第3話
夏休みが明け、あたしと百合子の関係が劇的に変化したかというとそうでもなく。つまり放課後にときどき図書室で会うくらいの関係だった。勉強をしたり、百合子は本を読んだり。それで、下校時刻の放送を聞き流しながら、いっしょに帰るのだ。
クラスメイトには内緒の、密会、にあたしはどきどきして、ただでさえ嫌いな勉強がもっと手につかなかった。なにより、気になっていることもあったので……。
殺、人、計、画。
口のなかで転がすと、冷たい指先でなぞられたときみたいに、背中がぞくりと震えることば。
でも、さらに噛んで飲みこめば、ぞくぞくっ、がやってくる。内臓ぜんぶが震えだす、正真正銘、ふたりの秘密。
……でも、手伝うって、なにをすればいいんだろう。
十五年生きてきて、あたしはだれかを殺したいと思うことって一度もなかった。
まっ赤な炎。
燃える激情が、いま、百合子のなかに、あるんだろう。
あたしは宙をにらんで考えこんだ。悩んでる、ふりっ。だってあたしはばかなので、ぜんぜんわかんない。
ぼんやり思考にふけっているとだんだん口まで開いてきて、「雀、いま、なに考えてるの」と、向かいに座る百合子がおかしそうにくすくす笑った。恥ずかしくなってあわてて唇を一文字に結ぶ。
いつも通りの百合子。あの日なんてなかったような。
けれどたしかに夢じゃない。
あたしは直角になるくらい首を傾けて、読書にふける百合子の睫毛をこっそりと見た。
ね。ね。殺したいほど憎い人って、だぁれっ。
残暑が過ぎ、なんとなく肌寒い日が続くようになって、あの夏の逃避行のなごりが皮膚からぽろぽろとこぼれつつあった、ある日。図書室の一角で。
あたしは鞄から一冊のノートを取りだした。まっさらな、新品の。
百合子はノートを手に取ると、さらさらと頁をめくっていって、首をかしげた。
「ノートだね」
「うん。ノート。……これを、あたしと百合子のノートにしたいなって、思ったんだけど……だめかな」
と、あたしはとなりに座る百合子をうかがった。手のひらは汗で濡れている。緊張しているのだ。
殺人計画。あたしと百合子だけの。それを、あたしは眼に見えるものに留めたくなってしまった。紙の上でさざめく文字たちを、一晩じゅう眺めたり、ときには抱きしめたりできたのなら、どんなに幸せだろう。
あたしたちはみつめあった。ほんの短い時間の、視線の交わり。あたしはあっと息を呑む。
信号だ!
百合子の瞳から飛びだした電信が、あたしの電信とぶつかって、弾けて、星みたいにまたたいたのを、たしかに見た。
百合子も気づいているのだろう、
「なるほどね」
と言って、あたしのシャープペンシルを拾いあげた。一ページ目をめくって、一行目に、
【殺人計画、案その一】
と、書いた。
あたしは頬が熱くなるのを感じた。ノートを覗きこんで、ふぅむと顎に手をそえてみせた。
それから百合子はすこし考えたあと、唇を開き、
「痛くないのがいいな」
と、ささやいた。
「刺すのとか、殴るのとか。痛いでしょう。すごく」
「うん。すごく……痛いと思う」
と、あたしはノートに書きとめながらうなずいた。本当はちょっとだけどぎまぎしていたのをごまかしたくて、
「じゃあ、睡眠薬をさ。たくさん飲ませるっていうのはどう」
「インターネットで調べてみたんだけど、いまのは、昔と違って大量に摂取したからってうまくいくとは限らないみたい」と、きれいな形の眉を難しそうにひそめる。
「ふぅん」
「それで、いろいろ勉強中」
そう言って掲げたのは『シャーロック・ホームズ』だった。
「完全犯罪とか、できそう?」
「ええ? どうかな」
「でも、中学生の女の子が犯人だなんて、思わないよ、ふつう、みんな。たぶん」
「ふふ」
声をひそめて笑いあう女の子たちが、まさか、殺人を企てているなんて。せいぜい小説の話だと思うくらい。こんな身近に犯罪者がひそんでいるわけないのだと、だれもが根拠なく信じているのだ。
*
数日後の、昼休み。仲のいい友だちと四人で机をくっつけてお昼ご飯を食べていると、とつぜん一人が改まった調子でささやいた。
「再婚、らしいよ」
みんなが疑問符を浮かべるなか、その子は箸で黒板の向こうをさして、
「松川百合子」
あたしはその名前にぎくっとして、つまんだミニハンバーグを落としそうになった。
おそるおそる視線をあげる。みんな、無責任な噂をするときの、あの薄情な顔をしていた。興味がないふりをして、本当はちゃんと耳を尖らせているのだ。あたしもいま、そう。気づいたとたん鼻をつまんだ。
「お母さんが看護師で、相手が医学部の教授らしくって、それで再婚したんだって。松川さんは母親の連れ子で、義父っていうの? そっちにも息子がいるみたいよ。小五……か、六の」
「なんで看護師と教授が知り合うのよ」
「知らない」
「なぁにそれ、だれに聞いたの」
「職員室で先生が話してるの、すこしね。……あれっ、えっ、なんで。ちょっと雀、息してる?」
「またあんたは、なにやってるのよ、雀」
両方の耳朶を友だちのあきれ声がたたく。
あたしは鼻をつまんだまま、ぐうぅ、と死にそうな獣みたいにうなった。
天上から、地面へ。
女の子たちの好奇心が、百合子を押さえつけて、謎という名の羽をむしゃむしゃとむしり取っていく。
傷ついた翼の、百合子は、だけどまとう光をさらに輝かしくさせる。
そうして依然、燃えさかる。まっ赤な炎。
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