美穂与『幻森』
むかしむかし、大きな戦争が起きる前のこと。私たちの住む村には、ある場所に入ってはいけないという言い伝えがあった。
その場所とは、村の外れにあった古い樫の木のさらにその向こうの森のことだ。村の子どもたちが度胸試しで樫の木の奥に行ったとしても、鬱蒼とした森の空気に呑まれ、すぐに引き返してしまう。そんな空気がその禁忌の森にはあった。
私は幼い頃、この禁忌の森に迷い込んだ。その日は、朝目覚めた時から何かが違っていた。
前日、兄の語る怪談話に夢中になって遅くまで起きていたはずなのに、祖父が声をかけてくる前にはっきりと目覚めたのだ。加えて、いつも水を浴びるまでは寝惚けて朦朧としている意識すらも研ぎ澄まされていた。
その証左として、朝食を食べ終えた私のもとに、夏が終わり冷えて引き締まった秋の風に乗って、森の声が聞こえてきたのである。森は、男とも女ともつかないような不思議な声音で、「こちらへ……こちらへ……」と繰り返しているようであった。その声は誰のものか見当が付かないはずのものであったが、私には不思議と禁忌の森からの誘いであると直感された。
もちろん家族に加えて、村外れに住む婆に至るまで村中の大人から入るなと言われていた森である。すんなりと決意できるものでもないが、禁じられると興味が湧くのも子供心。まして森から呼びかけられているのなら無視する必要もない。
そう考えた私は、学校が終わり家に荷物を放り投げるとすぐに、弟のTを連れ、森へと向かった。弟は私の五つ下で、普段なら森の方に行くというだけで泣き出してしまう位なのに、その日は不思議と拒まなかった。今思えばそれも特別な予兆か何かだったのかもしれない。
ともかくも禁忌への境となっている樫の木を意気揚々と通り越した私たちは、早々に迷ってしまった。呼ばれるがままに向かったのだから、迷ったというのもおかしな話だ。
が、朝に聞こえて来ていた森からの声は既に聞こえなくなっていたし、どこに行けば良いか分からなくなっている私たちにとってその状況は、迷子以外の何でもなかった。
生い茂った木々によって太陽が隠され、空気はひんやりとして来ていた。家を出る時は強気で意に介していなかった弟も、事ここに至ってはさすがに怖くなってきたらしく、少しずつぐずり始めた。
私たちの歩みは、次第にのろくなっていった。
そんな時、ふと、森の冷たい空気にそぐわない、温かく柔らかな風が一陣、吹き抜けた。その風は、もう既にこの世にはいない母や祖母を思い出させる温かさを持っていた。
弟も思うことは同じだったようで、「お兄ちゃん、お母さん! お母さんだよ!」と声を上げた。
私たちは、風に背中を押されるようにして元気を取り戻し、森の中をずんずんと歩いて行った。雨が溜まって湿地のようになっている所も、気味の悪い虫たちがうじゃうじゃ蠢いている所も、どんな動物が中にいるか分からない巣穴がぼこぼこ開いている所も。
私と弟は、ずんずん、ずんずん進んで行った。
どのくらい歩いただろう。気付けば森は開けて晴れ間が広がっていた。そして、そこには村とは言えないまでも、何人かで住んでいるのだろう集落のような小屋がいくつかあった。
私たちは思わず顔を見合わせた。まさか禁忌と言われていた森の奥に誰かが住んでいるなどとは思ってもみなかったのである。どんな人がいるのだろうと思っていると、小屋の一つから弟と同じくらいの年の女の子が一人出て来た。
「キミたち、どうしたの?」
真っ直ぐな瞳で聞かれて、私は戸惑ってしまった。しどろもどろになりながらなんとか迷ったことを伝えると、少女は私たちに家の中に入るように言った。
お邪魔します、と告げて中に入ると、中には少女の家族と思われる人たちがいた。不思議なことに彼らはとても小柄で、当時の私とほとんど変わらないくらいの身長しかなかった。
「あら、ここに人間が来るのは久しぶりねえ」
そう言いながら小柄な女性の一人が見たことのないお菓子を持ってきてくれた。少女とよく似た顔ながら少し年齢を重ねたように見えるため、少女の母親だろうか。それでも身長は少女とほとんど変わらない。
今考えれば人間という単語が出て来るのはおかしなことだったのかもしれないが、その時の私は完全に聞き逃していた。
お菓子は今までに食べたことのない不思議な美味しさを持っていた。私たちはお菓子を夢中で食べながら、少女とその家族たちに色々なことを話した。家族や身の回りのこと、学校や村のこと、海の向こうで勝っている戦争のことまで。何が珍しいのか分からなかったが、彼らは何でも不思議に思うほどの興味を持って私たちの話を聞いてくれた。唯一戦争の話については顔をしかめていたけれど。
そんなことをしているうちに、あっという間に辺りは暗くなり、家に帰らなければいけない時間が近づいていた。彼らにそのことを言うと、寂しそうではあったものの、又おいでと言って私と弟にそれぞれ一枚の葉っぱをくれた。これを持って森に入ればまたここに来られるそうだ。
私たちが少女とその家族にさよならを告げて小屋を出ると、とても冷たい風がさあっと吹き抜けた。気付いた時には私と弟はもう私たちの家の前に立っていた。
私たちは、軽く顔を見合わせた後に、この不思議な体験についてそれぞれの意見を話し合った。狸か狐に化かされた説、森の妖精説、早くに亡くなってしまった人の幽霊説、そもそも幻覚だったのではなどいろいろな説が出たが、遂に二人の意見が一致することは無かった。唯一同じ意見となったのは、このことは他の誰にも話さないということであった。
家に帰った後の私たちは、あの森にまた行くことは遂に無かった。海の向こうの噂だとしか思っていなかった戦争が、本当にすぐそこまで来ていたためである。兵隊が足りなかったのだろう我が国は、当時召集にはさすがに幼かったであろう私を召集し、弟は田舎に疎開してしまった。
極めつけとして、召集や疎開のドタバタのせいで、私たちは森への招待状であっただろうあの特別な葉っぱを無くしてしまっていた。
出征の直前、無性にあの家族に会いたくなり、私は一人で禁忌の森へと向かった。しかし、葉っぱを持っていなかったためか、兵隊という死の匂いがいけなかったのかは分からないが、行けども行けども風は吹かず、あの集落にたどり着くことも無かった。
あの大戦争によって、禁忌の森はもう亡い。
何とか戦争から帰った私は真っ先に森を見に行ったが、空襲か何かによって焼けてしまっていた。
ただ境にあった樫の木だけは焼けず、未だにそれだけがぽつんと立っていた。
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