第6話
体育が終わってすぐ保健室を訪ねてみると、奥のベッドの周りにカーテンが引かれている。健康だけが取り柄のあたしは、保健室を利用することなんてめったにない。部屋に充満している入りにくい雰囲気に気が引けて、しばらく入口につっ立ったままだった。
デスクに座る妙齢の先生が顔をあげる。厳しい声で、
「あら。どこか具合が悪いの」
と言うので、あたしはすかさず、
「百合子の様子を見にきたんです」
「雀?」
すると返事はカーテンの向こう側からやってきて、あたしと先生はそろってはてなという顔をした。
まず先生がカーテンのなかに入り、続いてあたしも滑りこむ。
あおむけになったまま、いまだ顔色の悪い百合子の、それでもほほえみを向けようとする健気さが痛々しくて、つい外に出ている手を握りしめた。
百合子は二三度ゆっくりまばたきして、そのたび生まれる睫毛の羽ばたきを、あたしはじっくりとみつめていた。
「いま、お昼休み。どう、松川さん、食べられそう?」
と、先生が。
百合子はしばし目をつむって、それから睫毛は伏せたまま、
「まだ、すこし、目眩が。食欲も、あまり」
「うーん、軽い熱中症だと思うんだけど……。ごはん、ちゃんと食べてる。無理なダイエットは体によくないのよ。まあこの年頃だと気になっちゃうのかもしれないわね」
「……気持ちが悪くて」
ピピピ。
という、体温計の音が鳴る。先生はそれを受けとり、
「まだ微熱があるみたいだし、きょうはもう帰ったほうがいいかも。担任、佐藤先生だったかしら。私、午後から出張だから迎えがくるまでいられないんだけど、大丈夫よね? あなた、荷物取ってきてあげられる?」
嵐のように去っていった。
残されたあたしたちは黙ったまま、ただ手を繋いでいた。
昼の保健室はのどかで、ベッドを囲むカーテンが射しこむ陽射しをやわらげていた。埃がきらきらまたたいている。
百合子はいつしか眠りについた。あたしはあくびをしつつ、五時限目のため早々にグラウンドへ出てきた生徒たちのはしゃぎ声を遠くに聞いていた。
一度、クラス担任が様子を見にきた。百合子が眠っているのを確認すると、次に授業が入っていること、退出カードは職員室の机の上に、それから、あたしにはちゃんと授業に出るようささやいて帰っていった。
五時限目をしらせる鐘が響く。あたしは教室にいく気なんかさらさらなかった。
百合子の眠りはいまだ覚めず、顔色が、やっぱり死人みたいに悪い。
そっと手をのばし、閉じた瞼に指先を添えた。分裂して、小さくなって、百合子のなかへ入っていって、百合子を苦しめる元をぜんぶ退治できたらいいのに。
指のすぐ下に感じる百合子の眼球の生々しさに、あたしは震えた。未練が睫毛を撫でさせて、それから膝の上で両手を握りあわせた。
ふいに、扉が開かれる。
肩を揺らして振りむくと、乱雑に開いたカーテンの向こうに、男の子が立っていた。
丸くて大きな瞳、鼻筋が通り、薄い唇。幼いながらもひどく整った顔立ちには、すでに美しさの片鱗があった。
「百合子」
その子はあたしの存在がないもののように、まっすぐ百合子のもとへ向かっていった。
かと言って、揺り起こすようなこともせず。
ぶっきら棒に低めた声は、声変わりのまだきていない、澄んだものだった。
「姉さん、起きるんだ。家へ帰ろう」
うらはらに大人びた口調でそう言うと、やがて百合子が眉間をしかめた。
ゆっくりと瞼が持ちあげられる。
傍らにたたずむ弟の姿をみつけて、百合子は顔によぎったかすかな驚きを打ち消すように、
「……へえ、あんたが迎えにきてくれたの」
あたしは見たことない親友の冷ややかさに固唾を呑んだ。
けれどそれも一瞬のできごとで、体を起こした百合子はすでにいつもどおりに、
「じゃあ。雀、帰るね」
「う、うん。また」
「ごめんね、授業、始まっちゃったでしょう」
「いいの。先生、授業だからあいさつはいいって。カードあたしが出しとくよ。ゆっくり休んで」
「ありがと」
と言って鞄を手に保健室をあとにした。名前もしらない百合子の弟が、その背中を追いかける。と、去り際おもむろに振りかえり、冷たい一瞥を投げつけていった。
残されたあたしは放心したようにドアを眺めつづけた。
……それがどんな世界なのか、あたしはわからない。
血の、つながらない、姉弟。
昔に聞いた噂は本当だったのだろう。あの二人からは、家族のにおいなんてちっともしなかった。
愛よりも憎しみ。
憎しみよりも……。
もっと、もっと、心の奥底でとぐろを巻いた感情が。二人のあいだにあるのだろうか。それの名前がなんなのか、あたしには答えが出ない。
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