第2話
夏休みがやってきて、あたしはほとんど毎日市営のプールに通っていた。学校へいくには電車とバスを使わなきゃいけないし、一時間もかかるし。そもそも学校にはプールがないから。
おかげで肌はすっかり焼けて、水着の跡とあわせるとへんてこな模様みたいで、お風呂に入るときはつい笑ってしまう。
洗面台の前に立って、鏡に映ったあたしの裸の、焼けてない部分――たとえばお腹、を撫でてみる。どこもかしこも頼りなくって、植物じみた手足がひょろりと動く。鏡にうんと顔を近づけると、頬や鼻に散らばったそばかすに目がいった。へらっと笑顔をしてみせる。それからすぐに、唇をぎゅっととがらせた。
思いだすのは松川百合子の、なにものにも侵略されない肌だ。
廊下ですれ違うとき、窓からグラウンドを見おろすとき、はたまた全校集会の人いきれのなかで、百合子のからだは、いつだって光の帯をまとっていた。
制服からのぞく手足はのびやかで、注意深く傾けたあたしの耳には、光の粒たちのささやき声が聞こえてくる。そのうち肌からこぼれたものが、地面を跳ね、宙を転がり、あたしの睫毛の上で踊った。あたしはあわてて瞼を押さえる。けれどもあっというまに逃がしてしまう。妖精みたいな百合子の一部。それにいつか、あたしはふれてみたい。
松川百合子と話したことは、一度だってなかった。ふしぎな魅力を発散している彼女のそばには、いつだってだれかがいたので、あたしは近づく隙を持たなかった。すれ違いざま、友だちとふざけあう合間に、あたしは彼女の横顔とか、後ろ姿を盗み見るのが習慣になっていて、それから風に乗って運ばれてくる声に耳をすますのだ。
夏休みが明けたらなにかが変っていればいい。プールの生温かい水にひたりながら、あたしは毎日そんなことを祈っている。目をきつく閉じて開けた瞬間、まっ白の光が視界を包みこむみたいに。なにもかも一変していたらいい。
――たとえば……。ただの同級生じゃない、目が合えば二人だけの信号を送りあうような。触れた指先から電波が流れていくような。そうじゃなくても、あたしはもう一度、あのまなざしにさらされたい!
と、思ったところではっとして、浴室へ駆けこんだ。体を洗うのもおざなりに、湯船の底までざぶんと沈む。たちまち、うおぉぉっ、と獣じみたうなり声をあげてお湯のなかから飛びだした。顔をぬぐって、頬に張りついた髪を掻きあげる。汗がじわじわと浮かんでくる。鼻の奥が、つんと、痛い。あたしはおもむろにシャンプーボトルへ手をのばした。
課題のいくつかを学校に置いてきたのに気づいた、夏休みが終わる四日前のこと。
電車とバスを乗り継いで、たっぷり一時間かけてたどり着く。あたしは無事にロッカーから問題集やら教科書やらをリュックにつめる。
だれもいない廊下はふだんとぜんぜん違って、ひっそりしていた。なんだか、知らない場所に迷いこんでしまったみたいで落ち着かない。息を殺して、廊下の行き止まりをじっと見た。
階段の曲がり角から、だれかがひょっこり顔をのぞかせたら。それが、先生だったら、どうしよう。課題を忘れていたことがバレて、きっと大目玉を食らう。いけない、いけない。
あたしは、あわててリュックを背負う。走ってきたせいで背中にたくさん汗を掻いて、上着が気持ち悪かった。開いたままの窓から温風が吹きこんできて、あたしの前髪を持ちあげていく。ふと、蝉の声にまじって、中庭を挟んだ向かい側の教室棟から、喧噪がやってきた。
時刻はだいだい十二時。夏期講習に駆りだされた高校生の先輩たちが、解放されてお昼ご飯を食べている時間。
そう思うと急にお腹が空いてくる。さあ、早く、帰らなきゃ。きびすを返した、そのとき……
カタン、というかすかな物音がして、あたしは振りかえった。
となりのクラス。
忍び足で近づいていき、ドアの、顔の高さにはめこまれたガラス窓から、なかを覗いた。
……うぅッ。
気づくと、あたしは小さくうめいている。
松川百合子が。
教室のまんなかで、どうしてか机の上につっ立っていた。
ずらりと整列している机の一つを、裸のかかとが踏みしめている。横顔は目を閉じて、天を仰いでいるようだった。
まるで、ステンドグラスに描かれた聖処女だ。陽の光を浴びていろいろに輝く。それは絶対不可侵の輝きだ。もう、二度と手が届かなくなってしまいそうな――
「なに、してるのっ」
あたしは気づいたら、ドアに手をかけていた。
すると百合子の瞳がぱちっと開き、あたしのことをみつけたとたん、とろけそうな笑顔を浮かべて、
「雀っ」
なんと、ずうっと前からの親友同士みたいに駆け寄ってきたのだ。触れてきた手の感触にむずむずしつつ、あれっ、あたしたち、生まれたときからいっしょだったっけ、と首をかしげてしまったほど。
「なぁに、百合子っ」
あたしも負けじと手を握りかえして、にっこり笑った。
百合子は満足げな顔をする。とつぜん、繋がったままの手を引いて、
「いこう」
「えっ。どこに」
駆けだした。
廊下を走り、昇降口を抜けて、いつのまにかあたしが手を引っぱる側になっている。あたしたちは高らかに笑いながらバスに乗りこんだ。ほかに乗客はだれもいない。
座席に座って、百合子は息を弾ませながらポケットを手探りした。取りだしたのは靴下だった。ローファーを脱いで、座席に裸足を片方ずつ乗せて靴下を履いていく。すらりとのびた百合子の白い脚。あたしはつい、見てはいけないものを見てしまった気持ちになって、どきまぎと視線をそらした。それで、気づく。百合子がこんなにも近くにいる。肩が触れ合うほど。
