第4話

 この町にも北風が吹いて、ときは、十二月。


 図書室の机が高校三年生で埋まり、なんとなく空気が張りつめるようになり、あたしたちの足は密会の場所から離れてそのまま帰路につくことが多くなった。


 計画は、なかなか、すすまないまま。


 時間の流れに、押し流されそうだった。


 バスに揺られて、眠る百合子のしあわせな重さを肩に感じながら、あたしは暮れていく空を眺めている。空の底に光が溜まって、虹の層ができていた。層のいちばん上は透けるような青で、天頂から覆いかぶさる藍色の闇にいまにも溶けてしまいそうだった。一番星が、いつからか輝きはじめていた。


 そういうのを、みつめて。


 あたしは百合子の頭に鼻先をうずめた。


 百合子の髪は暖房に温まって、かすかな汗と、花みたいなにおいと、いまだ絡みつく木枯らしのさみしい香りがした。


「百合子」


 と、あたしは心のなかで言う。

 殺したいほど憎い人って、だぁれ。

 電車のなかは混んでいる。


 入口のそばに立ったまま、ことばを交わすこともなく、百合子はすすけた黒い表紙に蛾が一匹描かれた、やけにぼろぼろの本を読んでいた。あたしは変わらず外を眺めながら、実は窓ガラスに浮かんだ百合子を観察しているのだった。


 ガラスは、いまでは鏡になって、夜の景色に半透明の百合子の姿を映しだしている。


 町に重なって流れる百合子。すると、まばらに灯りの点く建物や、木々や、園田なんていう見飽きたはずの風景が、とてもきれいなものに見えるのだった。


 やがて最寄り駅の名前が放送されて、あたしはパスケースに触った。


 乗客が数人、目覚めたように動きだして、扉のそばにたたずんだ。


 電車がホームになだれこむ。


 百合子は本を読みつづけている。

 ふと顔をあげて、なにかを考えるそぶり。

 ……目を伏せる、癖。


「百合子」


 あたしはまっすぐな睫毛にささやきかけていた。


「家、くる?」


 やがて発車メロディーが耳の奥をくすぐって、扉が閉まり、轟音とともに電車は走り去っていった。


 未練のように巻きおこった風が、スカートのすき間をすり抜けて、電車が消えていったほうを追いかけていく。


 あたしたちは手を繋いで、ぽつりと灯りのともるホームを階段めがけて走っていった。


 あたしの家は駅から自転車で二十分くらいのところ。住宅地の道路沿いの一角に建つごくふつうの一戸建て住宅で、祖父母と父母とあたし、それから十歳になる柴犬といっしょに暮している。


 玄関の扉を開けると、リビングから顔を覗かせたママが目をまん丸にさせて驚いた。百合子が行儀よくお辞儀すると「あら」を五回もくり返して、熱心に夕飯に誘った。


 それからママはずっと上機嫌で、ご飯も心なしか豪勢だった。若いころ、モモエちゃんだったか、セイコちゃんだったかアイドルの大ファンだったらしいので、美少女に目がないのかも。


 百合子は、優等生的ほほえみをはりつけ、ママのマシンガントークに健気に相槌を打っていた。あたしはひたすら、恥ずかしいのと、もうしわけないのとで不機嫌だった。せっかく百合子が家にきたのに。自己嫌悪に沈んで、よけい唇をへの字にしてしまう。なんていう、悪のサイクル……。


 帰り際、歩道に自転車を寄せて謝ると、百合子はゆっくりと首をかしげて考えるそぶりをした。門灯に照らされ輪郭がにじんでいた。


 そのうち、マフラーのすき間からまっ白な息を吐いて、


「雀と、お母さん、どことなく、似てたね」

「ええーっ。どこがっ」

「笑いかた。顔のぜんぶで笑うよね。私、すきだよ」

「ええー。うーん?」


 髪の毛の下で耳が熱い。あたしは頭をゆらゆら揺らして、自転車にまたがると洟をすすった。顔だけ振りむいて、


「百合子、乗ってっ」


 デートに誘う男の子みたいに爽やかなポーズをする。


 百合子は軽やかに荷台へお尻を乗せた。あたしの腰に腕を回して、お腹の前で指を絡めた。


「雀、連れてって」

「どこまでも」

「どこまでも」

「ふふっ」


 あたしはおもいきり地面を蹴った。力いっぱいペダルを漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ……。

 ヘッドライトが暗やみをちかちか切り裂く。

 凍てついた風が細胞の奥までしみわたる。

 たった二十分の逃避行。

 だけど、なんて、幸福な。

 背中に感じる百合子の体温があたしの燃料だ。どこまでも、永遠に、漕ぎつづけていけるのだ。


「雀。雀、星がきれい」


 と、背中で、百合子が。


「見て」

「えっ。うん。でもねぇ、上むくと、バランスが」

「いいから。転んでもいいよ」

「うぅん……」

「落っこちてきそうだよ」

「このあたり、ほんと、田舎で。コンビニだって。なんにもないから」

「雀ってば」

「うぅん」


 ちらちら上空を伺いながら返事をする。しゃべるたび口から白い煙が飛びだしてきて、あたしはなんだか自分が蒸気機関車かなにかになった気分になる。


 コートの上から百合子にお腹を撫でられて、ついに地面へ足をついた。急に現実が体にぴったり収まってくる。幽体離脱していた魂が、自分の体に戻ってくるのって、こんな感じなのかもしれない。


