第7話

 それから一週間、百合子は休み、そのまま学校は夏休みへ入った。


 一日目、あたしは先生から預かった期末試験の答案と、課題を抱え百合子の自宅を訪ねた。


 あたしはこのときに至るまで、たしかに大きな衝撃を受けていたのだけれど、それはまた別の話だ。百合子に会ってから、ゆっくり問いただそうと思うので。


 百合子の自宅は駅からほど近い一軒家で、お菓子の家みたいなかわいらしさがあった。


 門前でチャイムを押して、間も置かず、勢いよくドアが開いた。なかから女の人が飛びだしてくる。


 こんなに暑いのに、汗一つ掻いてない。化粧がほどこされた顔には隙がなく、刻まれた皺の奥にこびりついているものは、かつての華やかな時代、時間に押し流された若さだった。この人はとてつもなく美しかったに違いない。大スター。道行くだれもが振りむいてしまうような。百合子の、ママ……。


「んっ。きみ……百合子の?」


 車の鍵をじゃらじゃら鳴らして、いままさに乗りこもうとしていたその人は、門に隠れていたあたしに気づくと親指でサングラスを押しあげた。


 現れた瞳は野生動物を思わせた。縁取る睫毛は黒々として、完璧にカールされていた。


「見舞いにきてくれたんだ? 百合子ね、いま、自分の部屋。二階あがって奥の、ピンクのドアね。じゃ」


 それだけ言い残し、あっという間に出かけてしまった。

 あたしはようやく我に返る。


 まだ抜けきれない興奮に、ふらつきながら重い玄関扉を開けた。一瞬、鼻先を撫でた他人の家のにおい。


 ごめんくださぁい。と、奥へ向かって遠慮がちにささやいてみる。百合子ぉ、いないのー……。


 沈殿しつづけるしんとした静けさが、あたしを、無人の家に泥棒に入ったような気分にさせる。落ち着かないで指同士を弄んでいると、軽やかな足音が耳朶を打ち、階段の途中から百合子がしゃがんで顔を覗かせた。


「いらっしゃい。あがって」


 おりてきて、リビングらしきドアをくぐる。靴を脱ぎ、あたしもあわてて追いかけた。


 きょうはTシャツにジャージ姿の百合子は、適当にまとめた髪をお団子にしていた。うなじの白さが眩しくて、どぎまぎする。いつもは黒髪に守られているはずの頬や首筋が、あらわになって、百合子の肌は白く発光していた。百合子は冷蔵庫から麦茶ポットを出し、抽斗を開け、目ぼしい菓子類を物色しているらしい。


「手伝う。コップ、出してもいい?」

「そこの棚。どれでもいいよ」


 と答えて頭上を眼でさした。あたしは慎重に、カフェで出てくるようなグラスを二つ取りだした。


「具合、もう大丈夫なの」

「いちおう。父につきそわれて一度病院へいったし、大丈夫よ」

「よかった」


 あたしはグラスを見せる。百合子はウムとうなずいてみせた。


「……あれ、きょう、弟くんは」

「うーん、部活だった気がする。ね、雀。貰い物でたっかい洋菓子の詰め合わせあるんだけど、食べちゃおう」

「えーっ、いいの」

「うふ。いいの、いいの」


 いたずらっぽく目を細め、洋菓子の箱と麦茶を抱えて部屋へ向かう。あとに続いてあたしも階段をあがっていった。


「そういえば、さっき、外で百合子のママに会ったよ」


 ああ、と百合子は気のない返事をした。


「きょうね、遅番。だから帰ってこないよ」

「すごい迫力。かっこよかった。いいな」

「ううん」

「そお?」

「くそばばあだもの」

「……ふぅん」

「怒ると鬼になるよ。角が見える」

「うちのママも」

「ふふふ」


 と、目を伏せて笑った。

 けれど、百合子の横顔に垣間見た表情を、あたしは気づかないふりをした。


 湖みたいな。

 いつか家族で旅行したとき、ちょうどそんな湖を見た。冬の天気に暗く沈んだそれは、ぜんぶを呑みこんでしまいそうだった。風もないのに水面に波紋が広がって、それはなにかの息遣いのようだった。あたしは、湖の底でじっと息をひそめている巨大な生きものを想像してみる。とたんに身震いがして、後じさった。すごく寒かった。コートの前を必死で握りしめたのを、いまでも覚えている――