そうして間近で見るその顔は、おどろくくらい目鼻立ちが整っている。おんなじ生き物だとは、ちょっと思えない。肌なんか溶けかけた氷みたいで、透きとおって、なめらかで、なまめかしい。走ったせいか、盗み見た頬はちょっとだけ色づき、乱れた前髪が、形のいいおでこにはりついていた。
駅に着くと、あたしたちはまずコンビニに寄った。
百合子は、いまではすっかり学校で見かけるときと同じ、澄ました顔に戻ってしまっている。それで棚のほうにはぜんぜん目を向けないで、あたしの手をきつく握りしめていた。あたしがレジで会計をしているあいだも。
か細い腕からのびる手が、逃がさないわよぅ、という信号を送りこんでくる。あたしたちは姉妹のように寄りそっていた。
ホームに入るとちょうど電車が滑りこんできて、あたしたちは、細長いシートの中央へ並んで腰かけた。車内は弱く冷房がかかっていて、ひんやりしていた。
乗客は、小学生くらいの男の子と、大学生らしい三人組、あとは彫刻みたいにじっと目をつむったまま動かない、おばあさんだけだった。
ドアのそばで、大学生たちが会話している。ぽつぽつと漏れる、サークル、とか三年が、とか、ゼミ、ということばたちが、異国のもののように聞こえる。
小学生は、いちばん隅っこで、鞄を下敷きに問題集を解いている。消しゴムのカスが足元にたくさん散らばって、頭にかぶったままのキャップが、小さな顔にあわい影を落としていた。
それから見あげた先で吊り革は、たくさんの人の手垢にまみれてくすんでいる。それに、ドアが自動でも、ボタン式でもない、手動だったから、もしやと思っていたら。やっぱり車内案内の電子パネルがない、古い型の電車だった。ちょっと居眠りしたら、自分がどこにいるのかわからなくなってしまうやつ。この電車に乗ったら、車掌の声にじっと耳をすましてないといけない。けれど、肝心の声はたいがい低くつぶやくようで、電車の揺れと相まって、まるで子守歌だ。
あたしは買ったばかりのペットボトルのふたを開けた。炭酸水がほろほろと喉の奥を通り過ぎていって、胃が冷たくなる。
しばらくじっとしていると、聞こえてくる、冷房のふきだし口から吐きだされるうなりと、電車の揺れ。断続的な。窓の外で輝く太陽が、頭と首の後ろをじりじりと温めた。冷房の風がときどき制服をはためかせる。あたしはだんだん眠くなって、大きなあくびを一つした。
手は、つないだまま。百合子の手のひらは、真夏なのにひんやりと気持ちいい。
乗ったのは下りの電車で、このまま降りなければあたしはそのうち最寄りの駅に到着する。知らなかっただけで、百合子もそうなのかもしれない。
「百合子、どこで降りるの」
あたしが眠気の抜けない声でささやきかけると、百合子はちらとこっちを見て、
「どこだと思う」
「えっ」
「ずっと乗ってたらいけるところだよ」
「ど、どこだろう」
「どこまでも」
と言った百合子が、どうしてか迷子の女の子みたいで、だけど気づいたときにはとっくに十四歳の少女に戻っている。
それから、これもきょう知ったことだけど、百合子はよく伏し目がちになった。話している途中とか、外の景色を見ている合間にもそれはしばしば現れて、どうやら長いあいだに染みついている癖らしかった。
百合子がふと目を伏せるとき、あたしはくらくらした目眩を感じた。
ぱちぱちとまたたき、黒々とした長い睫毛が百合子の頬に影を作る瞬間、なにか荘厳な儀式に立ちあっている気分になって、目玉の奥が熱ぅくなるのだ。
「百合子」
と、心のなかでささやいてみる。
胸のあたりで金平糖が弾けて、すごく、あまい。
百合子はとなりで景色をみつめている。
線路は、つづく。
おばあさんと小学生が、やがて大学生たちが、ぽつぽつと降りていって、いつからか乗客はあたしたちだけになっていた。
窓の外では田園風景がえんえん流れていく。見慣れた景色に、そろそろだ、と思う。リュックにぶら下げてある定期にそっと触って、あたしは百合子になんて言おうかなあと考えていた。
すると見計らったように、百合子が
「ねぇ、雀」
あたしはびっくりして振りむくと、彼女は前を見たまま、
「私、殺したい人がいるの」
えっ。という、空気漏れみたいな、声ともいえない、音、があたしの口から飛びだしていった。
最初は、あたしが聞きまちがえたんだろうな、と思った。
その小さくて、薄い、血の色みたいな唇から、まさかあんな物騒なことばが紡がれるはずがないから。
けれど百合子はもう一度、一音一音を舌の上で転がして確かめるように、
「殺したい、人がいる、の……」
涙のまじった、声で。
はっとするほど強く、絡めた指に力をこめて
「雀。手伝って」
と、言った。
車掌の声が、低く、ため息のように車内に流れて、やがて電車がホームに滑りこんでいった。
機械のうなり。鼓動のような。
あたしたちは、いま、お腹のなかにいる。
なので、安全、なのだ。
大丈夫、なのだ。
「いいよ」
あたしはやっぱり、指先に力をこめ返して、うなずいた。
もうずっと、どっちがどっちなのかわからなくなりそうなほどくっついたままなのに、百合子の手のひらはいつまでも冷たいままだった。
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