第13話

 友人からの告白を聞いたその後も、世界が崩壊するなんてことはなく。

 ただ、胸に生まれた空洞からこぼれていく少女時代に、気づかないふりをしたまま。

 会社で知り合った人と、二十四で結婚し。


 三十歳。


 あたしはお母さんになっていた。

 

 三時には幼稚園のバスで帰ってくる娘を、毎日お菓子のにおいで迎えてあげる。

 きょうはアップルパイをオーブンに入れて焼きはじめていたときのこと。ちょうど呼び鈴が鳴った。三時をすこし過ぎたころで、あたしは首をかしげつつ玄関を開ける。


 ママ。ただいまぁ。


 という声が、とうぜん聞けると思っていたのに。


 そこにいたのは、見知らぬ男の人。

 とっさに、扉を引いた。けれど相手のほうが俊敏で、手と、足を使って押さえられてしまう。ああ、どうしよう。


 ドアのすき間から覗いた空は灰色に明るく、十二月の頭にしては珍しい、足首ほども積もりそうな雪の日だった。


 白い背景にいまにも埋没しそうな男。


 黒目を揺らしながらも注意深くうかがってみると、男はコートの肩や、髪に雪が積もってうっすら白くなっている。前髪からかすかに覗くりりしい眉に、あたしはどうしてか懐かしさを感じて、もっとよくみつめてみた。


 おどろくくらい、目鼻立ちが整っている。マフラーに半ば隠れてはいるが、顔の半分を覆う髭がなければそうとうな美丈夫なのだろう。


 歳は、かなり老けて見えた。けれど張りのある目元を見るに、ひょっとするとあたしより若いのかもしれない。


「あなた、だれ」


 気がつくと、尋ねていた。

 男はすこしのあいだ逡巡して、


「お久しぶりです。松川藤真です」


 と、言った。


「あっ、百合子の……」


 弟。


 あたしはこのとき、はじめて彼の名を知ったのだ。

 藤真は、やつれていた。肩の雪を払い、頭を振るうと、ふたたびあたしを見据えて、


「いっしょにきてくれませんか」

「どこへ。あの、もうすぐ娘が帰ってくるの」

「どうしても、急いでいるんだ」

「あんまり急すぎる」

「すまない。さあ、コートを羽織ったほうがいい。外は冷えるから」


 ムッとしながら、反面あたしは部屋へ戻って戸締りをし、コートを掴んだ。

 いまも昔も、瞳は変わらぬ冷たさをたたえているのに。歳月を重ねたいま、それは藤真をより近づきがたく、同時に魅力的な存在にさせていた。

 あたしは車の鍵をじゃらりとやって、彼に目で合図する。


「さて。どこへ向かえばいいの」

「とりあえず、駅へ」

「え? ま、いいけど」


 助手席に乗りこむ藤真の横顔をちょっと見やって、あたしは車を発進させた。

 車のなかで、運転席と、助手席に座って。あたしは居心地が悪かったのでラジオをつけた。


 ――つづいてのニュースです。本日正午ごろ、××県のアパートの一室で切断された女性の遺体が発見されました。


 と、ニュースキャスターの硬い声がスピーカーから流れでてくる。それはたしかにこの県で、あたしは、うげっ、と顔をしかめた。


 ――現場からは頭部が持ち去られており、警察は状況を詳しく調べるとともに、遺体の捜索をおこなっています。また、この部屋の住人の行方が一週間ほど前からわからなくなっており……


「あ」


 と、おもわずつぶやく。藤真が勝手にラジオを消してしまったのだ。

 こんな県で、こんな田舎で、起こった物騒な事件。まさか、家の近くじゃないよねぇ、と耳をすましていたのに。なんて不遜な男なんだろう。


 エアコンがあたたまらないうちに駅へついて、上りのホームのベンチに、二つ空けて腰かける。下りのホームにも、あたしたち以外だれもいなかった。田舎の電車は、それも朝や夜の通勤通学の時間帯でないと、下手をすれば一時間も待たなければいけない。


 不運だなぁ、と両手を擦りあわせる。


 すこしだけ娘を預かっていてほしい、と家を出る前にお願いしておいたママ友に、もう一度電話をかけようかと考える。もしもし、さっきはありがとぉ。娘、帰ってきたかしら。雪だし、ちょっと時間かかるかもね……。これは、頭のなかの会話。


 ちらっと盗み見た藤真は、三つとなりの椅子でいったいなにを考えているのか。それは、歳を取ってもわからないまま。


 手持ちぶさたに、あたしは線路に落ちる雪の塊を数える。


「あ」


 と、そこで、思い出して、


「……あのとき、助けてくれてありがとう」


 藤真はそれに関してとくべつ言うことはないらしく、ただ、遠く、ホームの切れ目をみつめて、


「ああ、電車がきたな」


 とつぶやいただけだった。

 乗りこんだ車内はとても空いている。

 二人ともやはり別々の席に座って、けれど互いに、どんどん吹雪いてくるような外の景色をじっと眺めていた。


 五分置きにだいたい電車はホームに停まって、ときどき、乗客がボタンを押して降りていった。外はますます白に覆われていた。

 温められた車内とゆるやかな揺れに、あたしはそのうち舟を漕ぎはじめる。


 電車は、少女時代に通い慣れた通学路をまっすぐにすすんでいった。座席の隅に体を埋めながら、自分がすこしずつ還っていくような気がした。


 もう、思いだすことも難しい、すぐとなりにあったはずの、絶望。


 その先にいるのはいつだって、あの女の子だったというのに。

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