ちを先輩にまだ——。

 悲しい気持ちが溢れ出て思わず目を瞑った。もう、こんな景色をみている必要はないと思った。悲しかった。悔しかった。こんなところで私はこの恋も、人生も終わりになってしまったのだ。これが私が本当に神様に頼みたかったことなのだろうか……?


「!?」


 ガシッと手を掴まれた。諦めていた目を開けば驚きの景色があった。その手は暖かくて、いつもは朱美先輩の手を握っている手だった。大好きな先輩の手。


 ああ、幸せだ。


 そう思ったのと同時に私は強く打ちつけられて意識を失った。



◇◆◇


 

 何日経っただろうか。もう俺たちは限界だった。まだ吹雪は続いており、未だにホワイトアウト。歩くことも助けを呼ぶこともできない。打ち身の痛みよりもこの凍えるような寒さによる痛みの方が強く、さらに孤独だった。真鍋もなんとか生きているという感じで、不運なことにもうすぐ真鍋の持っていた飴も無くなりかけていた。


 ホワイトアウトした初めのほんの数時間、吹雪はすぐ止むだろうと考えていた。しかしそんなに自然は甘くなかった。全く止む気配なし。俺はつくづく不運だなと思った。だが、真鍋を見捨てなかったことを不運という言葉で片付けてはいけないとも思った。ただ、もう優しくいられるほどの精神力が無くなりつつあった。足先が冷たくなっているのもなんだか気が気でなくて、俺の心を揺さぶっていた。


「ま、なべ……」


 こうして定期的に俺は真鍋の生存を確認していた。声は掠れ、喉は寒さで痛み、ボロボロだったが確認するしかなかった。したかった。


「……はい」


 小さく返事が返ってきて少しだけ安堵した。俺だけが生きているなんて嫌だし、逆に真鍋だけここに残していくのも嫌だと思った。どうせなら一緒に生き残りたい。それか一緒に——。

 雪に埋もれそうになったらなんとかして俺たちはその雪の上に上にと動いたが、それ以外は動けず、その上体力もどんどんなくなっていった。手だけ繋いでいても仕方ないかもしれない。もっと温まる方法があればいいのだが。何にも持っていなかった。


「真鍋、ちょっといいか」

「はい」


 いつしか真鍋ははいしか言わなかった。俺はそれでもなんとか二人で生き残るために、真鍋に抱きつく形になった。少しでも寒さしのぎになるのなら。二人が助かり、朱美が笑ってくれるのなら。


「えっせ、先輩!?」

 久々に真鍋の大きめの声を聞いた気がする。

「すまん、臭うかもしれんが、これが多分一番温まると思うんだけど、どうだろうか」

「……いいと思います」


 真鍋も心なしか手に力を入れてきた。俺たちはもはやこんなことでも安心できた。手元にある朱美は綺麗に笑っていた。綺麗すぎて天使にも見えた。……だけど、もう会えないだろう。もう無理だろう。すごく長い時間ここにいると思う。何もかもダメだ。俺はきっとこのまま自然に帰るのだ。きっと真鍋だってそう思ってるだろう。


 こんなに吹雪は止まないものなのか。もう二度と登山はしないかもしれない。というかザックやアイゼンはなぜ外れてしまったのか。もう何もかもがマイナスへと考えていってしまう。こんなことが嫌で仕方なかったが、嫌々ながらも、でもそれが運命なんだと受け入れていく俺がいた。


「先輩、飴」

 真鍋がポケットから一つだけ飴を取り出した。俺は迷わず受け取った。俺も真鍋も——というか山岳サークルのみんなが脂肪を蓄えているという身体ではないため、もうやつれてるという言葉が近くなっていた真鍋を見てられなかった。でも生きていてくれるだけで安心できた。

「ありがとう。真鍋は?」

「ここにあります」

 真鍋が手元にある飴を俺に見せた。そして二人で口に入れる。甘い味が口の中に広がり、どうしようもなく生きていたいと思った。

 

 後どれだけ生きていれるだろう。もう長くないかもしれない。朱美には今度いつ会えるだろう。ああ、真鍋がいるはずなのに孤独だ。孤独すぎだ。


「先輩」


「……なんだ?」


「生きて、帰りましょう」


 真鍋が抱きしめていた手に力を入れた。俺も力を入れた。

「そうだな」

 本音と嘘が入り混じった俺の脳内は、もう死へと向かい始めているとそう思った。

 

 真鍋は朱美とお揃いだという髪留めを今もまだ大事そうに力の入らなくなってきた手で握っていた。俺は朱美の写真を見ていた。俺も真鍋もきっと朱美に助けられているに違いない。でも、真鍋が朱美と仲が良かったことは驚いた。でも俺の知らない朱美を知ることができて嬉しかった。


 ああ、眠いな。


 俺はもうこの時点で生きることを諦めていた。真鍋のなんとも小さな手の温もりだけが俺の心を温めてくれる存在だった。

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