 百合子の部屋は、まるでおとぎ話に出てきそうだ。

 壁紙は淡いピンクで、天井に星空が描かれている。月はなくて、たぶん、暗闇に浮かぶ、星だと思うものたち。黒と藍色が厚く重なりあい、その上に点々と白が散っていた。


「前に住んでた人の趣味みたい」


 肩をすくめて、百合子はベッドに腰かけた。

 百合子の両親が、売り物件になっていたいくつかのなかから、この家を選んだのだという。


「弟はこんな少女趣味いやだって言うし、つまり、余りものってわけ」

「でも、いいなぁ」


 と、あたしは犬だか兎だかよくわからない動物のクッションを抱きしめうめいた。


 小さな折り畳み式の丸テーブルには、運んできたお菓子がいっぱいに広げてある。それらをつまみながら、あたしは麦茶をひと息で飲んだ。肝心なことをようやく思いだしたのだ。

 リュックから答案と課題を取りだして百合子に渡し、思いきりつめ寄って、


「ぜんぜん、反対方向だったっ」

「えぇ?」

「学校から、ここまで、あたしの家と真逆じゃんっ。びっくりしたっ。ずっといっしょに帰ってたの、あれ、なんだったんだろうって……百合子ばっかり、大変で……あたし、ぜんぜん、気づかなくって……」


 あれっ。と、思う。

 またたいていた百合子は、だんだん、正体がばれた怪盗みたいににやにやしはじめたのだ。

 あたし、怒ってるんだけどなぁっ、と目を尖らせた瞬間、勢いよく飛びつかれて、さらにびっくりする。もうすこしで心臓を口から吐きだしてしまうところだった。


「雀はかわいいなぁ」

「あたし、怒ってるんだけどっ」

「うんうん。よしよし」


 あたしへ向けられる瞳はとろけそうなほどやわらかい。背中を叩かれ、首の後ろを撫でられる。くすぐったくて、気持ちいい。これじゃ飼い犬とご主人様だ。

 あたしはとにかく名誉を挽回するために、すぐそばに覗く形のいい耳へ、


「百合子ぅ。あの、あの、窒息が、いい、と、思う……」

「えっ。うぅん」


 百合子の手の動きが一度止まり、ふたたび撫ではじめる。


「あのね。パパが不眠症らしくて、睡眠薬もってたの。眠ってるあいだなら苦しくないでしょ」

「うぅん……」


 するとおもむろに体を離し、本棚から一冊抜きとって戻ってきた。

 それはいつか見た、表紙に蛾が飛んでいる本で、ほこりとカビが混ざったようなにおいがする。百合子はあたしのとなりに座って、まんなかあたりのページを迷わず開いた。


「ねえ。雀、永久死体ってしってる」


 と、ささやく。


「腐らないで、朽ちないで、ずっとそのままなの。切りわけて、四斗樽のなかで流水にさらしつづけて、三七二十一日。このなかではそう。だけど、本当かな」


 百合子は、まるで指先に目がついているように、ゆっくりと文字列をなぞった。

 あたしは急に怖くなって、百合子の瞳を覗きこんだ。夢見るような二つの黒目に、あたしの顔が映る。あたしは百合子の肩に触れた。


「百合子。百合子が殺したいほど憎い人って、あたしはだれだかわかんない。でも、いいでしょ。ね。ふたりで、バラバラにして、埋めよう」



【殺人計画 その三】

窒息。

それから、バラバラに。

必要な道具と、場所の確保。ノコギリと、スコップ?

スーツケースもね。(と、これは百合子の字)


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