第14話

 ――ずいぶん長いあいだ揺られていたと思ったけれど、目覚めてみると三十分ほどしか経っていない。


 藤真はすでにドアの前に立っていて、あたしを一瞥すると、「降りるぞ」と言った。


 あたしは黙ってついていく。


 学校への、道のり。


 バスを降りて、ゆるやかな坂道をのぼっていくと、やがて見えてくる。それは亡霊のようだった。藤真はしかし、校門を通りすぎて生垣沿いに歩いていく。


 雪が、睫毛に落ち、まばたきする。


 吐いた息は眼前でまたたく間に砕けて、むきだしになった肌に、冷気は刺すようにしみこんだ。あたしは雪の積もった地面をざくざく踏みしめながらしきりに耳を揉んだ。


 辺りは車も通らず、こんな天気では民家から人が出てくる気配もなかった。どこからか犬の鳴き声が聞こえるほかは、物音といえば、雪道をいく二人ぶんの足取りと、すっかり体力が落ちてしまったあたしの、切れ切れになった息だけだった。


 藤真は脇目もふらずに、前屈みになってすすむ。


 どんどん人気のないところへ向かっているようだった。あたしは、見失わぬようその背中から視線をそらさない。そうしながら、不安はすこしずつ脹らんでいった。


 たどり着いたのは鬱蒼とした林だった。


 かつて何度も走った、持久走大会のコースの半ば。高一の文化祭準備、先輩が言っていた、幽霊が出る、ところ……。脇を通りすぎるとき、薄暗い景色になにかがいそうで、あたしはいつも目をつぶっていた。


 林に踏み入った藤真の背後で、あたしはついに尻込みした。と、藤真は振りかえって、むりやり腕を掴まれる。唇のすき間からひきつった悲鳴がもれた。引きずられるように林のなかに連れていかれる。必死に抵抗しても、そのすべてが無駄だった。


 ……どうしてついてきてしまったんだろう。


 胸のなかいっぱいに広がる後悔はやがて涙になった。血が逆流し、まっ白になった頭のなかで、太鼓が鳴り響いている。


 藤真は、後ろですすり泣く女のことなど気にも留めないで、大股で足元の草を踏みしめた。そうして奥へ、奥へいく。


 ようやく立ち止まったところで、ふと地面につき刺さっているショベルが目につく。それを引き抜き、おもむろに地面を掘りはじめた藤真。コート越しに、筋肉が力強く動く。掘りかえしたあとなのか、そこだけ草がなくなっている。あたしは唇をかみしめた。そぅっと振りむいてみると、出口はひどく遠いところで、無情に白い光を放っていた。


 揺れる背中をにらみながら、逃げだす機会をうかがっている。けれどたぶん、追いかけられたらひとたまりもない。あのショベルで殴り殺されてしまうと思うと、たちまち全身が震えはじめた。


 やがて藤真は穴のなかから、なにか、スーツケース、を引っぱりだした。


 土を払い、蓋を開ける。その、あまりにも、いたわりにみちた動作に、ゾッとした。


 取りだしたのは、ビニールに何重にもくるまれた、丸いボールのような。


 首をかしげてまじまじと観察するあたしの傍で、彼はやはり丁寧にビニールを剥がしていく。


 一枚、一枚、核心に近づいていく……。


 あたしは自分の呼吸が荒くなっていることに気づき、コートの上から心臓を握りしめる。


「……姉は、父から暴力を受けていた……」


 おもむろに、背を向けたまま、藤真が話しはじめる。


「俺はずっと、目をそらしつづけていた」


 無機質な声が、がさがさと擦れあうビニールに重なる。


「あなたは、だから、彼女の救いだったんだと思う」


 そうして藤真は振りむいた、スロー再生のように。百合子を、抱えて……。


 あたしは尻餅をつき、口を覆った。けれど〝それ〟から目が離せなかった。


 眠っているのかと思った。


 美しい少女のまま。


 なにものにも、汚されない、まま。


 それは精巧につくられた人形のようだった。同時に、人間のほかはないとも思う。


 だって、これほどまでに完全な美を、百合子、当人以外にだれが創造できるものか!


 あたしの目玉は釘づけになり、舌はからからに乾いていた。

 苦しくて、喘ぐ。

 瞬間、耳元に甘い、声、が……。


 ――ねえ、雀。永久死体ってしってる。


 と。


 ――腐らないで、朽ちないで、ずっとそのままなの。


 と。


 その声は、砂糖菓子。ページをしっとりとなぞる指先までもを、あたしはきっと語りつくせる。


 夜空とピンクが混ざりあう、夢みたいなあの部屋で、あたしたちはたしかに生きていた。


 生きて、いた。

 大切、だった。


 あたしは、悟る。目の前にいるのが、百合子であること。


 あたしの瞳からは涙が転がり落ちていく。それはまるきり炎のようで、頬を溶かし、溶けた頬はどろどろと地面に滴った。あたしは顔をあげた。それから、息を呑んだ。


 藤真が泣いている。


 両目からしみだした藤真の涙は、地面に溜まり、湖を作る。中央に一人きり立ちつくしている彼は、百合子の頭を抱えたまま、喉の奥から声を絞りだした。


 ――百合子が死んだのは、十年前のきょう。十九の冬のことだった。


 奇妙な電話を受けとって、翌日に訪ねた藤真は、風呂場で血を流す百合子をみつけたのだという。死んでいたのだ、もう。


 藤真は、父親の勤める大学病院から薬品を盗みだした。それから、百合子をバラバラにした。百合子に言われた通り。はたして電話口で聞いたことばが遺言となり、呪いとなって、いまでも藤真をひきとめているのだろうか。


 そのとき、現実で、なにか大きな鳥が飛びたつ音がした。枝がしなり、積もっていた雪が落ちたのだった。


 あたしたちはみつめあう。

 恐る恐る、互いに腕をのばし、受けとると、あたしは覆いかぶさるように抱えこんだ。


「百合子は死んで、百年生きる」


 それは、どっちが言ったことばだったろう。

 呪いのような、祈り。


 あたしは百合子を抱えたまま、ずっとうずくまっていた。

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エス 蛇はら @satori4

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