第10話
ところで、例の恋文の彼との交際は、ある日とつぜん終わりを告げた。
後期テストの最終日、委員会の仕事で、百合子がいない帰り道でのことだった。
やっぱりあたしは電車を待っていて、いつのまにかとなりへ並んだ人影に、顔をあげる。彼だった。
「きょう、松川さんは一緒じゃないんだね」
「めずらしい、この駅使うなんて」
「うん。待ってたんだよね」
あたしはスマートフォンを鞄にしまった。漂う空気が、いつもと違っていることに気づいたから。
彼は眼鏡を押しあげ、やがて、
「手紙のことを、忘れてほしくて……」
と、言った。
「どうして」
「だって、きみが好きなのは松川さんだから」
「えっ」
「あれ。気づいてなかったの。そんなはずはないよ」
「そりゃあ、たしかに、百合子のことは大好きだけど……」
あたしはまさかと思う。だって、百合子は、とくべつだ。だれのものにもならない、世界でいちばんうつくしい、女の子。
「それは、人として、ってことで……百合子は、とくべつで……」
「雀ちゃん、怒っているね」
「どうかな」
眼鏡越しに、彼があたしを見る。その瞳が、先生が、出題の答を生徒から待つときのものに似ていると思った。あたしはちょっと考えて、自分の気持ちを、ゆっくり、ことばにする。
「――例えば、あたしは、百合子が『雀、あなたは、きょうから私のものね』って言ったら、うなずく。あたりまえ、って思う。でも、その逆はありえない。百合子は自由で、本物で、こわいくらい、美しくて。百合子は、神さまなんだ」
「……うん」
彼はうなずいて、落ちかけた鞄の紐を肩にかけ直した。正面のビルのほうを向いて、しばらくじっと眺めている。それから微笑をうかべたまま、言った。
「……僕は松川さんに負けたんだ。尻尾を撒いて逃げるんだよ。それでもいい。でも、つらいなぁ」
「男っていうのは、そうやってみんな自分のうちで完結してしまう」
「そう」
「って、百合子なら言いそう、と思ったところ」
「ははは」
大口を開けて彼は笑った。あたしははじめて聞く爽快な笑い声に目を丸くした。
ビル一面の窓ガラスに、太陽が映っている。光を反射させて、あたり一面は、黄金に輝いている。
「……手を繋いでもいいかい」
おずおずと、彼が言う。
あたしは横顔を見あげてうなずいた。
――その手は、たしかに男の人の手だった。骨ばって、女の子の手のひらなんか容易に覆い隠してしまう。まったくちがう生き物。気づいてしまった心臓が、今さらどきどきうなりはじめた。
「あたし、友だちで楽しかったのに」
「僕はねぇ、きみと恋人になりたかったんだよ」
「ごめんね」
言いあって、あたしたちははじめてみつめあう。あたしを見おろす瞳は、いつか数式の美しさを語ったときと同じやわらかさをたたえていた。
ふいに、心臓にぽかんと穴が空く。そこで波打つ正体のわからない感情が眉をしかめさせる。そうして彼は、あっさりあたしの手を離し、いってしまった。
*
クローゼットから取りだしたコートは化学室のにおいがする。クリーニングから返ってきてそのままだったビニールをはぎ取り、羽織る。
朝家を出ると外は霜が降りていて、踏みながら歩くのが楽しい。うまくいくと、凍った地面がざくっと崩れて、靴裏にたしかな感触を感じる。それから駐車場の隅に停めてある自転車のスタンドをあげて、駅へと駆けた。
電車から降りてバス停へ向かうと、列の真ん中あたりに百合子をみつけた。あたしはすぐにわかった。
百合子は本を読んでいて、つやつやした黒髪が庇になって頬を隠している。と、こっちに気がついて、あたしの全身を眺めるとにやにや笑った。
「おや。やっとコートを着てきたわね」
「だって、きょう、マイナス五度だよ。さすがに寒いよ」
「マイナスになるまで着ないつもりだったの?」