 あたしは空を仰いだ。するとつい口も開いてしまう。


 あっ、と思う。


 星が、飛びこんできそう。

 ちりちり。ちりちり。

 輝いて、いる。


 気づくとあたしは百合子の手を握りしめていた。そうしないとたちまち夜に吸いこまれてしまいそうだった。


「……雀は、いつかはきっと目を覚ますよ」


 とつぜん、宙にことばが響く。それは老女のようなしわがれた声だった。

 あたしははっとして前を向く。頭から血の気が引いて、衝撃の波が心臓にうち寄せてきた。


 唇を噛んで、離す。深呼吸をする。しんから冷えた空気が、いまは心地いい。


「いま、なんの本読んでるの」


 と、ひとつずつなぞって言う。

 しばらくの沈黙ののち、


「……乱歩……」


 という、いじけたつぶやき声が返ってきた。


「完全犯罪、できそうっ?」

「……みつかったって、いいの」

「ええっ。どうして」

「すこしのあいだ逃げられれば。そしたら捕まったっていいよ」

「でも、だって、計画立ててるんでしょ、完全犯罪の?」

「違うよ」

「えっ」

「いちばんいい殺し方を探してるの」

「でも、でも、捕まったら死んじゃうじゃん。死刑だよ。たぶん」

「だから」

「うん」

「だから、雀。いまだったら戻れる。ごめん。雀はきっと、私を心から憎いと思うよ。だからいまのうち、わるい夢をみたと思って、逃げて」


 あたしは、勢いよく自転車から立ちあがった。百合子があわてて地面に着地してすぐ、自転車は畦道に向かって盛大に倒れた。


 ……すごく、おどろいたんだけれど……。暗がりでもわかるほど、百合子の瞳は濡れていたのだ。


 あたしは急に挙動不審になって、黒目をさ迷わせたり、両手を振ったりしながら、


「でも、でも、でも……殺したいんでしょ?」

「……うん……」


 百合子はやっとうなずくと、両手で顔を覆ってさめざめと泣きだしてしまった。


 すき間風のように、唇のあいだから長く尾を引く泣き声は、例えばママとか、女の人の泣くのに似ていた。口のなかに広がる暗闇から女の悲しみを引きずりだしているような。


 あたしは動けず、百合子をただみつめる。


 真冬の風に曝されつづけて、鼻先の感覚がなくなって、耳の奥が重かった。

 そういう寒さのせいか、絶望がのしかかってくるからか、百合子の肩は震えていた。それでも、光の帯は彼女を包んだまま。けっして百合子を手放さない。飛び散った光の粒が、みつめる者の目に突き刺さる。


「いいよ」


 と、あたしは言った。

 百合子が駄々をこねるように首を振った。


「あたし、逃げない。どこまでもいっしょにいってあげる。いいよね」


 それから自転車を起こし、百合子の手を引っぱってまたがった。


 ペダルに片足をかけてじっと百合子が乗るのを待つ。しばらくして、洟をすすりながらお尻を乗せたのを確かめ、あたしはペダルをふたたび踏んだ。


 駅に近づくにつれ灯りは一気に増えてくる。


 白い息をふうふう吐いて漕ぎつづけ、コンビニや、スーパーを通りすぎていく。おもむろに、耳の後ろに唇が近寄ってきて、


「ありが、とぉ」


 あたしは自転車を漕ぐ足にぐんと力をこめた。

 守ってあげたい。

 百合子が、いま、世界でいちばんか弱い存在に思えた。


 やがてあたしたちはホームに降りたった。


 ちょうど入ってきた電車に百合子は乗りこむと、束の間目を伏せてから、不器用に笑って手を振った。泣いたせいで、目元が赤くなっていた。


 たちまち、あたしはこれが百合子の本質なのだと知った。か弱い、女の子。それでも、いまだ、人間のもとには落っこちてこない。神聖さはなくならない。


 ため息のような音をたてて扉は閉まり、あたしたちのあいだに隔たった。


 ゆっくり、遠くなる。


 煌々と照る車内はがらがらに空いていて、手摺りに掴まる百合子の白い顔だけが、ぽっかりと浮かんでいた。



【殺人計画案、その二】

苦しくない方法。

一酸化炭素中毒。つまり、練炭。もしくは、ガス漏れ。

これなら寝てるあいだに死んでしまうから、痛くない。


やっぱり睡眠薬は、必要?


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