第5話


  雀、十六歳



 春。

 目覚めの、季節。


 高校生になったからといって中高一貫校なので、顔触れはあんまり変わらないし、おんなじ通学路をたどって、いままでどおり古い校舎に通うだけ。


 うれしかったのはひとつ、百合子と同じクラスになったのだ。あたしたちはここぞとばかりにいっしょにいるようになった。


 それで、吹く風にもう身をすくめなくてもよくなった、ある日の帰り道。


 駅のホームで電車を待っていると横からとつぜん手紙がさしだされた。おどろいて振りむけば、眼鏡をかけた、いかにも優等生風の男の子がうつむきがちに立っている。


 チューリップ模様のかわいいシールでとじられた白い封筒と、耳をほんのり赤く染めた男の子の態度はどう見ても告白現場にふさわしく、あたしはそれらを見比べながら、


「あ……えっと、あたしに?」


 聞いてから、しまった、と恥ずかしくなる。


 あたしは仲介役なのだ。このラブ・レターを百合子に渡してくれということなのだろう。


 でもなあ、と苦笑いしつつ、受けとろうと手をのばす。


 こういうのって、自分で直接渡さなきゃいけないと思う。そういう気概みたいなのが、恋の試練には必要なんじゃないかしら?

 すると男の子は眼鏡を押さえ、


「そうです。あなたに……」


 あたしの手のなかに手紙を押しこんで、あっというまに去ってしまった。

 その後ろ姿を呆然と見送る。視界の外からぬるりと白い手が現れて、事もなげに手紙をさらっていった。


「いまどき古風なことするわねぇ」


 百合子が髪を耳にかけながら、封筒を灯りにかざし、猫みたいに笑った。


「あっ、ちょっと」

「あの男、雀の少女性にまいっちゃったのよ」

「少女性ぃ? なにそれ」

「いつまでも少女であること」

「それ、褒めてる?」

「もちろん」


 百合子は満面の笑みでうなずいたけれど、顔の中心で輝く二つの瞳だけはぞくりとするくらい真剣で、あたしはつい封筒に手をのばした。


 それから、唇を尖らせて封を切る。生真面目に折りたたまれた便箋もやっぱり清潔なほどまっ白で、あたしはよけいどぎまぎしながら、男の子らしい筆跡の文字列を追っていった。


「彼、なんて?」

「……毎朝同じ電車に乗ってたみたい。もう、百合子、覗かないでよ」

「はいはい。うわっ、あいつ、二駅先の超進学校の生徒じゃない。高二。名前のそばにふつうこんなことまで書く? 真面目くんなのかしらね?」

「百、合、子」

「はぁい」


 頬がくっつきそうなほど頭を寄せてくる百合子を間近でにらんで言うと、ようやく身をひるがえして離れていった。残り香が鼻をかすめる。


 咳払いをしつつ、あたしは便箋と封筒を急いでスカートのポケットにしまった。鼻先をつんとそらして、


「からかってばっかで、いいの、あたし、あの男の子とつきあっちゃっても」

「それは雀が決めることだから」

「えっ」

「そうでしょ。当人同士の問題ってやつじゃない」

「そうだけど……でも、いいの、こうやっていっしょに帰れなくなっちゃうかもしれないんだよ」

「べつに」

「ふぅん」

「どうせ雀はすぐ私のところに帰ってくるもの」

「……言うよねぇ」


 百合子の態度は薄情と思えるほど清々として、同じくらい自信で満ちていた。


 あたしはホームに響きはじめた発着を知らせる放送に耳を傾ける。


 そもそも、ついさっき存在を知った相手なのに。あたし、百合子に反対してほしかったのだろうか……。


 やってきた電車の扉が開き、なかから乗客が降りてくる。


 脇に避けて待つあいだ、ふと、百合子が腕を絡めてきた。あたしの心臓の震えに気づいているのか、いないのか。百合子はそのまま耳元に唇を近づけて、


「あんな男とつきあったくらいで、雀はすこしも変わらないから大丈夫」


 はたして、その通りだった。


 お友達からでも、ということだったので、あたしたちはとりあえず友情を結んだわけだけど、向こうから触れてくるようなことは決してなかった。ちょっと肩がぶつかっただけで、あわてて謝られたほど。これじゃうっかり話しかけることさえできない。


 女の子同士なら、じゃれあって抱きしめたり、手を繋いだりなんてふつうなのに。友情のスキンシップって、異性のあいだではもはや異文化に等しいらしい。


「友達ってことなら、私が遠慮する必要はないよね」と言ったのは百合子で、あたしはそれがうれしかった。


 帰り道や、休みの日、あたしたち三人はつるむようになった。といっても、彼は塾があるらしいので、めったに会わなかったけれど。


 例えばいっしょに映画を観にいくと、席はあたしがまんなかで、百合子はずっとにこにこ笑っていたし、反対に彼は押し黙っていた。


 二人きりの時間は朝の電車だけで、そういうときふしぎと彼はよくしゃべった。それに、帰りに百合子がたまたまいない日も、なんだかほっとしているみたいだった。


「松川さんって、すこし怖い感じがするね」


 と、困ったような笑い顔で言われたのはいつだったか。


 理知的に話す声は相手から反論の勢いを削いでしまう。あたしは、そうかなぁ、と首をかしげるだけだった。あんまりに美人がそばにいると、男の子っていう生き物は緊張しちゃうんだろうな。


 その後も、あたしたちの友情はとくべつ発展も後退もせず、そういう平穏な日々の合間に、退屈した神様が落とし穴を作ったような突然さで、ある日。百合子が倒れた。


 梅雨が明けた七月中旬、体育の授業中のことだった。


 バスケのチーム戦のさなか、最初はなにが起きたのかわからなかった。


 いつもなら待機中のチームの子たちが、それぞれ邪魔にならないところで試合が終わるのをぼうっと眺めているはずだった。雑談なんかしたら、先生が笛を吹き鳴らして怒るのだ。


 それがきょうは違った。体育館のすみから生まれたざわめきは水溜まりみたいにどんどん広がり、あたしがシュートを決めて振りかえったとき、泥水はあたしの爪先まであふれていた。


 人だかりに目を凝らし、呼吸が止まる。「松川さんが倒れた」という、だれかのつぶやきが脳味噌をガツンと殴った。


 先生が百合子を運んでいく。


 腕が、だらりと垂れて心もとなく揺れていた。


 ――あたしは動けなかった。


 最後に見た、閉じられた瞳と、蒼白い顔が。

 床に伏す百合子のからだが。

 目玉に焼きついて離れなかった。

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