「そういうわけじゃないけど……。マフラーと、手袋と、耳当て、毛糸のパンツ、タイツ……で、自転車でジャージも履くでしょ。これだけ着こむと、いけるなって思っちゃうんだよね」
「たしかに。雀、体温高いものねえ」
と言い、百合子があたしの腕に腕を絡めて、肩に頬をぴたっとくっつけてきた。
「あぁー、私の湯たんぽちゃん」
「百合子、おじさん臭いよ」
「うふ」
恨めしく横目で見やれば、百合子は猫みたいに目を細めた。
やがて曲がり角からバスが現れて、あたしはあわてて最後尾についた。
ステップにあがって、運転手に定期券を見せて。バスは混んでいて、百合子は、後部ドアのすぐ後ろに座っていた。となりには中等部の女の子。鞄を行儀よく膝に乗せて、本を読んでいる。あたしと百合子は顔をみあわせ、暗黙の微笑を交わした。
ドアの脇に立って、手摺りに寄りかかったと同時にバスは発車する。
一時限目に単語の小テストがあるので、あたしたちはそれぞれ英単語帳とにらみあった。それでも、あたしは合間に百合子をうかがってしまう。
伏せられた睫毛のすきまからほろほろと落ちるまなざしは、ページの上を漂い、ときおり窓の外へ向かい、決まって最後にあたしへ向かった。
なんという、平穏。
あたしの小テストの結果が、悲惨だったとしても。
授業は、休み時間は、目まぐるしく流れていって、気がつけば放課後になっている。
あたしたちの密会はあいかわらず続いていて、けれどやっぱりこの時期の図書室は受験生の集会場になってしまうので、無人の部屋を探して歩いた。それは自分たちのクラスだったり、空き教室だったり、生物室、小ホール。聖堂なんてこともあった。
だれもいないというだけで、どうしてこんなにもどきどきするのだろう。特別、と感じるんだろう。
あたしは黒髪に縁どられた百合子の横顔を見るたび、どうしようもなく切なくなる。
すると決まって百合子はこっちを振りむいて、とろけるような眦で、ささやくのだ。
「なぁに。どうしたの、雀」
あたしたちは肩を寄せあって、広げたノートに思いついたことを書きこむ。ノートは、三分の二が埋まって、いまでは角のほうがすこし折れ曲がっていた。
内容は、いつ、どこで犯行をおこなうのがいちばんなのか、という問題にまでおよんだ。
ときには、図書室から借りたぶ厚い植物図鑑をお供に、毒性の強い植物について熱心に話しあったりもした。やっぱりキノコ類は心強いと思う。それから、トリカブト。それから、夾竹桃で、夏になれば近所の庭や道端にも咲いているのに、これは、枝から根からぜんぶが毒なのだ。植えると土まで毒になる。口に入れたら、死んでしまう。
それから、それから……。
気がつけば、下校時刻をしらせる放送に背中を押され、もう、帰る時間。
バス停にはすでに列ができていて、点々と灯る電灯に、女の子たちの姿がぼんやりと浮かびあがっていた。最後尾に並んで待つあいだ、あたしたちはささやき声で思いだしたようにことばを交わした。
百合子の声は耳に心地よく響く。夜の闇に、お互いの白い息が、魂のように浮かんだ。
あたしは消えていく靄をぼんやり眺めながら、ぽつりと、
「あたし、こうやって百合子といっしょにいるの、いまでもときどき、夢みたいって、思うよ」
「そう?」
と答えた百合子は、心からおどろいたふうだった。自信満々につづける。
「はじめて眼があったときからわかったよ。私と雀、ぜったいに仲良くなれるって」
――その瞬間、あたしはわっと泣いてしまいたかった。
電灯の光に照らされた百合子が、まるで光背を背負っているようだった。
こんなに美しい女の子を、あたしはほかに知らない。なめらかな頬も、睫毛も、赤くかじかんだ指先も、すべてが特別だった。祝福された、いのち。あたしには決して触れられない。
百合子。百合子。
けれど、あたしは、百合子から離れたくない。
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