第11話
雀、十七歳
また年が明けて、五月。
田んぼには水が引かれ、短い期間、空を映す鏡になる。
衣替えしたばかりの制服をなびかせ、あたしはきょう、ふたたび百合子の家を訪ねていた。
「親は仕事で帰ってこないし、弟も部活の合宿だから」
百合子が唱えた、魔法のことば。あたしたちは踊りだしそうに帰り道を駆けた。
相変わらず夢みたいな家の、玄関をくぐり、お菓子とジュースを抱えて二階にあがる。
百合子の部屋はいつきても整頓されていて、明日引っ越すと言われてもきっと困らないだろうと思う。いまだに犬か兎か正体のわからない動物のクッションの半分ずつに、あたしたちはお尻を乗せた。
引きよせた小さなテーブルにお菓子を並べる。ちょっとお高いアイスとか、チョコレート。ビスケットにバウムクーヘン。それから貰い物の、かしこまった包装紙を破った。
床にノートを広げて、甘いお菓子でどろどろになりながら、途切れ途切れに話すのは、頭のおかしい、殺、人、計、画。
ほとんどがインターネットやドラマに小説、漫画からかき集めたもので、あたしたちの精一杯だった。
残酷なことばの群れは、本当は、怖かった。
けれど、これが百合子を救うことなのだ。あたしは信じていたし、疑わなかった。
そしてだんだんあたしの救いにもなっていったのだ。
少女とは、絶望なので。
暗黒世界、なので。
砂糖菓子でできたあたしたちが制服をひるがえしながら、本当は折れ曲がった崖っぷちを駆け抜けていること。を、おとなたちはたぶん、知らない。
忘れてしまっているので。
あたしは百合子の髪に頬を寄せ、目を瞑った。
幸福、だった。
髪のヴェールを掻きわけて、その白い頬にキスしてしまいたい。お腹の底あたりから欲望がむくむくと、生ま、れ、て、き、て……
あたしは、押し殺した泣き声を聞いた。
「私、雀を殺したい……」
気がつくと、あたしは床に下敷きにされて、首に制服のまっ赤なスカーフが巻きつけられている。
あっ。と、思う。
ちっそくだ……。
百合子、と言おうとして、口からは空気漏れのような音がひゅっと飛びだしていっただけだった。
百合子のか細い腕は容赦をしない。すべらかな指で、スカーフをよけいに強く握りしめる。
殺したいほど憎い人。えっ。えっ。えっ。それって、あたしだったのっ。――聞きたいけど、聞けずに、口からは涎が垂れ、悲しいんだか生理的なんだかわからない涙が流れた。
百合子はあたしの首をぎりぎりと絞めつづける。
あたしは、たぶん、死んじゃう。
百合子に殺されて。
だれにも秘密の、殺、人、計、画。だけど、共犯者と死体がおんなじなんて、夢にも思いはしなかった!
ぎりぎり、と苦しめられながら、目の前を駆ける走馬燈は、やがてあの夏で一時停止する。あたしたちが出会った日。あたしの心臓が百合子に撃ちぬかれた日。
ぎりぎり、り。
百合子の瞳。
美しい瞳が、拡大されて、あたしをみつめつづけて、いる。ぎり。ぎりりり、ぎりりりりりっ。
頭のなかみが、弾けとぶ。
――――――
――――
――吸った息が、うまく肺まで運ばれないで咳きこんでしまう。下手くそな呼吸と咳とをくり返して、でもあたしは、生きてる。
胎児のように丸まったまま目探しすると、百合子はそばでしゃがみこんでいた。
丸テーブルはひっくり返って、お菓子が散らばり、コップは中身をぶちまけていた。額にざりざりとなにかが触れる。それはどうやら粉砕されたクッキーの残骸らしかった。
あたしは首にいまだ巻きついたままのスカーフを握る。ふと、そのとき、百合子のそばに仁王立ちする人物に、はじめて気づいた。
弟。
百合子の弟が、ものすごい形相で彼女をにらみつけていた。よく見ると百合子の片頬は赤くなっていて、叩かれたんだと思う。
駆け寄りたいのに、体が動かない。あたしの向こうで百合子はなんにも喋らず、
ひたすら床をみつめていた。もちろん、ちらっとだってあたしのほうを見てはくれなかった。
「なんてことをしたんだ……」
と、声を震わせて言ったのは、弟だった。
つい先日、中学生になったばかりの男の子。まっ黒の学ランにまだまだ着られているくせに、いっぱしの男みたいな口調の。
百合子は押し黙ったまま。
「なんてことをしたんだ。彼女まで巻きこんで、心中でもするつもりなのか。なあ、答えてくれ」
なにも言わない。
「姉さん」
なにも、言わない。
「姉さん。……姉さん。……百合子っ」
「うるさいっ」
と、百合子が叫んだ。
「な、な、なにもできないクソガキのくせに、こんなときだけ、なにかになろうとするなっ」
それは、ぜんぶを絞りだしたような、百合子の咆哮だった。
少女の。百合子の、絶望、だった。
あたしの唇からは嗚咽がもれて、細くどこまでもつづく。それから獣の遠吠えとなる。目からあふれる涙はどろどろに溶けた内臓そのものだった。
自分じゃ、どうすることもできないのだ。
百合子もその弟も、もうなにも喋らなかった。
あたしの地響きのような慟哭だけが、いつまでも部屋を揺らしつづけていた。
――ときは、流れ。
あたし、二十三歳。
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